フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062582407

作品紹介・あらすじ

「世界が現象する」とはどういうことなのか。フッサールの問題系に気鋭の哲学者が挑む。驚きに満ちた「現象学」解説の、そしてフッサール解体の試み。

感想・レビュー・書評

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  • とても読みやすい。文章がすんなりと入ってくる感じ。超越的還元で行き着くところが何なのか、現象するとはどういうことか解ったような気がするのだけど、なのに、結局何なのだろうと考えてしまう。たぶん、とてもいい本なのだろうが。

  • フッサールとの対峙し、格闘する。明瞭に言語化する作業は偉業だ。
    特に第3章 記号と意味ー「現象」の内実が素晴らしい。息を飲む。

    ・自己同一的なものとはすでにして過ぎ去り・失われたものの「反復」なのであり、
    したがって認識とはつねに再認なのである。(P155)
    ・「記号」とは原理的に何ものかが不在であることもって、その不在であるものが現前するという機構。
    ・すべては不在を孕んだ「意味」(=記号)として現象する(P156)

  • これも途中まで。このレーベルを疎んじていたが、案外いい本。
    今度暇を見て残りを読みたい。

  • フッサールの思考の進展を丹念に追いながら、超越論的現象学が本来的にたどり着いた認識の絶対根拠を明らかにしていく。現象学というものが実に根源を追求する学であることを、著者自らが実践しつつ納得させてくれる。

  • 第1章では、心理学主義と論理学主義のはざまの道を歩もうとしたフッサールの努力が、たいへんわかりやすく整理されている。第2章以下では、フッサールの思索した道を著者自身の哲学的思索を通じてたどりなおしている。著者の議論はたいへん明晰だが、「現象学的」と呼ぶにはやや思弁的な性格が強いように思う。

    フッサールは、世界の一般定立に判断停止を施すことで、「現象」と呼ばれる領野に立ち返ろうとする。これが「超越論的還元」である。しかしフッサールは、こうした方法による超越論的現象学が、「超越論的自我論」としてのみ可能だと考えていた。著者はフッサールの自我論の構想にはしたがわないで、すべてが「現象する」ことからしか始まらないという事態に目を向け、その仕組みを解明することをめざしている。

    著者はまず、現象する「何か」が「何か」であること、つまり自己自身に等しいことは、どのようにして可能なのかと問う。あらゆるものは時間の中に成立し、現象するや否やただちに流れ去ってゆく。そこでは、たえず不在へとみずからを譲り渡してゆくことの中で、はじめて現象が成り立っているのである。著者はこうした現象の仕組みを支えているのは、もはやないものを現象へと取り集める「想像力」だと考える。

    次に著者は、想像力が「私は……をなしうる」(Ich kann ...)という「能力性」として、私の身体に根を下ろしていることを明らかにする。しかも、そうした私の身体の運動=感覚に相関して、そのつど世界が「地」の上の「図」として描き出されることになる。フッサールのいう「地平」、世界のこうした構造を意味していたのだと著者は述べている。

    最後に著者は、「すべては現象する」ということからしか何ごとも始まらないにも関わらず、そのような事態が可能になっているのは、「すべて」が外部の「無」に接してしまっているからではないかと考える。そしてこのことは、すべての始まりである「現象すること」がその「起源」をみずからの内にもっておらず、その底が「無起源」へと抜けてしまっていることを意味する。著者は、晩年のフッサールの「生き生きした現在」をめぐる思索が、まさにこうした「無起源」をめぐる問題圏に触れていたのではないかと論じている。

  • [ 内容 ]
    「世界が現象する」とはどういうことなのか。
    フッサールの問題系に気鋭の哲学者が挑む。
    驚きに満ちた「現象学」解説の、そしてフッサール解体の試み。

    [ 目次 ]
    第1章 たび重なる「転回」―数学から超越論哲学へ
    第2章 事象そのものへ―「現象」への還元
    第3章 記号と意味―「現象」の内実
    第4章 身体と私―「現象」の媒体
    第5章 世界―「現象」の場所
    第6章 時間と他なるもの―「現象」の外部へ

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  • わかりやすいし、メルロポンティやデリダを読んで行く上でもよいガイドになっています。

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著者プロフィール

1957年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。哲学博士。現在、慶應義塾大学文学部哲学科教授。専攻は現象学、西洋近・現代哲学。
著書に『フッサール 起源への哲学』『レヴィナス 無起源からの思考』『知ること、黙すること、遣り過ごすこと』『「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦』(以上講談社)、『「実在」の形而上学』(岩波書店)、『デカルト――「われ思う」のは誰か』『デリダ――なぜ「脱-構築」は正義なのか』(以上NHK出版)、『生命と自由――現象学、生命科学、そして形而上学』(東京大学出版会)、『死の話をしよう――とりわけ、ジュニアとシニアのための哲学入門』(PHP研究所) など。

「2018年 『私は自由なのかもしれない』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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