南朝全史-大覚寺統から後南朝まで (講談社選書メチエ(334))

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  • Amazon.co.jp ・本 (244ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062583343

作品紹介・あらすじ

謎多き南朝。その実像は、政治・文化的実体をともなった本格政権だった。劣勢を余儀なくされながら、吉野山中になぜ長きにわたり存続できたのか。あらゆる史料を博捜し、「もう一つの朝延」二〇〇年の全過程を明らかにする。

感想・レビュー・書評

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  • 南朝の研究書を多く記している著者が南朝史を俯瞰できるように通史を書いたもの。よくまとまっている。扱っている年代はサブタイトルにあるように、朝廷が大覚寺統と持明院統に分裂するきっかけとなる、後嵯峨天皇が薨去した1272年から、後南朝の後胤についての最後の言及がいまのところ確認できる1479年までの約200年間となる。この年代を描きながら著者が目指しているのは、南朝が祭祀・統治機構の側面からして真っ当な政治機構と呼べることを示すこと。したがって南朝はそれ自体独立した権威として十分成り立っており、この時代は同等の権利を持って朝廷が北朝と南朝に分かれた「南北朝時代」と呼べること。また、足利政権は南朝を滅ぼそうとすれば滅ぼすことができたチャンスはいくらでもあったのに、なぜ南朝を存続させておき、最終的に北朝に吸収するという形での解決を望んだのかを示すことだ。

    第一章に挙げられている、後嵯峨天皇と両統迭立への流れはよく書けている。承久の乱以降、四条天皇の急死にともない鎌倉幕府は朝廷の再反乱を警戒して践祚に介入し、後嵯峨天皇を立てる。天皇退位後治天の君として院政を行った後嵯峨院は、鎌倉幕府への配慮からか後継者を定めずに薨去。ここから後深草天皇の系統と亀山天皇の系統がそれぞれが曖昧な後嵯峨天皇の遺志をかかげて正統性を主張することになる。いったんは治天の君として亀山院が隆盛を誇る。鎌倉幕府は当初、朝廷の践祚問題には不介入のつもりだったが北条時宗は皇位問題に介入し、後宇多天皇の皇太子として後深草院の皇子熙仁を立てる。片方の系統に不満が蓄積し、朝廷が不安定となることを恐れたのだろうか。しかしこうした優柔不断が結局は大混乱を呼ぶことはよくあることだ。

    また、亀山院の晩年になって生まれた寵愛の恒明親王から始まる大覚寺統の内部分裂が印象的に書かれている。恒明親王を何とか皇子に立坊しようとする朝廷内の勢力と、大覚寺統を受け継いだ後宇多・後二条の勢力に大覚寺統そのものが分裂する。そしてここに後醍醐天皇が登場することにより、大覚寺統は三つの筋に分裂してしまう。この中で「一代の主」として即位した後醍醐天皇が権勢をふるい、これに対向する形で持明院統は鎌倉幕府と軌を一にすることになる(p.71f)。

    第三章・第四章では南朝の歴史とその機構をたどっている。中心としているのはその都度の天皇が出した綸旨である。綸旨が誰により、誰に対してどんな内容で出されているかを元にして、著者は天皇の影響力の範囲を探っている。また、基本的に史料が不足している南朝の研究を補うために、著者は『新葉和歌集』を持ちだしている。こうした和歌集の和歌には、その前段として和歌が詠まれた状況を説明する詞書が付されている。ここに大きな資料価値がある。これは特に後村上天皇の治世下の状況を探るのに役だっている。和歌集の編纂のような文化事業が行われたこと、また政治・訴訟機構を備えていること、真言宗の僧を中心とした宗教行事も行われていたことから、著者は南朝を独立した一つの朝廷とみることができると主張している(p.189f)。第五章は小倉宮を始めとする後亀山天皇の皇胤たち、つまり後南朝の活動と、足利義教の後南朝断絶宣言を巡っている。ここはこの主題を扱った別書があることからやや軽い扱いとなっている。

    さて南朝がかくも長期に渡って存続した理由がこの本の一つの主題である。それは九州や陸奥を始めとする地方勢力を取り込むという南朝の戦略がある程度成功したこと、悪党・山賊など当時の政治体制外の勢力の組織化に成功したこと、また何よりも足利政権自体が観応の擾乱で内部分裂を起こしたことがあろう。しかし南朝は足利政権への抵抗勢力の旗印として担がれるものだったから、足利政権としては早く片付けて置きたいものだったろう。にもかかわらず南朝が潰されなかった「決定的な理由は、やはり、その裏返しとしての、武家政権=幕府に継承された、南朝に対する基本的な考え方であったと思われる」(p.215f)。まず、鎌倉幕府が皇統に介入することにより、両統迭立の伝統が暗黙のうちに生まれた。とはいえ両統から均等に皇位を割り振るのはなかなか難しく、両統迭立の原則は両統不可断絶の方針に取って代わられる。足利義満が主導した明徳の和議でさえ、結局は果たされたなかったが、このなかに両統迭立の事項が入っている。そうした理由を著者はこう書く。
    「公武統一政権の樹立を企図した室町幕府三代将軍足利義満が、南朝を実力で潰すことを避け、あくまで平和裡での合体を望んだのはなぜであろうか。おそらく、南朝を武力で潰し皇統を断絶させても根絶はむずかしく、いずれ分散・沈潜したその皇胤を擁立して抵抗勢力が決起する。そういう抵抗のための大義名分が成立する余地を残さないために、合体の儀式を行うことによって、神器を正式に接収することが不可欠であったのではないだろうか。その意味では、合体に応じたことは南朝にとって完全な敗北であったといえる。[...]ようするに、武家政権が伝統的に保持したきたこのような微温的な「両統不可断絶」の原則が、結果的に南朝を潰させることなく、合体まで延命させたと考えられるのである。」(p.217f)

    とはいえこうした平和のうちに収めたつもりでも結局は収まっておらず、足利義教の南朝断絶宣言に至ることになる。それまでの前例を重んじて何とか体面を保とうとしたがうまく行かず、強力なリーダーシップで一刀両断したということだろうか。だとすると、同じようにリーダーシップを発揮できる状況にあった足利義満が両統不可断絶にこだわった理由がよく分からない。これは総合的に広い見地からの検討を必要とする事柄だが、とりあえずは幕府に対して権威付けを与える朝廷に分裂という瑕疵があってはならないという考えが書かれている(p.135f)。この辺りがもっと掘り下げられるべきところということになろう。

  • 南朝は確かに天皇が吉野にいたことは知っていますが、それがどこまで「朝廷」としての体をなしていたのか、意外と知らない時代です。著者は南朝が実態を伴った朝廷であったことをいろいろな文献を元に論証していきますので、引きずられるように読みました。天皇家の2統に踵をあわせて、主だった貴族も相続争いから2統に別れて、一方が南朝へ、そして九州探題などの地方が朝廷を支える経済的な基盤だった・・・!「新葉和歌集」という南朝・長慶天皇期の准勅撰集の分析により、朝廷の主要メンバーを推測するなど、斬新な本だという印象です。大覚寺・持明院の興りから、それぞれの特徴を分析し、一統以後の南朝勢力の復興運動が根絶やしになるまで、長期間にまたがって記述しています。天皇家の断絶が騒がれる昨今ですが、南朝の子孫はどうなっているのでしょうか?この時代の伏見宮の系統が旧皇族(昭和22年臣籍降下)に繋がるわけですから、古いようでいて、そう古い時代でもないわけですから。

  • 勢力としては決して大きい訳では無かった南朝が、何故半世紀以上に渡り北朝の抵抗勢力として生き永らえていくことができたのか、分かりやすく解説してくれる。

  •  南朝の事を知りたくて読んだ。本書では南朝の歴史が、大覚寺統と持明院統の分裂―建武の新政―南北朝の時代―後南朝という流れで通史的に叙述される。南朝の研究は、南北朝正閏問題の影響による戦後の南朝軽視、残存史料の少なさから、これまで進んでこなかったという。

     本書によると、日本の中世は分裂と抗争の時代だった。すなわち、様々な階層、場所において種々の分裂と抗争が生起し、それが歴史を推進する原動力となった。分裂と抗争は皇室にも波及し、鎌倉時代中頃に皇統が大覚寺統(亀山院)と持明院統(後深草院)に分かれることとなった。きっかけは後嵯峨院が後継者を決めずに薨去したことだったが、これに伴って行われた北条時宗の皇位問題への介入が、結果的に両統の迭立に道を開くこととなった。

     両統は最初から対立関係にあったわけではなかったが、弘安末には皇位をめぐる対立が表面化した。鎌倉幕府は積極的に皇位問題に介入しようとしたのではなかった。しかし、両流がともに断絶しないことを大原則としたので、廃絶の危機にさらされた一方から泣きつかれると、不本意ながらその調停に乗り出すことを強いられた。鎌倉時代を通じて、幕府は皇位について両統迭立(実際は変則的)を基本方針とした。この幕府の方針が両統を存立させることとなった。

     このような流れのなかで大覚寺統の後醍醐天皇は即位し、すさまじい勢いで王権至上主義(聖断主義)を強力に推進した。後醍醐の王権至上主義は大覚寺統の政治遂行上の特質を受け継いだものだったが、これを高揚させたものは中継ぎとされた後醍醐自身の宿命的制約だった。この制約を体制的に保証するのが鎌倉幕府であり、幕府を排除せずしてこの制約の破棄は考えられない。後醍醐の王権至上主義が倒幕に向かう必然性はここにあった。後醍醐は、倒幕のために綸旨によって軍勢を集めるなど、それまで天皇に縁のなかった軍事にも関与した。後醍醐が軍事指揮権を勅裁事項にしようとしたことは、後に武家支配をめぐって足利尊氏との対立を招いた。

     正中の変、元弘の変を経て、1333年に鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は建武の新政を開始した。後醍醐は夥しい数の綸旨を発給した。綸旨は天皇親政の盛況の度合いをはかるバロメーターだ。また、「汗の如きの綸言」(『玉葉』)と言われたように、綸旨はいったん出たら引っ込まない点に権威の源泉があった。こうして、後醍醐は綸旨に万能の力を与え、これによる専制政治を目指した。建武の新政では、守護職や地頭職の補任など武家社会の事柄まで綸旨でもって処理した。しかし、森氏は次のように述べる。
    「後醍醐天皇のもとには、毎日多くのさまざまの奏事が届き、天皇はそれらに対して何らかの裁可を下さなければならなかった。いかに有能な君主であろうと、個人の事務処理能力にはおのずから限界がある。綸旨万能を標榜し、名実ともなる親政を貫徹しようとした後醍醐天皇ではあったが、拙速ゆえの誤判や手違いが続出し、スローガンどおりにはゆかなくなった。……乱発された綸旨は整理されねばならなかった。……後醍醐天皇は、建武の新政を支える屋台骨として創設した雑訴決断所に乱発綸旨の整理という仕事を課すことによって、混迷の度を深める土地問題をなんとか切り抜けようとしたのだろう。しかし、事態はそうした小手先の対応で処すことができないほど深刻化していた。」(第二章、p.76-77)

     さらに、二条河原落書で批評された綸旨の偽造の横行や、綸旨の撤回がされたことは、綸旨の権威を失墜させることとなった。また、後醍醐政権の陣容はかなりセクト色の濃いものだったため、政権の外部には強い不満があったという。

     その後、徹底的な天皇親政を目指す後醍醐天皇を中心とする公家勢力と、足利尊氏を棟梁と仰ぐ武家勢力は対立し、1336年、後醍醐は神器を奉じて吉野へ逃れることとなった。南北朝の並立は、鎌倉後期以降の大覚寺統と持明院統の皇位をめぐる熾烈な争いが、その決定的な導火線だった。南朝約六〇年の間には、後醍醐・後村上・長慶・後亀山の四代の天皇が登場した。南朝は内裏や関連寺院を構え、主要な朝儀をきちんとこなす、小規模ながら朝廷としての要件を十分に備えたものだった。また、後醍醐以来の王権至上主義が継承された。この南北朝時代は、正平の一統(1351-1352年)を挟み、1392年の合体まで続いた。

     室町幕府は何度かチャンスがあったにもかかわらず、南朝を滅ぼしはしなかった。また、足利義満は南北朝合体に際して、風前の灯火同前の南朝に対し、殊更にその体面を慮った講和条件(天皇は今後旧南北両方から交代で出す、など)を示し、神器の譲渡という南北合体のセレモニーに拘った。その理由について、森氏は次のように述べる。
    「その機はあったのに室町幕府が南朝の息の根を止めなかったのも、足利義満が明徳三年(一三九二)にあえて合体のセレモニーにこだわったのも、理由はともに南朝を平和裡に北朝と合体させ、皇統の一体化による『両統不可断絶』を達成しようと考えたからであろう。なぜ幕府はこれほど『両統不可断絶』に固執したのだろうか。この問題は、広い見地から総合的に検討されねばならないが、基本的には、武家政権の側に、幕府存立の理論的根拠を与えているのは天皇家だという考え方があり、その天皇家が分裂したままであったり、ましてや一方が断絶するようなことがあっては理論的根拠を与える母体に瑕疵が生じ、当の理論そのものの十全さを損なうという思考からいまだ解放されなかったためではないだろうか。」(第三章、p.135-136)

     鎌倉幕府が堅持した「両統不可断絶」という原則は、室町幕府にも受け継がれた。この武家政権に継承された基本的な考え方が、南朝が潰されずに長期間延命できた決定的な理由だった。

     また、森氏は「たとえ壊滅的な状況であろうとも分裂した王権を生きたまま放置することが支配権力にとっていかに危険きわまりないか、足利義満は熟知していたのであろう」という。すなわち、南朝を分裂したまま残しておくと、幕府内部の抗争などが起こった際に、北朝をいただく体制派に対して反体制派から擁立される可能性がある。このため、「将来に禍根を残さないためにも、正式な合体のセレモニーを経ることによって、南朝を名実ともに解消しておく必要があった」という。(第五章、p.204)

     しかし、幕府が合体条件を履行することはなかった。また、半世紀以上独立した朝廷の実質を維持し続けた南朝とこれに連なる勢力が、合体儀式という一片の約束事で簡単に消滅することはなかった。合体の儀式後も皇位をめぐる抗争は長く続くこととなり(後南朝)、地方ではなお南朝勢力の残存はおおうべくもなかった。それは、後醍醐天皇や南朝の歴代天皇が地方の武士や寺社にじかに綸旨を下して、彼ら在地勢力を直接的に掌握しようとしたことと無関係ではなかった。騒擾事件が起こると、反体制派は旧南朝の皇胤を旗印に擁立し、あたかも南北朝動乱の再来のような形勢となった。

     本書からは、天皇親政、すなわち天皇自身による政治主導が失敗した場合には、その権威が取り返しのつかないほどに失墜してしまうことがよくわかる。後醍醐の遺言「玉骨はたとひ南山の苔にうづもるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」(『太平記』巻二一)からは、その無念がひしひしと伝わってくる。また近年、「愛子様を天皇に」といった主張が見られるが、将来に禍根を残しかねなかったり、ましてや皇統の分裂をもたらしかねない皇位継承の方法は、絶対に避けられるべきだと思った。南朝の行宮が置かれた吉野や賀名生を訪れてみたいものだ。

  • 両統迭立の前史から後醍醐天皇による建武の新政、そして応仁の乱まで南朝が歴史に与えてきたものを概括した内容。
    「闇の歴史、後南朝」よりマシでしたが、ここでも長慶天皇はサラリと流されていて、思い余って「津軽南朝秘聞」を注文しました。津軽からすれば中央とつながる大事なポイントと思っても、中央からすれば取るに足らないことなのが改めてわかります。

  • 南北朝並立の背景となった大覚寺統・持明院統の対立から、後南朝までの南朝方の動きを詳細な文献研究から解明していく一冊。南朝で開かれた歌会を南朝を読み解くための資料として使っているのが特徴的。専門的な一冊なので門外漢がすべてを理解することは困難ですが、一度斜め読みしておくと南朝に関わるテキストを読んだときに抵抗感が低くなる効果はある一冊。
    個人的に興味深かったのは、後村上天皇が自身のやっている儀式を、橿原宮で行われていた儀式になぞらえた一句。京都にいられなくなって吉野に逃げた、という見方は大局的には正しいのだけど、京都に遷都する前の本来の都・大和に戻って政治をしている、という大義名分もそれはそれで説得力のあるものだったんだな、と。
    日本で半世紀にわたり、対立する二つの政府が並立した時代は珍しく。それが成立した背景を感じられる一冊。

  •  大覚寺統の分立から後南朝の終焉に至る南朝の通史。武家政権への依存度が高い北朝に対して、南朝は訴訟実務における天皇の「聴断」制に明示されるように、万機親裁の「王権至上主義」という特色があり、その傾向はすでに鎌倉時代の後宇多院政期に現れているという。また、弱体ながらも南朝が長期間継続した要因として、地方(特に九州と東国)の在地勢力の支援に加えて、幕府側があくまで「両統断絶不可」原則に固執して、一方の滅亡による両統合一ではなく、大義名分の立った合体を目指したことを挙げている。史料的制約もあって南朝を支えた社会経済的構造への言及は少なく、もっぱら皇位継承を軸とする政局や南朝関係の皇族・公卿等の人事に関する叙述が中心である。

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著者プロフィール

1949年、長崎県生まれ。九州大学大学院博士課程中途退学。福岡大学名誉教授。文学博士(1985年 九州大学)。専門は中世日本の政治と文化。著書に、『太平記の群像』『闇の歴史、後南朝』『室町幕府崩壊』(角川ソフィア文庫)、『足利尊氏』『足利直義』(角川選書)、『南朝全史』(講談社選書メチエ)、『戦争の日本史8 南北朝の動乱』(吉川弘文館)、『後醍醐天皇』(中公新書)、『増補改訂 南北朝期公武関係史の研究』(思文閣出版)など多数。

「2023年 『足利義満』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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