ベルクソン=時間と空間の哲学 (講談社選書メチエ)

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著者 : 中村昇
  • 講談社 (2014年1月11日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062585705

ベルクソン=時間と空間の哲学 (講談社選書メチエ)の感想・レビュー・書評

  • 自分の解釈よりもその哲学者が言ってることを正確に理解することが大切

  •  知覚はつねに持続のうちにある。持続するならそこには記憶がある。あらゆる知覚はすでにして記憶である。わたしの内的な状態=記憶は外界の対象へと浸透している。あらゆる対象は浸透しあう精神的側面をもつ。わたしとあなたと物質界が持続において通低しあう地続きなら、わたしの持続から出発し、精神性へと深くはいりこむためにどうしても必要な方法がある。

    『「小さいころは甘いものが好きだったが、いまはそれほどたべなくなった」といったとたんに〈甘い〉という堅固で変化しないおなじ感覚が、あたかもずっと存在しつづけているように錯覚してしまう。おなじもの(甘いもの)にたいするこちらの態度(好み)が、歳をとるにつれて変化したかのように表現してしまう、というわけだ。ところが、甘さそのものが、実は変化していたのだと気づくと、今度は、その変化に影響されず一貫したこちら側の感覚があるとかんがえ、それを「好み」となづけ固定する。』32頁

  • 【超速読】どんなことが書いてあるのかな、という程度の読み方でした。

  • 熊野純彦訳が出たからではないが、興味を惹かれて読んでみた。フランスの哲学が嫌いなわけではないが、なぜか今までベルクソンに興味を持てなかったんだよなぁ。
    読んだ感じ、ベルクソンってかなりフッサールに被るなぁ、と。読んでいて、ところどころ発生的現象学での議論を思い出した。といってもフッサールよりも言語に対する問題意識が強いのと、記憶という意外に哲学で真正面から取り組まれない概念に取り組んでる部分は面白いかった。ドゥルーズがベルクソンから影響を受けてるのは、この言語と持続のつながりの部分なんだろうなぁ、となんとなく。そして、言語についてはどこかソシュールにもつながる観点もある。
    フッサールとベルクソンということで言えば、フッサールが視覚的イメージで考えた一方、ベルクソンは聴覚的イメージで考えたって捉えると分かりやすくなるな。
    この本自体のスタンスは、ベルクソンを解説しつつかなり批判的な読み方をしているから、入門書として読むとどこからどこまでがベルクソンの考えなのか分かりにくくなりがちだった。
    冒頭から「なぜ生きているのか」という問いに答えられない哲学は無意味だと思う、とど直球で来て最後に著者なりの解答がされるんだが、うーん。この問い自体、個人的に興味を惹かれないのもあるけど、なんか論考の頃のウィトゲンシュタインみたいな答えで消化不良だな...。自我に場をもってきて回収する方向は苦手だわ。

  • ベルクソンの導入書としては最適でした。

    ●以下引用

    スクリーンいっぱいに、さまざまな出来事が展開されていく。それをじっとこちら側からみている。そこには、自分はもちろん登場しない。そのスクリーンが、世界という舞台で、観客が‹わたし›ということになる。たしかにこの観客席は移動するが、スクリーンと観客席の関係はけっしてずれない。つねに〈そこ〉からみつづけている。このようなあり方を〈わたし〉はしている

    ★『精神のエネルギー』より/
    ・ようするに、時間において現在の瞬間に閉じこめられ、空間において特定の場所にかぎられ、自動的にはたらいて外部からの影響に機械的に反応するからだとはべつに、空間におけるからだよりはるか遠くに拡がり、時間をつらぬいき持続するなにものかを、わたしたちはここでとらえている。それは予測される自動的な運動ではなく、予測できない自由な運動を、からだに要求し強制する。からだからあらゆる方向にあふれだし、みずから新たに生じることによって行為を創っていくこうしたものが、「われ」であり、「魂」であり精神なのだ。

    ★からだとは同一視できない、それを越えたものであり、みずからを創造しつづけるものが、ベルクソンのいう「われ」である。「われ」は、持続そのものでありたえまない創造行為ということになる

    視覚だけの世界では、ものは固定しているようにみえる。机は机として、本は本として、なんの変化もせずに存在しているかのようだ。でも、ほんの少しかんがえれば、それは、わたしたちの記憶による錯覚である

    「流れ」にこそベルクソンは、変化や運動の本質的に特徴をみているのだ。聴覚によってとらえられた世界は、連続していて切り刻むことのできない「流れ」をかたちづくっている

    目をとじて、ただそれだけを意識しながらきくメロディは、われわれの内的生の流動性そのものである時間にきわめて近い

    途切れることなく、つづいていく持続は、音楽のように耳に鳴りひびいている。視覚によってとらえられた静止画像ではなく、あらゆる部分がいっときもとどまることのない動画のように、鼓膜を恒常的に振動させているのだ

    思考の習慣的なはたらきは容易であり、望むだけつづけられる。直観は苦しいものであり、ながくつづきはしない。知的な理解にせよ直観にせよ、おそらく思考はいつも言語をつかっている。そして直観も思考であるかぎり、最後にはなんらかの概念に収まるのだ

    ★わたしたちは、この世界のなかでわかりやすい境界に区切られて生きているわけではない。自分自身の身体と外界との区別もはっきりしていない。刻々とこぼれおちていく細胞やたえまない呼吸など、どこをとっても曖昧な境目しかない。岩だろうが鉄だろうが、徐々に変容しつづけまわりと浸透しあっている。どんなに堅固な固体でも、つねに微細に崩壊していく

    言語によって、たえず運動しているものを表現してしまうと、その運動は消えてしまう。言語は静物しかえがけない

    わたしたちの単純感覚は、自然な状態で考察されるなら、まだそれほど堅固さを示さないだろう

    ベルクソン/それはちょうど、詩の意味を、詩を構成する文字の形に求め、文字の数を増やせば、どこまでも逃げて行く意味を最後にはとらえられるとおもい、しかしひとつひとつの文字のなかに意味の部分をさがしてもだめだとわかり、窮余の一策として、文字とつぎの文字とのあいだにもとめていた神秘的な意味の断片が宿っている、とおもうようなもの

    詩の意味は、文字には存在していない。意味の相から、文字の相へとおりていくことによってしか意味は把握できない。ということは、意味の相へ一気にはいらなければ(直観)、そもそも意味を手にすることはできないのだ。(中略)文字によって意味は形成されているは... 続きを読む

  • 存在根拠としての「質的多様性」に「数的多様性」が先行するのではないか。同様に、夢に対して覚醒が、純粋持続に対して空間化が、流れに対して固定する点が先行する?

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ベルクソン=時間と空間の哲学 (講談社選書メチエ)の作品紹介

ベルクソンといえば、かつては有名だったけれども、いまやあまり見向きもされなくなった哲学者、というようなイメージを持つ人も、あるいはいらっしゃるかもしれません。しかしながら、ひとつには、現代哲学の巨人といわれるドゥルーズとの影響関係があらためて注目されるという状況もあり、現代哲学に欠かせないキーパーソンとして、昨今、急激に再評価されつつあります。
本書は、それでは今こそ読み返すべきベルクソンの哲学とは、いったい何なのか、その本質について、ベルクソンのテキストに寄り添いながら、あらためて深く考える一冊です。
ベルクソンの思考の大きな特徴として、人間を含めたこの世界を、固定されたひとつの時点でとらえるのではなく、流れ、いわば連続としてとらえる、ということがあります。当然、人間という存在もある時点に静止したものではなく、持続するものです。この「持続(=duree)」こそが、ベルクソン哲学の根幹をなすのです。
ここから、「持続」とは時間だといってもいいでしょうし、人間とは存在の流れゆく記憶の集積だと言ってみても、違和感はないでしょう。では、その「持続」は、「いま・ここ」に存在する〈わたし〉と何の関係があるのか。何の役にたつのか。きづいてみれば、この問いこそ、あらゆる哲学の出発点でしょう。
著者は〈わたし〉とはなにか、なぜ生きているのか、という根源的な問いを手放さず、ベルクソンの思索に寄り添いながら、哲学を深めていきます。哲学的に考えることの魅力にあふれた、第一級のベルクソン論です。

ベルクソン=時間と空間の哲学 (講談社選書メチエ)はこんな本です

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