『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか (講談社選書メチエ)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (338ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062584173

作品紹介・あらすじ

われわれはどのように存在しているのか-人間存在根本の問いに『眼蔵』はいかに答えるか。ヨーロッパ現代思想も凌駕する画期的思想書に気鋭の禅僧が己の実在を賭けて挑む、現代人のための入門書にして決定版。

感想・レビュー・書評

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  • 231117-5-3
    序章 読みの方法-『眼蔵』はどこにあるのか
    第1章 存在するとはどういうことか―「現成公案」を読む1
    第2章 「現成公案」を読む2
    第3章 存在から行為へ――「脱落」という方法
    縁起する自己
    縁起する世界
    第4章 縁起する認識、縁起する言語
    第5章 実践するとはどういうことか
    坐禅、縁起への身投げ
    作法、仏を生成する行為
    因果、「自己をならう」方法
    終章 自己を課す意志

  • 「仏道をならうとは自己をわするるなり」はこれまで世間を生きてきた「私」を仏法を修行する主体、その生の様式に改造せよということ。

    あるものの存在はそれ以外とのものとの関係から生成される。縁起ということ。

    存在する一切のものは言語化・概念化する前に無常であり縁起するという存在の仕方をしている。

    認識する自己と認識される対象が別々にあって、それが接触することで知覚や認識が成立されるわけでない。坐禅における知覚や認識は、この枠組みを解脱する。これを解脱すれば、それが「ことに触れない」という坐禅の「知」となる。

    一般的に思考方法が正しいかどうかを決めるのは、方法自体ではない。何のためにその方法を用いるかという「目的」との整合性と、日常経験、実験で確かめられる使用「効果」による。

  • 気軽に「理解できた」とは言えないし、理解したとも思っていない。それでも、読んでよかったと感じている。少し考えを熟成させてから再読したい。

  •  久し振りに目を皿のようにして読んだ本。書き出し部分がタカピーな感じだったのでそのままうっちゃっていたが、気を取り直して読み始めた。
     確固たる本質のようなものが自分を離れたところに存在するとと考えてはならない。存在とか意味というものは彼我との間でその一瞬一瞬に生起されるものであり、何かしら永遠不変のものが独立してあるのではない。否、その「彼我」という概念ですら、対象が我を差し置いた存在としているが、それは誤った知見である。この一瞬一瞬の生起のことを著者は「縁」という言葉で表す。
     著者の解釈が全て正しいのかどうかは分からない。そぉ〜か〜?と首を捻る箇所も部分的になかったわけではない。
     それでも、「存在とは縁と縁の触れ合いによるものであり、固定したものの見方をしてはならない、山が歩くということもあり得るのだ」という指摘には背中がぞくぞくした。
     二十代の頃に正法眼蔵に一通り目を通したことはあるが、何一つ分からなかった。
     この本により「万物進みてこれを証する」という意味がやっと分かった気になれた。
     躓き躓き行きつ戻りつしながら読み終えるのに一ヶ月以上も掛かってしまったが、それだけの価値はある。

  • 『正法眼蔵』を、フッサールやハイデガーのものの捉え方を手がかりに読み解いたもの、という印象。仏教のものの見方の肝である「縁起」を軸にブレない読み解きを展開する。勉強になった。

  • 「Aは,それ自体に実体があるから存在しているのではなく,非Aとの関係するから存在している。」という「縁起」の考え方によって道元禅師『正法眼蔵』を解釈した本。
    良い意味で入門書ではなく,仏教の基本的な知識が必要。
    特に「因果」に関する部分は難解。
    何度も読み返して「問い」を繰り返したい本。

  • 正法眼蔵の訳書、解説書は数多あり、また巻数も多くなかなか手を出せないでいたが、偶然とは言え、手に取ったのが本書で良かったと思う。何割理解できたかと問われれば答えに窮するが、一言で言うなれば「腑に落ちた」。以降、南氏の著作が続く。

    再読201704
    p29 (私訳) 諸法(我々が認識する一切を)の仏法なる時説(仏の目で見る=仏の言葉で言うなれば)、すなわち迷悟あり〜(「ある」が「在る」と同時に「なし」が「在る」=世俗諦)。万法ともに〜(この「在る」の世界から脱出するならば)、まどいなくさとりなく〜(こうした我々を誤らせる「在る」の世界が消滅する)。仏道もとより〜ゆえに(仏道はこの「ある/なし」が在る世界から出たもの(対岸にあるもの)であるから)、生滅あり〜(生/滅〜を外から見ている=勝義諦)。しかもかくのごとくなりと〜(そうは言えど、惜しまれつつ散るものを花と呼び、望まれず繁茂するものを草と呼ぶ)。
    p31 机という関係の定型化は、それ以外の型の排除=「机として使おうとする主体(私)の働きかけ(期待)」と読みたい

  • とりあえずあと2回くらい読まないとよく理解できなさそう。
    もうちょっと年とったら読み返そうかな。

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著者プロフィール

1958年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店に勤務。1984年、曹洞宗で出家得度、同年、大本山永平寺に入山。以後、約20年の修行生活を送る。2003年に下山。現在、福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代。著書に、『語る禅僧』(ちくま文庫)、『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『「問い」から始まる仏教――私を探る自己との対話』(佼成出版社)、『老師と少年』(新潮文庫)、『『正法眼蔵』を読む――存在するとはどういうことか』(講談社選書メチエ)、『出家の覚悟――日本を救う仏教からのアプローチ』(スマラサーラ氏との共著、サンガ選書)、『人は死ぬから生きられる――脳科学者と禅僧の問答』(茂木健一郎氏との共著、新潮新書)など多数。

「2023年 『賭ける仏教 出家の本懐を問う6つの対話』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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