研究を深める5つの問い 「科学」の転換期における研究者思考 (ブルーバックス)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062579100

作品紹介・あらすじ

科学や技術に対する社会の信頼が揺らいでいます。このような時代において、これまでと同じように「論文を書いていればいい」「自分の専門領域を対象とした研究をがんばればいい」というだけでは、優れた研究成果をあげることが難しくなっています。では、研究者はどのように考え、行動すべきでしょうか。その根源となる「研究者思考」を、研究者自身で探究できるようにするのが本書です。
スライドやポスターの添削など、これまで1000件を超すプレゼン指導経験から著者が見いだした「研究の本質」について、未来ある若手研究者に向けてわかりやすい言葉で問いかけながら案内していきます。

感想・レビュー・書評

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  • 1000件を超すプレゼン指導経験から著者が見いだした「研究の本質」を、未来ある若手研究者に向けてわかりやすい言葉で問いかけながら案内する。

  • ◎信州大学附属図書館OPACのリンクはこちら:
    https://www-lib.shinshu-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB18456296

  • 880

    プレゼン指導もやってる研究者の方で、科学とは何か、科学との付き合い方、より良い研究者になる為にどうすればいいかが書かれた本。異分野から学ぶ事は大事だと言ってる。


    宮野公樹
    1973年生まれ。博士(工学)。京都大学学際融合教育研究推進センター准教授。2011~2014年には総長学事補佐、および2010~2014年には文部科学省研究振興局基礎基盤研究課ナノテクノロジー・材料開発推進室学術調査官を兼任。専門領域は、異分野融合についての学問論、大学論、および政策科学。南部陽一郎研究奨励賞、日本金属学会論文賞他多数




     それは、本質(または真理とおきかえてもいい)を得るためには、「これだ!」といった決定的な方法があるわけでなく、むしろ多視点的なアプローチでこそ得られるということをあなたが肌で感じているからです。現時点で未知なるものを知りえようとするなら、針一本を持って一点集中的に突っついたとしても、その未知なるものの形はいっこうにわかりません。さまざまな方向からさまざまなところを突っついてこそ、その未知なるものの形が浮かび上がってくるものです。事実、あなたも自身の研究において主張したい結論を導こうとするとき、複数の仮説、複数のアプローチ方法、複数の環境条件設定をもって検討を行っていることでしょう。それとまったく同じ理由で、本質をついたリサーチクエスチョンを得るためには多視的に考えることが大事なのです。

    なお、ここで注意してほしいのが「多視的」という言葉です。著者独自の定義ですが、これはさまざまな目線で対象を見るということであり、特定の点をいろんな方向から見るという「多角的」とは異なります。この「多角的」は検証作業には向きますが、本質探索には「多視的」が欠かせません。 すでにあるなにかを検討するのではなく、そこには なにがあるのかを検討するには、さまざまな視点から検討し、自分が最初に持った問題意識すらも疑うことが大事だからです。

    一見、この突き詰めることで本質を得る(本質に到達する)という方法は(もちろん本人たちはまだまだ到達したと思っていないでしょうが)、先ほどの多視的なものと相対するように思えますがそうでもありません。とかく、1つのことを突き詰めようとすると決してその1つの領域で完結しえないものです。職人もまたある技に特化するためにあらゆることを視野に入れて思考します。たとえば、染織においては、色素となる植物等の素材はもちろん、水、気温、そして土までにもこだわって究極の仕事を成そうとするでしょう。

    それは、ちょうど入り口は小さな点ですが、その点は全体につながっている様子です。狭い世界にとどまることなく、常に(自然に)世界全体にもつながっている──個別から全体へ、具体から普遍へ──このように思考し挑戦しているからこそ、本質といわれる境地に達したのだと思います。  ただ、この「突き詰める」という方法は人ひとりの人生分ぐらいの長時間を要します。であるからこそ、「伝統」という名で100年単位の伝承となり得るわけですが、これを 今日の 研究者にあてはめるのはあまりにも酷でしょう。オープンな競争下における時間軸が伝統とは大きく異なるからです。やはり、多視的アプローチが今日の研究者になじむのです。

    一方で、質的な名声評価もあります。それは、その研究のリサーチクエスチョンが本質をおさえているため、個別領域を越えた多くの領域の人たちからも「あの人は本物だ……」といった評価を得ることです。そういう評価は、論文 数 や受賞 数 では得られません。その人の言動から、それを聞いた人が感じるものだからです。量的な名声評価によって露出が多くなった人の記事を読んだことなどがきっかけになるケースは多いでしょう。ただし、その言葉に触れたあとで「この人は確かにすごい……」と感じるかどうかは別です。

    「生きるためには村から出ないといけない」──この現実は、優れた学者像のあり方にも再構築を迫るものです。偉大な学者といわれる人たちのなかには、生涯特定の村に住み続け、1つのテーマに没頭し人生を捧げた人も少なくありません。これは先に述べた「突き詰める方法」にあたります。しかし、今日の状況においては、それが、学術環境的に難しくなっているのです。そのような場所も時間も今の研究者は持ちえません。したがって、今後、先のような偉大な学者は出にくいでしょうし、逆にこれまでとは異なる形での「偉大な学者像」がうまれてくるでしょう。であるからこそ、本書を手に取った「未来志向の研究者」にはぜひこれを見越してリサーチクエスチョンを立ててほしいのです。

    本書をここまで読んできた方の多くは、「一分野を築くとまではいわないが、せめてなにか後世に残せるような仕事をしたい」とは思っているかもしれません。しかし、この場合、「どの程度『いい仕事』を成すか」の点で差はあっても、「『いい仕事』を成す」こと自体には同意してもらっていると思います。

    あなたが解決したい課題を「多視点」でしっかり考え、そのためにどのようなステップを踏むべきか、なにが必要かを考えます。そして、そういった課題解決のための「体系」を構築し、その体系のなかの1つとして今の研究を位置づけるということになるのです。これは極めて当たり前のことで、実際にあなたも今、そのようにしていることでしょう。しかし、文章として論文に記載するからには、「その課題を解決するところまで責任がある」と考えたほうがいいということなのです。

    2013年、さまざまな学術分野の研究文化を比較した アンケート調査を京都大学内で実施したことがあります。その際、「論文と著書、どちらを業績としてより高く評価しますか?」という設問に、理科系の場合、「論文」と答えた人は約 85%、文科系は約 21%でした。一方、「著書」と答えたのは理科系1・3%、文科系は 34%でした。このように、実は論文を重視するのは理科系特有の特徴であり、いうならば、書籍という手法も学術界全体としては十分認められる媒体なのです。 「理科系」あるいは「科学」というものが変わろうとしている今、若い研究者の方々には、早くから書籍という手法も念頭においてほしいのです。

    なお、このようなアンケート結果となった理由は、理科系と文科系の研究スタイルの違いに起因しています。たとえば、理科系は「納得」するデータや理論式をもって他者を「説得」します。一方、文科系は「説得」をもって他者を「納得」させます。つまり、文科系は理科系のように確実性のある証拠を提示できないため、相手に「ほほー」といわせる絶妙な論理展開をもってして「私はこう考える」を滔々と述べるのです。それはすなわち、相手を説得するという行為です。結果、説得が成功すれば、「納得」にいたるわけです。そして、このような語り手順での説得には、ある程度の文量が必要です。文科系の論文は 1 本 40 ページぐらいのものがあったり、論文よりも著書のほうを業績として高く位置づけしたりするのは、こういった理由からだと思います。

    科学が進歩するのは、社会において間違いなくよいこと」と考えることは、当たり前のようになっています。事実、これまで「科学」は社会の発展に多くの貢献をしています。それゆえ、「社会の発展や課題解決は、科学の進歩にかかっている」と考えるのが自然に見えるかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょう。

    この流れは、いわゆる「論理」というものです。この「論理」のみを抽出すれば、すなわち、対象と対峙し客観的に計測した実験結果をもって結論を導くという「型」のみに着目すれば、その「型」はさまざまな対象(現象)にあてはめることができます。さまざまなものに適用できるということは、すなわち「普遍」です。こうした客観性をベースとした論理性と普遍性を持つ学問領域は、科学以外にありません。たとえば、文学が対象とする文芸作品は少し乱暴にいうなら主観の産物です(いってみれば、それは「なぜ人生はこうなのだ?」といったような「WHY」の気持ちです)。また、社会学が対象とする社会は人の集団から成り立つので、これもまた主観の集合です(人はそれぞれさまざまな価値観を持っているため)。  このように、「客観性」という身体を持った科学は、「論理性」を武器として最強の「普遍」となり、他の学問領域を圧倒して発展してきたのです。

    また、こうした「限界があるという自覚」を持つことは、「科学以外の他分野からも学ぼう」とする謙虚な姿勢にもつながります。未来に価値を花開かせる「いい仕事」をめざす若手研究者には、ぜひ自覚してほしいのです。

    やや極論的で語弊も含むように聞こえるかもしれませんが、複雑系研究という存在は、科学がよりどころとしている考え方に間違いなく一石を投じたといえるでしょう。

    ここで大事なのは、科学が得るのは「近似解」や「限定解」であるという 宿命的自覚 を理解しているかどうかなのです。「自分がたずさわっている科学が今日の社会を創ってきたし、これからもそうだ」という自負を持つと共に、「近似解でしかない」という科学の限界も認めたうえで、それでもなお科学研究を実施していく──こういった対立の往来でこそ知性は磨かれ、本質へとせまっていきます。このような研究者の思考熟度は、そのまま研究の熟度にも反映されていきますので、「いい仕事」を成すためにはどうしても不可欠な考え方なのです。

    「そもそも なぜ その関係があるのか?」について語ろうとすると、そこからは各自の「認識」が関係してきます。つまり、どうしても個人の経験や価値観といった「主観」が入ることになります。たとえば、「物質とはなにか」を解明するとします。科学では、とことんその構成要素や構成法則にこだわって考えていきますが、「そもそも物質とはいかなる存在か。なぜ物質が 在る のか、ないといけないのか」といったことまでは科学では考えません。もしそれをまともに考えようとすると、ある人は「意識を持った人間というものが存在しているから物質が在るのだ」というかもしれません。別の人は「そこに神の存在が在るから」というかもしれません。

    なお、ここでは今日的な学術界の環境によって「反証可能性」が減り、科学発展の問題となっていることを述べました。しかし、実際は反証主義そのものにも限界があります。その1つが、時間軸の無考慮です。ある結論が提示されたとき、その反証は直ちに行われるものではありません。そのため、ある一定期間、最初に示された結論が「真」として生き続けることになります。反証が出るまで数年、あるいは数百年かかるとなると、現時点で「真」としているものは本当に「真」ではないかもしれない──すなわち、すべては「仮説」にすぎないということです。  特に、「科学」は他の学術分野と比較しても非常に膨大な知識の 蓄積で成り立っています。しかし、その蓄積もまたすべて「仮説」。つまり、「科学」はいつでも根本から 崩れうるものだ、という姿勢でいることは、科学者として当然のことです。これは、極めて当たり前のことで、科学者はみな自覚していることだと思います。

    「社会に役立つことをやろう、社会と結びつきを深めよう」ということ自体が悪いというのではありません。科学者は「社会に役立つ」ことに、短絡的に囚われるべきではないということをいいたいのです。社会において学問を担う研究者としての本来の役目は、社会が課題としていることに対し「その課題は 本当に 解決すべき課題なのか?」を問うことです。それこそが、大学のやるべき研究(あるいは学問)の価値です。現象の根本をあつかう学者として、普遍真理と照らし合わせて「その課題は課題たるか?」を問う姿勢を持つこと──これが本来の学問の構えであり、特に現代社会において重要なことなのです。

    テストで点数を取るために必要なのは「勉強」です。「学問」ではありません。しかし、本来、江戸時代後期の寺子屋に代表されるように、人々は「自分を高めるため」に学んでいました。

    「自分を高めるため」に学ぶことで、ある事実についての異なる視点での受けとめ方を知る機会を得られます。すると、その事実がまた違ったように見えてきます。これが「理解を深めること」です。同じ事実でも、二重三重の「想い」を持って接するようになることで、「味わい」や「憂い」を感じることにつながり、おのずから感謝の念へとつながっていきます。その結果、この世で一番貴重な「時間」というもの、すなわち、「限られた自分の生」をより意義あるものにできることになります。「学ぶことは生きること」であり、「生きることそのもの」なのです。  今、こういった考え方が失われつつあり、学ぶことは「点数を取るためのもの」で、「食っていくためのもの」になってしまっています。

    そうして、社会(経済)の発展に直接貢献することのみが「科学」である、という考えが大勢を支配しているのが現状ということです。このような状況で、本来、「科学」が文学や歴史学と同じ学問の1つだと訴えても、その主張は通用しません。「科学」は、人類に発展や利益をもたらす特別な存在となってしまっているのです。

    「思考」を鍛えるとは、考えを「磨く」ことです。磨くとは、自分以外のものと接触することで成り立ちます。よって、「思考」を鍛える手法としては、他者、特に異分野の人と交わることが有効です。

    昨今、異分野融合が叫ばれて久しいです。異分野融合を良しとする考え方には2つあります。1つは「重層化、複合化する社会的課題に挑むには単一分野では不十分」という考え方です。もう1つは「異分野と接することでなにかヒントや気づきを得られる」という考え方です。

    つまり、異なる分野と接することは異なる「知識」(=単語的な)を得るだけでなく、異なる「考え方」(=文法的な)に触れることにもなるのです。このように考えることで、思考を磨くことができます。

    「異なる考え方を得る」については、たとえば次のような分野間での違いから見えてきます。 ・ある分野では結果よりもプロセスを大事にするが、他の分野はその逆であるなど(純粋な自然理解と課題解決を念頭におく分野では異なる) ・課題に対してとにかく自分自身でこつこつやることを良しとする分野、あるいは、大勢と積極的に交わってチーム戦のように研究を推進することを良しとする分野があるなど ・一般的には、理学系において伝統的な領域ほど「社会応用する」ということに少し距離をおきたがる傾向があると思います。

    実は、本書の執筆にあたってよりどころとなっているのは、哲学、科学哲学、現代文明論、学問論、大学論の知見です。これらの研究者にとってはよく聞く内容も本書に書かれています。しかし、それらは、科学研究にたずさわるあなたには、新鮮なものとなっているのではないでしょうか。このように、異分野のなかでも文科系、特に科学や大学というものを「俯瞰的にとらえる領域」と接することは、「科学」から一歩横にずれて眺めるという客観的な目線を得ることにつながります。それが、あなた自身の研究について深い理解を得るためにおよぼす効果は計り知れません。

     さて、異分野の研究者と交わる意義についてまとめるにあたり、その本来的な意義について再度考えてみます。異分野の研究者と交わる意義は、研究の進め方のような具体的な違いを知ることだけではありません。各分野が伝統的に持つ「世界観」や「自然観」「人間観」を知ることにもあります。各分野では、無意識に考えられている「ものの見方」があります。それらが自分の分野とどう違うかは、意識していないとなかなか気づきにくいものですが、実はそれを知ることにこそ、異分野と交わる本来的な意義があるのです。 「世界観」の違いには、たとえば次のようなものがあります。

    「自然観」や「人間観」の違いに関しては、次のようなものがあります。  個人は、「集団(社会)を構成する一単位にすぎない存在である」と考えるか否か。  集団(社会)は、「個人のために存在する」と考えるか否か。  人間は、「自然の一部としての存在である」と考えるか否か。  人間は、「他の動物とはまったく異なる存在である」と考えるか否か。  人間は、「機械的に理解できる存在である」と考えるか否か。  人間は、「社会においてはじめて人間になる存在である」と考えるか否か。  人間の中核は、「感情や衝動、欲望よりも、理性である」と考えるか否かです。

     まず、自分の専門以外に関心がないために、意見がいえないどころか会話にもならない問題があります。また、なにかをいいたくても、「果たしてその内容が発言に値するだろうか」「他の専門家たちに笑われはしないか」と考え、発言を控えてしまいます。このような理由でせっかく異分野の人が集まる場に出ても「交わる」ことができないのです。

     ところで、教育もまた「発する」の1つといえます。教えることは学ぶことと同じ、つまり、なにかを学ぼうとするとき、もっとも学習効果が高いのは他者に教えることです。たとえば学生に教えようとするときは、自分の知識を再度おさらいもし、それを説明するために、伏線となる考え方や前提知識を伝える準備もしなければなりません。1を教えるためには 10 知っていなければならないため、人に教えるときになってはじめて気がつくことは多々あるというわけです。  このように、他者に説明したり教えたりする機会を持つということは、非常に自分自身のためになるため、まさに「思考」を鍛えるにふさわしい場であるといえます。

     さて、ここで「『思考』を鍛える」をまとめます。「思考」を鍛えるとは他の分野や業種と交わることによって達成されます。しかし、当然ながら、単純にあなたの住む世界との違いを知って楽しむだけでは、真に思考は磨かれません。「考え方」の違いを知ることは、間違いなく自分の「考え方の幅を拡大させること」につながります。しかし、「あー、そういう考え方もあるんだな」で終わっては意味がないのです。だからといって、「異分野と接して得たことを取り入れ、具体的に自分が変わっていきなさい」といった「物理的な変化」の重要性をいいたいのではありません。

     原点である心のほう、つまり、自分の世界との違いから深い理解をいかに得たか、得ようとするかにこだわる姿勢こそが、「『思考』を鍛える」究極だと思うのです。そういう意識を持って、異分野や異業種と接し、他流試合で堂々と発言し恥をかき、そして学べばよいのです。どの業種でも同じですが、「プロフェッショナル」とは学び続けることなのです。

     さて、すでにお気づきだと思いますが、これらの項目は、「いい仕事」を成すために必須の項目と同じです。つまり、「伝達」という技を磨くことは、まさに「いい仕事」を成すことに直結するのです。「伝達」は、決して相手を動かすためだけのものではありません。「他者に教えようとするときに、自分も一番学べる」という事実と同じように、自分のためにも「伝達」があるのです。

     こういうことを書くと「それではただの便利屋として使われるだけになる」と思われるかもしれません。そういうことをいう人は「使う立場」のほうがいいという前提があるように思いますが、むしろ、この世のなかにおいて「使われていない人」など一人もいません(たとえば、国のトップとされる大統領や総理大臣もまた国民に仕える身です)。とことん使われればいいのです。そうして量をこなすことで、自分の質が高まってきます。一つ一つの仕事を「真剣勝負の場」としてとらえ、場数を踏んでいくことで自分の質というものが個性を帯びていき、その個性を大勢が求めることになるでしょう。それが「技術」を鍛える習慣というものです。

    ただ、いずれにせよ、全体の傾向としては、「科学」、あるいは「技術」に対して100年前と同じような期待感はなく、「物」が人生を豊かにするとは心から信じられなくなっていることはいえそうです。

     しかし、今は100年前のような「科学・技術イケイケの時代」とは違います。パソコンや携帯電話など、嗜好品的なものはどんどん最先端になっていくので、社会レベルの問題もまた技術が解決してくれそうだと考えたくなりますが、そうではありません。

    最後の最後に、いつも支えてくれる家族(石川、東京、滋賀の)と、本書のコンセプトから校正までを共に作りこんだ妻・真弓に心から感謝します。

  •  研究発表をもっと小劇化したTEDなど「プレゼン」の指導をしている著者が、指導をとおして研究者に対して抱いている疑問をまとめ、研究そのものへの問いかけに仕上げた本。
    # 私はプレゼンそのものに価値を認識できていない。
     対象は、科学者になるであろうとなんとなく院で暮らしている人たちであり、将来研究で身を立てるに当たっての心がけと、考えの確認を行うというスタイルで書かれている。
    まず、研究者集団の階層を明確に示し、村やご近所でオリジナリティを発揮しても井の中の蛙に過ぎないことを辛辣に述べることからはじめている。そして、研究の本質や目的と課題設定・結果のギャップを深く考えること、コピペの目的や大風呂敷で人を欺いてはいけないとくる。さらに、同人誌まがいの学会誌や商用雑誌への掲載を目標とした論文の意味をよく考え自分の業績は自分で作り上げること、査読システムがほぼ破綻している科学界で再現性や厳密性は問えないことと続いていく。最後は、いい仕事をするため自分を鍛えなければならないと、研究者に限らず、先進的な仕事をする人全体にわたり普遍的に生きてくる問いかけで締めくくる。
     なかなかストレートな書きぶりで気に入った。すらっと読めるので、時折開いて研究の意義を考え、部下や後輩に仕事の心がけを伝えるよすがとしたい。

  • 古本屋へ

  • 論文執筆の心構えについて書かれている章「論文を書こうと思っていませんか?」を読んで納得した。

  • 敢えてネガティブな評価まではしないが物足りなさが残る.
    著者の自己満足的なところを感じてしまう.

  • 三葛館新書 407||MI

    『研究発表のためのスライドデザイン』(講談社ブルーバックス)の著者による本書。デザインだけでは不十分で、「研究テーマそのものの「深堀り」についてしっかり述べておきたい」との考えからうまれたとのことで、著者の研究や研究生活に対するスタンスが述べられています。
    研究者の先生方や大学院生のみなさまには批判的に読んでいただき、これからの自身の研究や研究生活について考えるきっかけとしていただければと思います。


    目次(出版社サイトより転載)---------
    はじめに
    【問い1】 誰をライバルと想定して研究していますか?
    (学問領域細分化傾向へのアンチテーゼ)
    【問い2】 あなたの本当の目的はなんですか?
    (妄信的、または無思考的個別主義へのアンチテーゼ)
    【問い3】 論文を書こうと思っていませんか?
    (論文至上主義へのアンチテーゼ)
    【問い4】 「科学」を妄信していませんか?
    (科学至上主義へのアンチテーゼ)
    【問い5】 研究者として「自分」を鍛えていますか?
    (本書のまとめにかえてのプロフェッショナル実践論)
    エピローグ 次なる時代の科学は
    -----------------------------------------

    (もも)

    和医大図書館ではココ → http://opac.wakayama-med.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=81345

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著者プロフィール

京都大学教授

「2021年 『問いの立て方』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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