伏見宮─もうひとつの天皇家

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (354ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062180054

作品紹介・あらすじ

かつて「皇族」とは、いかなる存在だったのか?中世に世襲親王家として分岐し、独自の位置を占めた伏見宮系皇族。幕末の動乱、近代天皇制国家の成立後、その存在は徐々に数と重みを増し、変質してゆく…。万世一系の舞台裏、明治天皇と元勲・重臣の葛藤、大正・昭和期の宮さまたちの意外な姿と皇籍離脱までを描く。

感想・レビュー・書評

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  • ●伏見宮家の誕生。南北朝のゴタゴタの中で天皇になれるところをなれず、でも宮家を起こして、その血統がずーーっと維持されてきたのが伏見宮。だいたいは断絶して天皇家から養子が来るわけだが。伏見宮は男系で600年続いた。本来はうちが本家だという意識がある。伏見宮から今の天皇家が出たのだ!と。そういうことで室町時代以降、天皇家と伏見宮家が続いてきた。伏見宮家の子供は親王。天皇になりえる家という格が続いた。他にも宮家がつくられることはあったが長続きはしていない。

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    ●幕末維新期、孝明天皇時代、朝廷には孝明天皇の相談相手になるような、そこそこの年齢で信頼できる男性皇族がほとんどいなかったので出家していた伏見宮家の王子らが還俗するなど政界へ登場。伏見宮邦家が子だくさんで大勢が寺に入っていた。

    ●伏見宮朝彦は自分の家が南朝だと思っていた。出家の身だしネットもないので教えてもらわないとわからない。貴族なりの本などを見せてもらわないとわからない。当時の人間は明治になっても(たぶん現在も)多くが旧宮家(とくに伏見宮系)も天皇の親戚だくらいの漠然とした意識しかなかったはずで、600年も血統が離れてるとは知らない。坊主時代は川路聖謨と仲がよかった。

    ●維新において朝彦は佐幕派として活動、松平容保に近い。朝彦は政争で敗れ、初期明治政府から厄介払いされる。その怨念のようなものが子孫へ。宮中某重大事件、婚約破棄など問題児を輩出する家。(近年では竹田が交通事故で殺人してる)。

    ●薩摩べったりでニセ勅書など平気で使う策謀家、岩倉具視。

    ●孝明天皇は外国嫌い。日本を守らなきゃ!そのためには幕府の力は必要で、一挙の討幕とかは無理、危ないと考えている。あくまで幕府を叱咤して攘夷をさせたいという立場。幕府も苦しい立場。実力的にすぐに攘夷できるような戦力はない。公武合体で危機を乗り切ろうとなるが、それも機能不全。幕府・雄藩・朝廷の話し合いでは薩摩の意見はなかなか通らない。結局は長州ばかりか薩摩までもがやっぱ幕府倒さないと話が進まないとなる。

    ●晃は同族駆け落ち騒動で仁孝天皇ぶち切れでお寺へ。相手の女も死ぬまでお寺。この騒動の責任をとらされ父の邦家は隠居に。20年以上たって許されると活動開始、維新においては薩摩側。政界での発言力が増すと大名から贈り物が届いたりする。各藩は朝彦や晃を調停工作に利用しようとする。維新の(薩摩への)功績大で山階宮を立てる。幕末維新期の晃はカネない状態が続き、20人以上の使用人を抱えていたが、外出の際の供廻りが少ないと批判されていた。佐久間象山は晃と仲がよく、留守の晃を訪ねた帰路に暗殺された。

    ●親王だ宮家だといっても自活はできない。幕府から給料をもらうような立場で大名からカネをもらったり使用人、付き人を派遣してもらっていた。朝彦には薩摩藩が支援していたが政治的立場の変化で会津藩からの支援に変わる。どこのスネをかじるかということと政治的立場がリンク、支援する側はそこから天皇に自分に有利なことを入れ知恵してもらいたい。

    ●江戸時代まで天皇の子女だと大名家などへの嫁入りが無理なら出家。家を継ぐ王子以外も出家や他家への養子。門跡寺院。親王クラスはどこ摂関家ならどこ、とかだいたい決まってる。

    ●幕末、明治時代、旧宮家の人間も天皇になれると当然のように考えられていた。朝彦が皇位を狙っているとの怪文書が出ると孝明天皇は「そんな噂信じるわけない!朝彦を絶対絶対絶対信じてるから!」と朝彦に手紙。朝彦は怪文書否定の返事に諸大名の保証署名をもらうという騒動に。伏見宮の王子が天皇になるなどという話に一定の現実味があった。

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    ●伏見宮の能久は戊辰戦争で東北諸藩側に立った。東武天皇になろうとしてると噂された。1874年の竹橋事件では明治天皇が退位して有栖川宮が天皇になったとの噂が流れたと勝海舟の息子の嫁クララの日記にある。

    ●明治維新後、100万石の大名だと取り分が五公五民なら50万石なのでその1/10がずっともらえることになった。前田家は6万3688石、細川32968石、島津31400、、。宮家の財政は2万石クラスの小大名レベルで431石~560石。桂宮だけ1015石。皇族全体で4780石。摂家だと近衛1469、九条1297、二条818、一条665、鷹司526。清華家は菊亭691久我483、、、西園寺465、醍醐322など。現在価値で10万倍以上円かとは思うが、数千万円~数億円レベル。逆にいえば前田家は家の年間予算が現在価値で50億円以上規模だったわけだ。

    ●明治になるまでは親王といえども関白、太政大臣、右大臣左大臣より席次が下。道も譲る。明治になり親王はみんな上となった。

    ●伏見宮能久(1847〜1895、のちの北白川宮能久親王)は戊辰戦争では反新政府側に立って東北を転々。「東武天皇」になろうとしていた説もあり、天皇位への野心が噂されていた。とりあえず朝敵だったのは間違いない。能久の子が竹田宮をつくるので竹田恒泰はこの系譜。

    ●能久はドイツに留学。独身で元大名の嫁の実家みたいなスポンサーがいなかったので明治天皇に頼んで年2000円出してもらったが現地の社交界で年2万円(現在価値4億円〜)の散財、ドイツ貴族娘と勝手に婚約、留学延長したいなど。当時は西南戦争の真っ最中で明治天皇が激怒して帰国、謹慎蟄居になった。のち軍人になり台湾で陣没。騎馬像が皇居側にあるようで(1902年政策、近衛師団長によるらしい)。

    ●天皇の血統が綱渡りというのは江戸時代にもあったことで、明治天皇は不安。初期明治政府はカネがないので世襲四親王家(桂、閑院、有栖川、伏見)以外の宮家は一代宮家にすると決めたが明治天皇はそれに逆らい伏見宮からの派生宮家に後継を認めまくった。天皇の血統に近い桂宮は孝明天皇の姉が継いで断絶。閑院宮は断絶して伏見宮家から後継を出したが戦後に断絶。有栖川宮は明治終わりに断絶。天皇に近い宮家は血統断絶で、伏見宮家とそこからの派生宮家のみが残った。

    ●明治の皇室典範では明治天皇の意思を鑑みて動いた伊藤の頑張りで、永世皇族制(宮家の子孫はずっと皇族、4世まで親王、以降は王)が採用された。

    ●明治40年に皇室典範の増補案。この時には伏見宮からの派生宮家が5家も増え、のちの昭和天皇・秩父宮・高松宮と3人の皇孫が生まれていた。明治天皇の後継への不安がなくなっている状況だったので、五世孫以下の皇族は臣籍降下させるとなった。永世皇族制の廃止。臣籍降下からの皇族復帰はなし、など。

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    ●明治の旧宮家の初代たちは、坊主や日陰の身から宮家を立てさせてもらったという感謝の気持ちがあった。しかし2代目以降は生まれながらの宮家、皇族なので傲慢で大正天皇へのいたずらを自慢したり、気に入らないことがあると食事会を欠席するなど傲慢な振る舞いが見えてくる。朝融の婚約破棄騒動、宮中某重大事件、女中に孕ませるなど。

    ●皇族は軍人になることが義務になった。嫌だから臣籍降下したいとかも。一時金で100万円とかもらえる。留学費用や宮家の収入を自分で増やす者もいた。財政の自信があると皇族辞めたいということも=東久邇宮(朝彦の子)はトラブルメーカーだったが後に首相になる。1990年まで生きていた。102歳。

    ●維新期に大名らが皇族に接近したのと同じように昭和初期~、軍人が宮家、皇族に接近した。

    ●第二次大戦の敗戦、旧宮家は臣籍降下と。

    ●戦後、財産税は10万円以上の財産に25%、100万円以上に70%、500万円以上に85%、1500万円以上に90%。これによる各宮家の納税額は大財閥の一門と同じレベル。大倉財閥当主嘉七郎が1381万円。有栖川宮を引き継いだ高松宮が1002万円。すくないのは賀陽宮、東伏見宮、山階宮、三笠宮の100数十万円。邸宅処分、宝石、株券、別邸の売却など。で資産の多くが徴税されたり引き出し不能になったり宮家も苦労。

  • 昭和22年、皇族の臣籍降下によって11の宮家が消滅した。各家の名前はばらばらだが、意外なことに、すべての家が元をたどると「伏見宮」の系統につながるという。本書は、その伏見宮家の歴史を南北朝時代から昭和戦前期までたどったものだが、そこには「もうひとつの天皇家」として数々のドラマがあった。

    伏見宮家が歴史の表舞台に登場するのは、なんといっても幕末期であり、何度も名前を聞いた宮さまが華々しく登場する。今までの歴史書では脇役として描かれていた皇族の立場から幕末史を見ると、また違った風景が見えてくるのが不思議だ。

    最近、皇族の数の減少で皇統の維持が大きな問題となっているが、こうした問題はけっして新しいことではなく、実は江戸時代以前にも繰り返されている。一方で、明治以降、皇族の数は激増した。なぜなら、嗣子以外は出家するというルールの消滅、さらには死亡率が低下したという人口学的要因が生じたからである。皇族の増加は新たな財政問題を引き起こしたが、それでも新しい宮家の創設が続いたのは、明治天皇が人口学的観点から皇統の維持に危惧をいだいたためではなくか、と筆者は大胆に想像する。

    本書は、日本で初めての「皇族の歴史人口学」として読むことも可能であり、ぜひ、一読を薦めたい。

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著者プロフィール

1947年、東京生まれ。70年、慶應義塾大学経済学部卒業。出版社に入り、雑誌・書籍の編集に携わる傍ら、日本近・現代史に興味を抱く。主な著書に『侯爵家の娘 岩倉靖子とある時代』『華族たちの近代』(共に中公文庫)、『華族誕生 名誉と体面の明治』(講談社学術文庫)、『闘う皇族 ある宮家の三代』『皇族誕生』(共に、角川文庫)、『皇室一五〇年史』『皇族と天皇』(共にちくま新書)、『歴史の余白 日本近現代こぼれ話』(文春新書)などがある。

「2018年 『大正天皇婚約解消事件』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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