- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062582087
作品紹介・あらすじ
知の考古学者、フーコー。そのまなざしは、「主体」「権力」「自己」「性」の根元へと向けられる。いかにして人は服従する主体となるのか、あるいは、言説を形作っている知の様式は時代・文化によりどう変わるのか…。もっとも刺激的な思想家を、やさしく、まるごと理解するための最適教科書。
感想・レビュー・書評
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フーコーの生涯、思想のキーワード、人々とのかかわり、著作解題と言った内容。フーコーの著作と言うよりフーコーという人間の方に焦点を当てている。
かなり平易な書き方で書かれているが、最後の『フーコー最後のメッセージ』という章が、「フーコーが考えたことをもっと知りたい!」と思わせてくれる内容で印象に残った。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
フーコー入門書。さいしょの方はよくわかったけれど、後の方の用語解説などは、どこからどうつながっていくのかわからなかった。あくまでもこれから深く読んでいくためのもの、という扱いでこれだけでフーコーの事を理解するのは難しい
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■985, 2019.10.26
・常識あるいは通念を疑う(起源を問う)ことと、学問を楽しいものにする、といったふわっとしたことしかわからず。具体的な部分としてはパノプティコンによる「権力の自動化」の解説があった。
・フーコーの伝記的な部分が多い。同時代の他の思想家とこの時期に仲がよかったとか悪かったとか。 -
170408 中央図書館
やさしいタッチの解説書。キーワード解説や、代表著作の概要など。 -
フーコーの思想をあの手この手で立体的に解説している。読みやすいが、同じ文章がそのまま繰り返されるような内容的重複がやや目につく。思想自体の詳しい解説と言うよりは、伝記に近い印象。
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「講談社選書メチエ・知の教科書」シリーズの一冊です。
まずは、教師と学生の対話形式で書かれた「プロローグ」で、捕鯨問題を手がかりにフーコーの「人間の終焉」という考え方が説明されています。日本の捕鯨を非難する環境保護団体が、反対の理由として「鯨は、知能が高くて人間に近い動物だから」と説明していたことがありました。これは、人間をすべての中心に置いて動物に優劣をつける発想にほかなりません。こうした指摘をおこなったうえで著者は、「フーコーが、「人間の死」を語ったのは、なぜだろうか?」という問いかけます。「それは、あらゆる生物の頂点に立って地球の命運を支配することができると思い込んだ「人間」認識は、けっして昔からあったものではなく、近代産業社会がつくり出したものだということを指摘したかったから」というのが、その答えです。
その後、フーコーの生涯やキーワード、テーマ別の解説、著作解題、そして読書案内などへとつづきます。『監獄の誕生』を紹介しているところでは、花輪和一のマンガ『刑務所の中』(青林工藝社)がとりあげられています。このマンガは、改造銃を所持していたことで逮捕された花輪が、刑務所での服役体験を表現したものです。著者はこの作品が、フーコーのいう「ディシプリン」の極めて克明な証言だと述べています。
また、フーコーと日本についても、一つの項目を立てて解説がなされています。日本の仏教における修道生活は、我執にとらわれる個人という領域を脱して、非個人化、非主体化へと向かうことをめざしていることにフーコーは注目していました。ここで著者は、清沢満之の主張した「全責任主義」という立場に触れています。清沢によれば、〈私〉という存在は、すべての環境の結果として生まれてきた存在です。こうしたあらゆるものの連関の中にある〈私〉は、万物に対して責任がありながら、すべての責任を果たすことができません。清沢は、責任がありながら果たすことができない自分の存在について深く自覚することで、他人を受け入れた自己としての「無我」の境地に赴くことができると考えます。著者は、こうした清沢の「全責任主義」の発想のうちに、フーコーがおこなった近代の主体主義に対する批判と通じるものを見ようとしています。
また著者は、フーコーが2度目の日本滞在時にゲイバーなどに出かけたことに触れ、また、日本の居酒屋文化に、西洋で失われた男どうしの友情(朋友愛)を見出し共感を抱いたことや、大島渚監督の「愛のコリーダ」をめぐって、男性の性器は男に属するものではなく、男女の間の絆と捉えられていることにフーコーが注目し、ヨーロッパを支配する「ファロス中心主義」が日本では存在しないと語っていたことが紹介されています。ただ、日本の居酒屋文化に関しては、ホモソーシャルの問題を無視することができず、単純にそこでの男どうしの交流と絆の結びつきを称揚するわけにはいかないように思います。 -
フーコーが熱い