- Amazon.co.jp ・本 (370ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062171120
感想・レビュー・書評
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在特会を語ることで、在特会を生み出したこの社会や普通の人々に潜む「在特会的なるもの」を描き出した圧巻のノンフィクション。最終章で、安田さんは「理解でも同情でもなく、ただ在特会に吸い寄せられる人の姿を知りたかった」と書いているが、最後まで読んで思ったことは、この本は在特会を批判するものでもあげつらうものでもなく、在特会という特異な存在の下に潜む、この社会の狂気だ。家や家族としての組織がもたらす「連帯」や「団結」は、うまくいかないという焦燥や孤独をかき消してくれる。ネットの世界は現実社会と違って人々をセレクトしない。その懐の深さが多くの人を受け入れ、認めてくれるという感覚と居心地のよさを生み出している。そしてそっち側に行くのは、決して難しいことではないということ。
この本には様々な批判が寄せられているのを見る。自分が持つ思想や信条から在特会の主張自体に疑問を呈する内容に反対する在特会側の人もいれば、あまりに在特会に寄り添いすぎているという取材態度の批判をする人もいるという。ものすごい量インタビューと、綿密な取材によって描かれたものであっても、当然安田さんの会える人、安田さんから見える世界を描いたものであるから、様々な批判があるのは仕方がないようにも見える。しかし、在特会なるものへの問題提起はものすごく重要であり、それ以外の批判はどうでもいいものに思える。
在特会の人びとが「反エリート主義」や「これは階級闘争だ」と話すのを聞くと、聞き慣れた構造に安心した一方で、最後の方に書かれていた市井の「いい人たち」の中に潜む無自覚な差別の感情や、目に見えない在特会への支持を、より恐ろしく感じる。「日常生活のなかで感じる不安や不満が、行き場所を探してたどり着いた地平」が「愛国よという名の戦場」という症状は、けっして「うまくいかない」人や生きづらい人達だけに生まれているものではない、と思う。
私の担当する「多文化交流ゼミ」という授業の中で、移民に関するテーマでディスカッションをしたときも、「日本に同化できないなら帰ればいいのに」「税金もきちんと払っていないのに、権利を主張するのはおかしい」という発言をさらっと言う学生がいる。英語で話しているから、言えることに限界がある、主張が単純化されるということを差し引いても、まじめで勉強熱心で、多文化交流や国際的なことに興味がある若い学生が持つ、そのシンプルで迷いのない感覚を恐ろしいと思うことがある。優秀で難関の公立大学に入学し、何不自由なく暮らし、将来の夢に満ちあふれ、友達が多くてリア充の代表みたいな彼女たちが持つ感覚にも在特会を支えるロジックは潜んでいる。
安田さんの言うように、在特会のいる「あっち」側と、普通の人々が住む「こっち」側には明確な境界線などないのだ。だからこそ在特会の叫ぶことばは対岸の火事などではなく、それを導きだすロジックや感情は自分のなかにもきっとどこかにあって、その引き金もあっちこっちに散らばっているのではないかと思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ジョック・ヤングの『排除型社会』を読んだ直後であったのであまり驚きを受けることもなく淡々と読み進められた。
あらゆる権威が無効化され非正規雇用が珍しくなくなった後期近代、ましてやノルウェーのウトヤ島乱射事件の犯人ブレイヴィクが羨望するほどの閉鎖的・不寛容的政策を取っている日本で在特会のような存在が登場するのは必定である。著者が『在特会は「生まれた」のではない。私たちが「産み落とした」のだ。』と言っているのはそのような文脈においてであろう。
言うまでもなく、現代の経済活動に生き生きと生を謳歌する個人は全く重要ではない。ただミスなく粛々と働く「マシーン」さえいればいい。実際人間が行なっていた労働は機械が取って代わり、他の労働の多くも日本人にやらせる意味はなくなってしまった。
経済市場とそれに適応した政策下に「産み落とされた」在特会という「うまくいかない人たち」。彼らは現在の日本社会というシステムの生産品である、故に(一部ではあるが)その活動を承認する人間がいるのは当然である。しかしその承認はただ都合がいいからなされるだけで、彼らの孤独を癒すものではない。また在特会の「仲間」たちの承認もモルヒネでしかない。確かにまるでサークル活動のようにみんなでワイワイ騒ぐのは楽しいことだろう。野球場での応援のごとくみんなで同じ言葉を一斉に口にする愉悦は身が溶けてしまいそうなほどだろう。だがそれはやはり刹那的快楽にすぎないのだ。
刹那的快楽を是とする資本主義によって産み落とされ、それを謳歌する者たちを恨み怨嗟している在特会。にもかかわらずその快楽の調達方法が資本主義的であるというのはあまりにも皮肉な話である。 -
立ち読み、飛ばし読みにて読了
結局のところ、ネトウヨも在特会も
「こうであるはずだ!」
と現実にそぐわないもの(「日本の税金で」→外国人も納税者)でも、疑わず、反対知識(これすらも「こうだ!」と決めつけ)を勉強することもなく決めつけ、もしくは曲解して信仰しているにすぎず
また、在特会の実態として「自分達が苦しんでいるのに…」という思いから「(自分達の国で)外国人のくせに生活保護ももらえて、人によってはパチンコや焼肉屋で大成功してるなんて…」しかも「少しくらい不便な扱いを受けたからと差別だ何だと騒ぎ立てやがって」という自国の政府に選挙や直接行動をもって訴えるべきことを「手近な、弱い(抵抗力の弱い)」外国人に訴えるといったことを「自らの職業や名前を隠して(ネットでは匿名性、街宣で顔は出るが職業や名前を隠したり、芸名のようなものを使って…通名批判してるのにね…)」を行っているだけじゃないかとの感想
ただ、本に載っていた14歳のネットから情報を得て理論武装(もどき)をしている少年の一面的な見方に類似の人間が増えているのだとすれば寒気を覚える。 -
「在特会」を「自分とは全く関係のない人間の集まりである」という認識を持っている方にとってはおそらく受け入れ難い内容になるだろうし、「レイシスト集団を徹頭徹尾糾弾する」といった内容を求めているのであれば肩透かしを食らうだろう。ただ、オビにある「われわれ日本人の"意識"が生み出した怪物ではないのか?」という問題提起と著者の至った結論には非常に頷けた。「ではどうする?」という点については本書を読んだ各人がそれぞれの立場で考えるしかないのだろう。
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なぜ在特会は勢力を拡大できたのか? 著者の結論に納得。在特会固有の問題ではないことを認識した。
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★鬱屈は思わぬところに表出する★5年ぶりくらいに再読した。「うまくいかない人たち」の鬱屈の発散の場所という指摘はそのとおりだろう。思想的な背景はなくても、デモで承認欲求も満たされる。形を変えた文化祭だろう。著者の粘り強い取材は改めて読み返しても深く面白い。
それ以上に、本書でも指摘しているように、その後ろに多数広がる声を上げない「うまくいかない人たち」の憤懣がどこかで臨界点を迎えることの方が怖い。それはトランプ米大統領の誕生と同じ理屈だろう、と思っていたら、桜井代表は「日本第一党」という団体を立ち上げているとは。あまりの劣化コピーと、それが支持を得ておらず話題にもなっていないことに安心した。過激すぎてネットのルールに引っかかったのも大きいのか。 -
在特会・在特会シンパは、「右翼でも保守でもない」と言われる。確かにそうだ。では奴らはいったい何者なのか? 本書はそれを「あなたの隣人」と結論付けている。どこにでもいるその辺の誰かさんが、ある日ネットで、「君の人生がうまく行かないのは、在日朝鮮人のせいなんだよ」と甘く囁かれた。ただそれだけ。行動する保守は、イライラを解消する手段がちょっとヘンなだけの、普通の人に過ぎない、と。丹念な取材によって浮かび上がるメンバーそれぞれの実像には、「自分だって、まかり間違えばこんな風に……」という恐ろしさがある。
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在特会を追いかけたルポ。
在特会がいかにして今のように目立つ存在になったのか、その下品なアジテーションやはっきりしない方向性のために旧来の左派や右派からも孤立しながらも持続しているのはなぜなのか。
他で満たされなかった承認欲求、居場所を与えている役割が大きいと著者は言う。そして、先行きの暗い日本に在特会的なものを醸成する土壌が誰の心にも存在していることも指摘している。
在特会という組織の観察を通して、現在の日本の寂しく不安な空気を描いている力作である。 -
恥ずかしいが言ってしまおう。本書は、現代におけるルポルタージュの最高峰である、と。
やや印象批判が目につくところもある。感傷的にすぎるところもある。
しかし、実際に様々な場面に取材し、キーマンの多様な面を鮮やかに浮き彫りにするその内容は、わずかな瑕疵を補っておおいに余りあると思う。
また、陰鬱たる思いにさせられるのも確か。
ごくごく「普通」の人たちがヘイトに走る現状は、著者が言うように怖い。
主要因の一つに筆者は「承認要求」を挙げるけれど、これらの諸現象を解決するにはどうすればいいのか、答えは見えない。
ヘイトはまさに日本を貶める行為なんだけど、やっぱ暴力による解決しかないのかなあ、とも思ってしまう。うーん。 -
二年振りぐらいに再読。