ベルクソン=時間と空間の哲学 (講談社選書メチエ)

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著者 : 中村昇
  • 講談社 (2014年1月11日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062585705

ベルクソン=時間と空間の哲学 (講談社選書メチエ)の感想・レビュー・書評

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  • 自分の解釈よりもその哲学者が言ってることを正確に理解することが大切

  •  知覚はつねに持続のうちにある。持続するならそこには記憶がある。あらゆる知覚はすでにして記憶である。わたしの内的な状態=記憶は外界の対象へと浸透している。あらゆる対象は浸透しあう精神的側面をもつ。わたしとあなたと物質界が持続において通低しあう地続きなら、わたしの持続から出発し、精神性へと深くはいりこむためにどうしても必要な方法がある。

    『「小さいころは甘いものが好きだったが、いまはそれほどたべなくなった」といったとたんに〈甘い〉という堅固で変化しないおなじ感覚が、あたかもずっと存在しつづけているように錯覚してしまう。おなじもの(甘いもの)にたいするこちらの態度(好み)が、歳をとるにつれて変化したかのように表現してしまう、というわけだ。ところが、甘さそのものが、実は変化していたのだと気づくと、今度は、その変化に影響されず一貫したこちら側の感覚があるとかんがえ、それを「好み」となづけ固定する。』32頁

  • 【超速読】どんなことが書いてあるのかな、という程度の読み方でした。

  • 熊野純彦訳が出たからではないが、興味を惹かれて読んでみた。フランスの哲学が嫌いなわけではないが、なぜか今までベルクソンに興味を持てなかったんだよなぁ。
    読んだ感じ、ベルクソンってかなりフッサールに被るなぁ、と。読んでいて、ところどころ発生的現象学での議論を思い出した。といってもフッサールよりも言語に対する問題意識が強いのと、記憶という意外に哲学で真正面から取り組まれない概念に取り組んでる部分は面白いかった。ドゥルーズがベルクソンから影響を受けてるのは、この言語と持続のつながりの部分なんだろうなぁ、となんとなく。そして、言語についてはどこかソシュールにもつながる観点もある。
    フッサールとベルクソンということで言えば、フッサールが視覚的イメージで考えた一方、ベルクソンは聴覚的イメージで考えたって捉えると分かりやすくなるな。
    この本自体のスタンスは、ベルクソンを解説しつつかなり批判的な読み方をしているから、入門書として読むとどこからどこまでがベルクソンの考えなのか分かりにくくなりがちだった。
    冒頭から「なぜ生きているのか」という問いに答えられない哲学は無意味だと思う、とど直球で来て最後に著者なりの解答がされるんだが、うーん。この問い自体、個人的に興味を惹かれないのもあるけど、なんか論考の頃のウィトゲンシュタインみたいな答えで消化不良だな...。自我に場をもってきて回収する方向は苦手だわ。

  • ベルクソンの導入書としては最適でした。

    ●以下引用

    スクリーンいっぱいに、さまざまな出来事が展開されていく。それをじっとこちら側からみている。そこには、自分はもちろん登場しない。そのスクリーンが、世界という舞台で、観客が‹わたし›ということになる。たしかにこの観客席は移動するが、スクリーンと観客席の関係はけっしてずれない。つねに〈そこ〉からみつづけている。このようなあり方を〈わたし〉はしている

    ★『精神のエネルギー』より/
    ・ようするに、時間において現在の瞬間に閉じこめられ、空間において特定の場所にかぎられ、自動的にはたらいて外部からの影響に機械的に反応するからだとはべつに、空間におけるからだよりはるか遠くに拡がり、時間をつらぬいき持続するなにものかを、わたしたちはここでとらえている。それは予測される自動的な運動ではなく、予測できない自由な運動を、からだに要求し強制する。からだからあらゆる方向にあふれだし、みずから新たに生じることによって行為を創っていくこうしたものが、「われ」であり、「魂」であり精神なのだ。

    ★からだとは同一視できない、それを越えたものであり、みずからを創造しつづけるものが、ベルクソンのいう「われ」である。「われ」は、持続そのものでありたえまない創造行為ということになる

    視覚だけの世界では、ものは固定しているようにみえる。机は机として、本は本として、なんの変化もせずに存在しているかのようだ。でも、ほんの少しかんがえれば、それは、わたしたちの記憶による錯覚である

    「流れ」にこそベルクソンは、変化や運動の本質的に特徴をみているのだ。聴覚によってとらえられた世界は、連続していて切り刻むことのできない「流れ」をかたちづくっている

    目をとじて、ただそれだけを意識しながらきくメロディは、われわれの内的生の流動性そのものである時間にきわめて近い

    途切れることなく、つづいていく持続は、音楽のように耳に鳴りひびいている。視覚によってとらえられた静止画像ではなく、あらゆる部分がいっときもとどまることのない動画のように、鼓膜を恒常的に振動させているのだ

    思考の習慣的なはたらきは容易であり、望むだけつづけられる。直観は苦しいものであり、ながくつづきはしない。知的な理解にせよ直観にせよ、おそらく思考はいつも言語をつかっている。そして直観も思考であるかぎり、最後にはなんらかの概念に収まるのだ

    ★わたしたちは、この世界のなかでわかりやすい境界に区切られて生きているわけではない。自分自身の身体と外界との区別もはっきりしていない。刻々とこぼれおちていく細胞やたえまない呼吸など、どこをとっても曖昧な境目しかない。岩だろうが鉄だろうが、徐々に変容しつづけまわりと浸透しあっている。どんなに堅固な固体でも、つねに微細に崩壊していく

    言語によって、たえず運動しているものを表現してしまうと、その運動は消えてしまう。言語は静物しかえがけない

    わたしたちの単純感覚は、自然な状態で考察されるなら、まだそれほど堅固さを示さないだろう

    ベルクソン/それはちょうど、詩の意味を、詩を構成する文字の形に求め、文字の数を増やせば、どこまでも逃げて行く意味を最後にはとらえられるとおもい、しかしひとつひとつの文字のなかに意味の部分をさがしてもだめだとわかり、窮余の一策として、文字とつぎの文字とのあいだにもとめていた神秘的な意味の断片が宿っている、とおもうようなもの

    詩の意味は、文字には存在していない。意味の相から、文字の相へとおりていくことによってしか意味は把握できない。ということは、意味の相へ一気にはいらなければ(直観)、そもそも意味を手にすることはできないのだ。(中略)文字によって意味は形成されているはずなのに、文字面には意味はない。文字をかうまでも手がかりにして意味の相へ直接はいっていかなければ意味がわからない。

    ★ベルクソンのいう「直観」とは、画家の眼のようなものだ。われわれが外界の事物をとらえるさいには、通常は、「机」だの「コップ」だの既成の語によって文節してみている。そこに机があって、そのうえにコップがのっている、などなど。そのようにみることによって、生活はたんたんとつづいていく。しかし、すぐれた画家は、そのような世界のわかりやすいわけ方ではなく、さまざまな微細で複雑な色合い、光線による微妙な輝きやすくすみ、よどみや凹凸、ことばのうえではわけられている事物がずるずると連続していくさまなど、かぎりなく細かく多様で稠密なあり方を凝視する。このような画家の眼を獲得するためには、われわれは、日常のわかりやすく生活に役にたつものの見方をいったんやめ、外側を無垢な眼でじっとみつめなければならないだろう。あるいは、そのような無垢な眼を訓練によって手にいれなければならない

    ベルクソン/実をいうと、このためには知性の習慣的なはたらきを転倒しなければならない。普通、かんがえるとは、事物から概念へいくのではなく、概念から事物へいくことだ。ある実在を知ることは、「知る」という語の通常の意味からいえば、既成の概念を手にとり、それらを調合して組み合わせ、実在的なものの実用的等価物を獲得することである

    ベルクソン

    (『直観』とは)このようなわけで、わたしの語る直観はなによりもまず内的な持続に向かう。この直観は、並置ではない継起を、内面の成長を、未来を蚕食する現在のなかへの過去のたえまない伸長を把握する。それは精神によって精神を直接みることだ。

    ↑(上記をさして)このように書いているからといって、直感はわれわれの内部における持続だけを対象にしているわけではない。この世界に存在するすべての対象の「精神的側面」とでもいうものを相手にするのだ

    ★『物質と記憶』で詳しく論じられたように、ベルクソンがかんがえる物質には、われわれの記憶が、そしてひいては精神(純粋記憶)が刻印されているのだ

    ★直観とはまず意識を意味するが、それは直接的意識であり、みられる対象と分かちがたいヴィジョンであり、接触であり合一でさえある認識

    ★ベルクソン/対象そのものと合一しなければならない。しかしこの合一は、弛緩した精神によってはけっしてなされない。とてつもない水圧に逆らって深海にもぐっていくように、われわれの日々の習慣を逆なでし未知の領域につきすすまなければならないのだ。この世界は、われわれが日々どっぷりつかっている言語によってわかりやすく分節されている。その言語世界の背後にある真実の変化状態にはいりこまなければならない。そして直観とは、個々人の恣意的な方法ではなく、意識をもつものであれば共有できる方法でもある。

    ★ベルクソン/宇宙は持続しているか、われわれの持続と連帯しているかのいずれかだ。宇宙が精神にむすびついているのが、その起源によってなのか、その機能によってなのか、いずれでも、宇宙は、その内包する現実的な変化と運動のすべてによって、直観の領分に属している

    ★宇宙がつねに変化していき、その変化には、われわれの精神における持続とおなじ持続がかかわっているのであれば、宇宙が、われわれの意識一般の方法である「直観」によって解明するべき対象ということになる

    ★純粋な変化、つまり持続というのは精神性が浸透しているのである。ベルクソンは、最終的には、われわれの内的な持続と外界の持続とが地続きであるとかんがえた。

    流れの同時性

    ★『試論』においては、自己の精神の内部に沈潜し、持続というあり方を直観という方法によって認識した。『物質と記憶』では、その対象領域が、精神と物質の接点になるという。ここではあきらかに、この接点において精神と物質が融合し、直感の対象となる条件をみたすことになる

    ★ベルクソン/本を書き、それがうまくいった人であればだれでも知っているが、主題を長い間研究し、資料を集め、すべてのノートをとってしまったときでも、実際に書きはじめるためには、さらになにかが必要である。主題に確信に一気にはいりこみ、あとはいくべきところまでひとりでに運んでくれるような衝動をできるだけ深くさがしもとめにいくための、しばしば苦しい努力が必要なのだ

    ★↑(上をさして)このようにして苦心して手に入れた「衝動」こそ直観なのだ。長い間その対象に沈潜したことにより、その対象の内側からの理解が一気に可能になる。これが「直観」なのである。

    ベルクソンの「直観」という方法は、自分自身の持続そのものから出発する。自己の持続に深くはいりこめば、その持続が、ほかの人々の持続へと通底していく。そこには「一般意識」という領域がある。さらにはこの持続は、物質世界の持続ともかかわっている。したがって、それがうまくいっているかどうかはべつにして、ベルクソンの「直観」が方法として成立するためには、自我の持続、意識一般、物質の持続と言う三つの段階が浸透しあっていなければならない

    ★ベルクソンは、本当の時間を「純粋持続」だという。これは大雑把にいえば、わたしたちの意識の流れのことだ。この流れにおいては、持続だけが生じている。それにたいして、わたしたちが通常「時間」といっているのは、その「純粋持続」が「空間化」されたもの

    これは、もしわれわれに記憶力がなければ、そうなるだろうといった仮定である。われわれは一回一回の振り子の振動をそのつど思いえがくとなると、つぎつぎと振動は消えていき、あるのは、現時点での振動だけということになるだろう。そこには、持続も空間もなく、それぞれの瞬間に生成消滅する揺れがあるだけとなってしまう。しかし、この仮定は、こちら側に記憶がなければ、というものであった。そこから逆算すれば、記憶というわれわれの能力が、持続や空間をつくっていることになるだろう

    ★ベルクソン/さらに最後に、わたしが、現在の振動のイメージに参与しながら、その前の振動の記憶を保持しているとしてみよう。(中略)わたしはそのふたつの振動をひとつが他方のなかにあるようなかたちで統覚するだろう。それらのイメージは、ひとつのメロディを織りなす楽音のように、区別のない多様体あるいは質的多様体とよぶべきものを、数とはまったくかかわりなく形成するような仕方で、相互に浸透しあい有機的に統合される

    ★無味乾燥な質をもたない空間を背景にして、振り子の揺れの数をそこにならべるやり方が、空間化であるとすれば、この三つめの仮定は、その空間化のまったくぎゃくであるといえるだろう。現在知覚している揺れとその直前の記憶にのこされた揺れを融合し、ひとつの有機的な流れを形成する。その流れは、それ独自の質を有し、ほかのものと比べたり、それだけを取りだしたりはできない。あくまで多様が多様のままで、しかも、つぎつぎと変容しながら流れていくメロディなのだ

    ★「空間化」のところで引用したベルクソンの三つの仮定の二番目のように、もしわれわれに記憶がなければ、その瞬間の知覚だけがつぎつぎとあらわれては消え去り、時間はけっして流れない。瞬間以外のものがないのだから、瞬間そのものも存在しない。

    ★時間が流れるためにはどうしても記憶が必要であり、その記憶のなかだけに時間は存在する。大雑把ないい方だが、「時間は記憶」なのだ。記憶力をもたない存在者にとっては、時間はまったく流れていない

    眼でとらえた瞬間に「古いボールペン」だとおもい、音をきいた瞬間に「バイク」だとわかる。それはあきらかに知覚の現場に記憶がはいりこんでいるからだろう。

    ★ベルクソン/あなたの知覚は、どれほど瞬時のものであろうとも、数え切れないほど多数の想起された要素群から構成されている。そして、本当のことをいえば、あらゆる知覚はすでにして記憶なのだ。われわれは、実際には、過去しか知覚していない。なぜなら、純粋現在とは、過去が未来を蚕食とらえがたいしていくと進展だから

    ↑(上をさして)ここでベルクソンは、記憶力をもつ人間であれば、どれほど意識しても、眼の前の対象そのものを知覚することはできないといっているのだ。自らのうちに蓄積されている記憶が、知覚している対象をかならず覆ってしまい、みているままのきいているままの姿はあらわれない。

    ★ベルクソン/純粋記憶とは、事実としてではなく、むしろ権利上存在する知覚であり、わたしがいま現にいる場所に位置し、わたしが生きているように生きいきしているけれども、しかし現在に没入し、あらゆる種類の記憶を排除して、物質世界にかんして直接的かつ瞬間的なヴィジョンを獲得することができる存在がもつような知覚である

    ★ベルクソンは「イマージュ」とよぶ。人間から独立した客観的なものでもなく、だからといって、こちら側の意識や精神によってつくりあげられたものでもないものだ。精神と物質の中間地点が「イマージュ」ということになるだろう。その領域は、いままでのべてきたような「知覚」と「記憶」が混合した領域である。かならず記憶をともなって知覚されるもの、それがイマージュ

    純粋に物質を知覚するということは、対象の物質になってしまうということになるだろう。

    ★仏教の華厳思想においては、この世界をおおきく四つのあり方(四種法界)に分ける。まず、事物が個別に独立して存在する「事法界」。これは常識的な世界の見方だろう。さらに、それら事物間の関係(縁起)のみに着目した「理法界」。いわば「関係性の網の目」だけで世界をみる見方だ。そして、その複雑な関係群があり、同時にその結節点として事物もあるのだという「理事無礙法界」。これは「事法界」と「理法界」を総合した見方だといえるだろう。さらに、そのような関係性の錯綜した網が、個々の事物と融合している(無礙)のであれば、最終的に個々の事物に全宇宙の関係群がたたみこまれていることになるだろう。いわば、ライプニッツの「モナド」の宇宙のように。これが「事事無礙法界」だ。もし、わたしの記憶がすっぽりなくなり、全物質界を純粋に知覚するならば、わたしという結節点に全宇宙が無差別にたたみこまれていることになるだろう。ある意味で、「事事無礙」のようなあり方をしていることになる

    ベルクソン/つまり純粋知覚において、われわれは、まさにわれわれの外部に置かれていて、そのときわれわれは、直接的直観において対象の実在に触れている

    ★真の時間のあり方は、「持続」だとベルクソンはいう。(中略)点時刻などでは特定できない、つねに流れていくものだ。

    ★ベルクソンが、「持続」というとき、それは、われわれが実際に生きていく時間であり、わたしたち人間がどうこうできるようなものではない。そのような時間の、もっともわかりやすい例(あるいは、原型のようなもの)が、わたしたちの意識に直接あたえられている「持続」だとベルクソンはいうわけだ。わたしたちの意識のなかで、いっときも休まず流れていくもの、それが「持続」なのである。そして、その持続に空間的なものをいっさい混入させないとき、それは「純粋持続」とよばれる。

    ベルクソンが批判しているのは、この世界に流れる時間についての観念である。われわれがいるこの世界の時間は、本当は〈持続そのもの〉なのに、「空間的なもの」だとまちがってかんがえられている、というわけだ

    ベルクソン/みずからの考えをあらわすとき、われわれはかならずことばをつかう。何かをかんがえるとき、たいてい空間のなかでかんがえる

    ★ベルクソン/いいかえれば、われわれは、言語をつかっているために、観念相互のあいだに、物質的対象同士のあいだとおなじように、明瞭で確定された区別をつけ、それらを不連続なものにしてしまう。こうした同一視は、実生活においては役にたち、大部分の科学ではなくてはならない。しかし、ある種の哲学的問題がひきおこす乗りこえがたい困難の原因は、空間のなかに位置していない現象を空間のなかにしつこく並置しようとする点にあるのではないか。(中略)拡がっていないものを拡がっているものへ、質を量へと不当にも翻訳したために、たてられた問題そのもののうちに矛盾をもちこんだのだから、手にする答のなかにもおなじ矛盾がみいだされても不思議ではないだろう

    ★ベルクソンによれば、この世界には、ことばでは表現できないもの、空間的な延長をもたないものがある。それが時間であって、それは持続する質的なものなのだ

    しかし、むろんその質的なものを、すべてのものを一律に量的なものにしてしまうことばによって表現しなければならない。延長とは縁もゆかりもないものを空間的延長と密接にかかわっていることばによって把促しなければならないのだ。このような方法で、はたして「持続」とよばれる、ことばをきびしく拒絶するものを追いつめることができるのか

    (ベルクソンの文をさして)
    これが初出の「純粋持続」である。ここでの「純粋持続」は、「具体的多様性である心的状態がそこで展開されるもの」と表現される。

    「多様性(体)」は外的な現象と対応しているような意識の状態ではなく、純粋に内的な意識現象ということになるだろう。いわば、われわれの内側の「混雑した知覚」なのだ。この意識状態は、さまざまな感情や気分、あるいは感覚が織りあわさった複合体である。そのような錯雑とした状態こそが、「多様性」(多様体)なのだ。しかし、われわれの内側でうごめく、この「多様性」(多様体)は、外と一切かかわっていないわけではない。

    ★ここでベルクソンがいっているのは、われわれのカオス的な心の状態と外界の知覚や表象とが合流する地点のことだ。(中略)そこでは、表象と感情が溶けあっている。この境界面は、いわば、意識と無意識の融合地点であり、

    ★ベルクソンは、「表象的と感情的なものふたつの流れの合流」とよぶのだ。この合流のあり方は、何気なく「イメージ」という語がつかわれている点からしても、『物質と記憶』の構図を(無意識のうちに)予告しているともいえるかも知れない。「感情的」が、「純粋記憶」側であり、「表象的」が「純粋知覚」側、「合流する地点」は「イマージュ」ということになるだろうか。

    ★ベルクソン/この後につづく第二章では、心的状態をひとつひとつ切り離して個別にとりあげることはしない。そうではなく、心的状態をその具体的多様性のうちにとらえ、それが純粋持続のなかで展開されるものとして考察する。

    「具体的多様性=持続」に、空間という概念を一切いれずに考察してみようというわけである。いまのべたように、「多様性(体)」をそのまま対象化するのがむずかしいというのは、空間化せずに対象を考察することができるのか、という問に直結している

    ★ベルクソンによれば、物質的世界も、そして精神的領域も、いずれも、いわば「液体的な」もの、あるいは「流体的な」領域だといえるだろう。どこにも分割線は存在せず、すべての事象や対象は、相互に融合しあい変容しつづける世界だ。そこに切れ目をいれるのは、われわれの論理の都合であり、あくまでも便宜的なものにすぎない

    ★ベルクソンの「持続」による世界像を、「聴覚的世界」といえるとすれば、それはまた「流体的世界」でもあるだろう。われわれは、この世界は分割されていて物質はたがいに不可入だとおもっている。しかし、これは視覚からの情報によってつくりあげられた「固体的世界」であり、われわれの論理や言語の要請によるものだ。それにたいしてベルクソンが提唱するのは、聴覚的で流体的な世界観だといえるかもしれない。

    ★ベルクソン/いまこうして明らかになるのは、およそ記号的表象がなければ、われわれの意識にとって、時間がひとつの等質的環境という様相を呈することはけっしてないだろう、ということだ。その等質的環境においてこそ、継起する各事象は、それぞれたがいに外的なものとなるのである

    ★ベルクソン/しかし、このような時間の記号的表象に自然にわれわれがたどりつくのは、ただひとつの事実、つまり一連の同一の諸項のなかでは、それぞれの項はわれわれの意識にたいして二重の相をみせる、という事実による。ひとつは、わたしたちが、外的対象の同一性に想いをはせることからくる、対象それ自身とつねに同一の相であり、もうひとつは、その項の付加が全体のあらたな有機化をひきおこすことに由来する特殊な相だ。このことから、わたしがさきに質的多様性となづけたものを、数的多様性というかたちで空間のなかに展開し、数的多様性と質的多様性とを相互に道東のものとみなす可能性がひらかれる

    ★「質的多様体」が成立するためには、いままでの記憶にたいして、それとは質的にことなる鐘の音が加わり、記憶全体を質的に変容させなければならない。このとき新しい鐘の音の質と質的に変容する記憶全体の質を感じとっているのは、これもまた質的な〈わたし〉でなければならないだろう

    ベルクソン/ところで、このような二重の過程がもっとも容易に遂行されるのは、それ自体では認識できないが、われわれには運動というかたちをとる外的現象の知覚においてである

    ★ひとつの運動体を連続して、「おなじもの」だと知覚するためには、運動体を「同一」でありながら「ことなった」ものとして認識しなければならないだろう。運動体は、それぞれの位置で「ことなって」いなければ、運動していることにはならない。しかし、一方で「おなじもの」が動いていなければ、それは運動にはならない。

    ★「ひとつの運動体」であるために必要なものは何か。ここでベルクソンもいうように、「記憶」であり「持続」だろう。

    われわれが、運動体のそれまでの位置を記憶していなければ、そもそも運動は成立しない

    ★そもそも持続は、われわれの感情や感覚の融合状態であり、意識の直接的な流れとでもいうべきものだ。つまり、〈わたし〉の内的な状態ということができるだろう。そのような混沌とした流動的な状態を対象化するためには、その外側にたつ必要があるだろう

    ★この把握は(中略)認識主体としての〈わたし〉と、認識される持続している〈わたし〉とが分裂しなければならないのではないだろうか。

    ★この「空間」は、いわば〈無の空間〉として二重化されているといえるだろう。そして、この空間は、運動体のそれ以前の位置やあり方と、現時点での運動体との「差異=融合」によってなりたっているのだから、「記憶の場」ともいえるだろう。つまり、〈わたし〉という空間は、〈持続〉であり、それはいいかえれば、〈記憶〉でもあるのだ

    西田の「純粋経験」とは、赤ん坊の経験や芸術家や宗教家の至高体験のようなものをさす。自他未分の〈経験そのもの〉だけの状態である。そこには主観も客観もありえない

    このように変化しつづける印象だけがあり、それを、われわれは言語によって固定し、安心して社会生活を楽に営む。印象をさまざまなことばで固定し、それに依拠し、つまり、特定の視点から外界を切りとり生活していく。このようにことばによって固定することによって、自らの印象の変化に気づかない

    固定点がなければ、認識の可能性が生じないからだ。認識の最初の枠組、手がかりとなる固定点がなければ、変化や運動というのは、ありえない

    ★ことばをつかってあらわすというのは、あくまで、ある特定の時点のあり方に、仮にレッテルを貼る(本当は、このレッテル貼りは、そもそもできない)ようなものだ。だが、恒常的に変化しつづける当の状態は、そんなレッテルなど、あっという間に裏切ってしまう

    ベルクソン/言語が感覚におよぼすこの影響は、一般にかんがえられているより根深い。ただたんに言語がわれわれの感覚に不変性を信じこませるだけではなく、ときにはわれわれが体験した感覚の性格をあざむく

    現時点でみずからの感情の流れを意識することも可能だろう。もちろん厳密には、一瞬前の感情の記憶であるけれど

    ★ベルクソン/まったく純粋な持続とは、自我が生きることに身をまかせ、現在の状態と先行の状態とのあいだに分離を設けることをさしひかえるとき、わたしたちの意識状態の継起がとる形態である。だからといって、過ぎていく感覚や観念にすっかり没入してしまう必要はない。というのは、そうすると、ぎゃくに自我は持続することをおそらくやめてしまうからである

    純粋持続とは、等質空間とは無縁の、異質な状態が異質なままで流れていく状態だった

    時間は、われわれにとってまず、自らの内的生命の連続と混ざっているのはたしかだ。この連続とは、なんだろうか。それは、流れや推移の連続だ。

    われわれが「流動」や「運動そのもの」といっているのは、あくまでも過去化されたものにすぎない

    おのずと体験されるこの移り変わりだけが持続そのものなのだ。この移り変わりは記憶ではあるが、しかし、個人の記憶ではない。記憶がとどめるものの外にある記憶でもなく、記憶がしっかりと保存している過去と区別された記憶でもない、変化そのものの内側にある記憶である

    ★記憶をわれわれがもっているからこそ、時間は流れはじめるといえるだろう

    ★ベルクソン/ふたつの瞬間をたがいにむすびつける基本的な記憶なしには、ふたつの瞬間のうちのいずれかほとつしか、したがって唯一の瞬間しか存在しないし、前と後や継続や時間は存在しなくなるだろう。

    記憶がなければ、瞬間は積み重なることなく、そのつど生成消滅いていく

    ★ベルクソン/持続は、本質的には、存在するもののうちにはもはやないものが連続することだからだ。そこに本当の時間、わたしのいう知覚され生きられた時間がある。

    時間というのは(もし流れているとすれば)どのように流れるのだろうか。現時点(といういい方事態、点時刻を前提にしているのでまちがっているのだが)にあるもの(存在するもの)だけでは、あたりまえだが時は流れない。

    ★いま存在しているものに、記憶(存在していたもの)をかさねることにより、連続という状態のいわば錯覚が生じ時は流れる。わたしが知覚し体験した時間を〈いま〉にかさねなければ、時は流れないというわけだ。だからこそ、「時間は意識をふくむ」とベルクソンはいう。〈いま〉という状態に、もはや存在しないもの(記憶)を意識がくわえることにより、時間が流れはじめる

    →これは個人においてもだし、共同体、ひいて一生命としての地球の〈物語〉にも通じる話だなぁ

    『持続と同時性』において、ベルクソンは、宇宙を貫く普遍的時間という概念にたどりつくベルクソンにとって時間は、持続によってできあがっている

    ★瞬間が生じるためには、その背後に実在する時間(持続)が流れていることと、空間化された時間(時間をあらわす直線)とが必要だということ

    ★瞬間は、そもそも存在しない。空間化された時間直線上の点にすぎないのだから、そのようなものは実際の持続のなかにはないからだ

  • 存在根拠としての「質的多様性」に「数的多様性」が先行するのではないか。同様に、夢に対して覚醒が、純粋持続に対して空間化が、流れに対して固定する点が先行する?

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784062585705

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中村昇の作品

ベルクソン=時間と空間の哲学 (講談社選書メチエ)を本棚に「いま読んでる」で登録しているひと

ベルクソン=時間と空間の哲学 (講談社選書メチエ)を本棚に「積読」で登録しているひと

ベルクソン=時間と空間の哲学 (講談社選書メチエ)の作品紹介

ベルクソンといえば、かつては有名だったけれども、いまやあまり見向きもされなくなった哲学者、というようなイメージを持つ人も、あるいはいらっしゃるかもしれません。しかしながら、ひとつには、現代哲学の巨人といわれるドゥルーズとの影響関係があらためて注目されるという状況もあり、現代哲学に欠かせないキーパーソンとして、昨今、急激に再評価されつつあります。
本書は、それでは今こそ読み返すべきベルクソンの哲学とは、いったい何なのか、その本質について、ベルクソンのテキストに寄り添いながら、あらためて深く考える一冊です。
ベルクソンの思考の大きな特徴として、人間を含めたこの世界を、固定されたひとつの時点でとらえるのではなく、流れ、いわば連続としてとらえる、ということがあります。当然、人間という存在もある時点に静止したものではなく、持続するものです。この「持続(=duree)」こそが、ベルクソン哲学の根幹をなすのです。
ここから、「持続」とは時間だといってもいいでしょうし、人間とは存在の流れゆく記憶の集積だと言ってみても、違和感はないでしょう。では、その「持続」は、「いま・ここ」に存在する〈わたし〉と何の関係があるのか。何の役にたつのか。きづいてみれば、この問いこそ、あらゆる哲学の出発点でしょう。
著者は〈わたし〉とはなにか、なぜ生きているのか、という根源的な問いを手放さず、ベルクソンの思索に寄り添いながら、哲学を深めていきます。哲学的に考えることの魅力にあふれた、第一級のベルクソン論です。

ベルクソン=時間と空間の哲学 (講談社選書メチエ)はこんな本です

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