- Amazon.co.jp ・本 (194ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062189699
作品紹介・あらすじ
40歳になって、別れた恋人から山尾という名の赤ん坊を預かった「わたし」。以来10年余、せんべい工場の契約社員をしながら山尾を育ててきた。知人男性との逢瀬を重ねながらも、山尾に実の息子同然の愛情を注ぐ「わたし」。初老にさしかかり、母と女の狭間を生きる、シングルマザーの日常。
感想・レビュー・書評
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この本に書かれていること全てが私の心に突き刺さっていたたまれない気持ちでいっぱいになった。
母になること、子を育てること、いろんなことを諦めること、親が老いること、ままならない人生。
今の私の心境にあまりにもすっぽりと収まってぞわりとする。
例えばこんな文章。
ー惚けても万歳、と思う。汚れも万歳。何もできなくても万歳。年老いておめでとう。父と母に、大きな、具のない、白い塩むすびみたいな肯定を送りたい、と思う。
いい文章だな。
私の気持ちを代弁してくれてありがとう。
さて、本題は別のところにある。
主人公の「わたし」は幼馴染から突然預けられた赤ん坊「山尾」を10年間育てている。
寝ている子はすべてかみさまの捨て子だと思いながら。
血のつながりがあってもなくても関係ない。産んでも産まなくても関係ない。
そう、子供は「たまもの」なのだ。
もちろんリアリティには欠ける。現実じゃこうはいかない。
でもね、正直母性なんて私自身が信じてないから。
生まれた途端、いやお腹にいる時から可愛いって思う母親ばかりじゃない。
子を育てながら自分も母親になるんだよ。
だからね「わたし」と私はそんなに変わらない。
だからこそ、山尾がもう子供じゃなくなることが怖いんだね。
でもきっと大丈夫。
二人の関係は何があったって壊れないんだから。
いい作品。言葉の美しさも情景描写もみんな好き。
でもきっと読む人を選ぶ。
あ、でも男の子の母は共感してくれるかな。
山尾があまりにも可愛いから。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
小池昌代の小説らしい小説よりは、散文的な文章が好きな自分にとって「たまもの」は、久しぶりに小池昌代の詩人としての力に魅了された作品だ。
最近の小池昌代の小説は詩的な趣が後退して、こんな事を言うのもおこがましい話ではあるけれど、小説家の描く小説のようになってきたなと思うことが多い。それは筋立てだとか仕掛けだとかという面もあるにはあるが、むしろ言葉の使われ方の違いじゃないかと思う。
登場人物が日記について触れる印象的な場面がある。曰く、私の日記は単語ばかりだと。それがあたかも詩人その人の日記の様式であるように聞こえ、何か重さのあるものを受け止めた感覚が残る。言葉には様々な意味を指し示す矢印が張り付き、堅苦しく言えばそれは定義の問題に帰結するのだろうけれど、もう少し柔らかに言葉の発するものを受け止めたい、と主張する詩人の声が聞こえそうになる。
気付いてみると、この小説の文章には句読点が多い。一つひとつの言葉が文脈の中に埋もれて仕舞わないように、切り出されているかのよう。確かに言葉の輪郭は際立ち、無言で音読する頭の芯で一つひとつ立ち上がる。それはまるで小石を静な池の水面に投げ入れたかのように、小さくはあるが決して見過ごしようのない衝撃を生む。それでいて投げ入れた小石はラムネ菓子でできていたかのように、水に触れた瞬間からたちまち輪郭を失う。残される波紋のみがそこに物理的な力の掛かったことの確かな証拠を示す。波紋は程無くして収まり、再び静な鏡のような水面が現れる。もちろん、時を置かず幾つかの小石が投げ入れられることもある。ほんの少し中心をずらした同心円は呼応するように近づきはするが、お互いの波を乱すことなく行き交い、やがて鎮まる。決して不規則に水面が掻き乱されることは、ない。
言葉の余韻とでも言うべきものが、この本には満ちみちているのである。
しかし言葉は所詮記号に過ぎない。如何に言葉の力を引き出すことが詩人の才であるとしても、波紋はやがて鎮まる。それだけでは後には何も残らない。この散文の中でも触れられているが、音楽のように一瞬だけ空間を満たし、聴衆の心の水面に波紋を広げることは出来るが、終わってしまえば何も残らない。
しかし、この喩えは、楽譜という連想へと繋がる。楽譜に記されているものは記号に過ぎない。しかし、そこに託された音楽という実体のないものは、その記号の組合せを再現する肉体を経て空間の中に立ち上がる。それと同じように言葉という記号の、記号としての再現を促す力を信じ紙面の上に並べて見せることは、写真のように何かをそこに固定する作業ではなく、何かを未来に託すこと、つまりは永遠に固定しないことを目指すものであろう。ひょっとすると写真家が写真に託すものも同じようなものなのかも知れないが、ここでは二次元から立ち上がる三次元的表象の再現性は問われることがない。言葉は、あらゆる意味において自由である。散文の中で言葉は定義された意味を失い、音だけが新な地平を開いてゆく。
それこそが小池昌代の詩人としての魅力。そしてそんな詩人の書く小説を読む楽しみ。 -
40歳の頃、わたし(光世さん)は、とうに別れた昔の恋人から突然ひとりの赤ん坊を託される。しばらく預かって欲しいと頼まれただけだったが、半年後、男は消息を絶ってしまい、わたしの手元には「山尾」と名付けられた男の子の赤ん坊が残される。わたしは勤めていた編集プロダクションを退職し、せんべい工場で働きながら山尾を育てる。それから10余年、山尾はすくすく育ち・・・。
思いがけずシングルマザーになってしまった主人公、びっくりするような出来事のはずなのに、彼女は何ごとも淡々と受け止め、大切に山尾を育てる。山尾の名の由来は百人一首の柿本人麻呂「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかもねむ」で、他にも主人公が好きな美智子さま(当時妃殿下)の読まれた句などの引用もあり、詩人である著者の言葉づかいは小説というよりは散文風で、独特。なんともいえない心地よさがあり、たまに朗読したくなる。
小さな事件や日常の出来事、山尾の成長、ときどき主人公の恋や仕事の話。主人公には二人の恋人がいるが、どちらも妻子持ちの年配者だし、主人公自身ももう50代。いわゆる不倫なわけだが、どろどろ感がふしぎなくらいなく、肉体関係とか男女関係とかそういう安っぽい言葉をつかって表現したくないような情緒がある。男女のまじわりの場面ににいやらしさや扇情的な表現が全くなく、それでいてリアリティもあってなんともいい感じだ。逢引きの場所が神楽坂や浅草の、隠れ家のような旅館などであるのもいい。
男の子という未知の生き物を育てながら、老いてゆく両親や、高齢の大家さん夫婦、誰もが生きていれば素通りできない小さな問題など、主人公は悲愴ぶらず、大仰に騒ぎ立てず、軽やかに対応していく。これくらいの感情の起伏がいいなあ。しんどくならなくてちょうどよい。
「子はみんな、誰か特定の女の腹から生まれながら、そして一応は、どこか特定の家に繋がれた家畜のような顔をしながら、でも誰にも、どこにも所属しない、落ちてきたもの、捨てられたもの、誰のものでもない者、なんじゃないか。産んだ者の所有権、そんなものなんか、ないと、この偽の母は思う。」
という部分に、なぜか大河ドラマの直虎さまを思い出した。うろおぼえだけど、自分の産んだ子がいないからこそ、すべての子供が我が子のように可愛いのだ、というようなことを直虎さまが言ってたなあと。
「ぬばたまの夜。たれるチチもなく、たらちねの母でもないわたしが、あしびきの山どりの尾の、なが-い夜を、ひとり寝るとき、あっちにもこっちにも、独り寝している男や女がいて、わたしも含めたそいつらが、わっしょい、わっしょい、夢のなかで、透明な子宝の神輿をかついでいる。その白い神輿が、明け方に、しんしんと通る。」
という部分もとても好きだ。不可思議な事件が起こるわけではないし妖怪変化も登場しないのに、読後になぜか優しいファンタジーを読んだような気持ちになり、それでいてものすごく現実的な日常を生きる元気も沸いてくる。とても良かった。 -
何も起こらない話が苦手な私も、何だか気になり読み進められた。
題名がいい。 -
R5/7/22
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40歳になる主人公の未婚の女性は、幼馴染で高校生の時に付き合ったことのある男性から、8ヶ月の男の子、山尾を預かった。程なくその父親は失踪。両親の協力を得ながら、1人で山尾を育て上げた10年間が書かれている。甘やかすでもなく、血の繋がらないことに引け目を感じさせるわけでもなく、随所に惜しみなく注がれる愛情をひしひしと感じられた。両親や付き合いのある男性に老いを感じる寂しさ。「順番は守れ」と山尾に言った一言が印象に残った。
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昔の男から突然、男の赤ちゃんを預かった40歳の「わたし」。
以来10余年「山尾」という名の血の繋がらない子を
「わたし」は育ててきた。
そんなシングルマザーの話。
著者の小池昌代さんは母であるが
「狭い血のつながりで
親子のことを書きたくなかったから」
この作品を書いたのだと言う。
脚本家の岡田惠和さんも
他人の集まりである「家族」をよく描くが
血縁ではないだけに
より深い理解や愛情で結ばれることがある。
「家族の絆」こそがすべて、と群れたがる人も多いが
私はそのベタついた感じが苦手で
小池さんが言うように
血のつながりなんぞちっちゃいものだ、と思う。
親と子であればもっと深く大きなもので
つながっているのだ、ということを
小池さんは書きたかったのだろう。
私は子供を産んだことも預かったことも
育てたこともないが
一度、子供を懐に受け入れたら
きっと離したくなくなるのではないかと思う。
女にはどうしようもなく母性というものがあって
だから血が繋がらない子でも
自分の手で育てることができる。
血とは関係なく、その子は自分の子供になる。
そんな「わたし」には男が二人いる。
「男たち」には家庭がある。
だから「遠くの山なみ」だと思っている。
「最後の最後、関わり合いになることもない」が
会えば、想いをつのらせることもある。
「つかのま一つになる」ことをやめることもない。
これもまた母性なのだろうと思う。
子供であろうと男であろうと
人はいつか必ず離れ離れになる。
それでも女は
いや だから女は
それらを自らの体で受け止めるのだ。
それが 人をひねり出す性である女の
特殊能力である以上
決して逃げてはいけないのである。
そんな生々しい作品ではあるが、
小池昌代さんは詩人なので、
キラリと光を放つ言葉や表現が随所に見つかる。
夜空に星を探すような楽しみがある。
また
すぐれた歌詠みである美智子皇后のエピソードを
紹介したりもしていて
エッセイのように読むこともできる。
淡々とした作品ながら
じわじわと心の奥にしみこむ一冊である。 -
なんとなくモヤモヤ感が残った。
いろんなことが、ぷつっぷつっと途切れる感じ。
文学的というか…。
どれも中途半端な印象。