- Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062586085
作品紹介・あらすじ
本書は、2014年9月から2015年1月にかけて高千穂大学で行われた連続講義を基にしたものである。日本を代表すると言っても過言ではない12名の哲学者たちが、一般の聴衆を前に「現代日本の危機」を提示し、その打開策を探る「哲学からの挑戦」の試みは、大きな反響を呼んだ。本書は、熱のこもった会場の模様を再現することを目指し、ライヴ感あふれる口語体による連続講義として編まれる。編集には、現在注目を集めている気鋭の哲学者があたった。
「実学優先」が叫ばれ、「哲学や人文学など不要だ」という暴論まで平気で口にされる現状の中で、「知」の拠点であるはずの大学は、まさしく存亡の危機にある。また、インターネットをはじめとする情報通信技術の発展によって、グローバルな規模でのコミュニケーションは確かに加速したが、逆説的にも、それに比例して「ことば」はただの消費材と化し、思慮ある議論の場は急速に失われつつある。そうして、一見、高度に成熟したように見える社会の背後では、人が生まれて死ぬという「いのち」の事実に対する感性は鈍くなり、世界各地でテロをはじめとする、従来の観念では捉えきれない「戦争」の現実味がかつてなく高まっていることは言うまでもない。
本書は、ここに掲げられた「知」、「ことば」、「いのち」、「戦争」という「四つの危機」を正面から取り上げ、立ち向かおうとした哲学者たちによる真剣な格闘の記録である。歴史を振り返れば、哲学はいつも時代の危機と闘う役割を担ってきた。哲学によってしか打破できない危機があり、哲学によってしか切り拓かれない未来がある。その未来の姿は、本書の中で生きた言葉を通して指し示されている。
感想・レビュー・書評
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【書誌情報】
製品名 連続講義 現代日本の四つの危機 哲学からの挑戦
著者名 編:齋藤 元紀
発売日 2015年08月11日
価格 定価:1,980円(本体1,800円)
ISBN 978-4-06-258608-5
通巻番号 605
判型 四六
ページ数 352ページ
シリーズ 講談社選書メチエ
[https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195567]
【簡易目次】
はじめに(齋藤元紀)
第I部 知の危機
第1講 日本の近代化と啓蒙の意義と課題(牧野英二(法政大学教授))
第2講 現代における心の危機と哲学(信原幸弘(東京大学教授))
第3講 大学の危機と哲学の問い(西山雄二(首都大学東京准教授))
第II部 ことばの危機
第4講 対話としての哲学の射程(梶谷真司(東京大学教授))
第5講 民主主義の危機と哲学的対話の試み(小野原雅夫(福島大学教授))
第6講 言葉が開く宇宙─―『おくのほそ道』に学ぶ(魚住孝至(放送大学教授))
第III部 いのちの危機
第7講 危機の/と固有性、あるいは危機の形而上学(斎藤慶典(慶應義塾大学教授))
第8講 「世界の終わり」と世代の問題(森 一郎(東北大学教授))
第9講 危機の時代とハイデガー(高田珠樹(大阪大学教授))
第IV部 戦争の危機
第10講 戦争と戦争のあいだ(澤田 直(立教大学教授))
第11講 〈アウシュヴィッツ以後〉の哲学(宮崎裕助(新潟大学准教授))
第12講 はじまりについて(矢野久美子(フェリス女学院大学教授))
おわりに(齋藤元紀)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
グローバル化によって生じた「危機」を、哲学者たちがどうとらえているのかが分かる本。
現代日本にそこはかとなく漂う不安感・危機感を、「知」「ことば」「いのち」「戦争」の4つに分類し、12名の哲学者がそれぞれの専門分野のトピックスを使って説いている。
「危機」がなぜ生じたかという私なりの感想は、それぞれの危機が向かうベクトルが「平和」な時代とは違う方向動き出しているからなのではないか? という事だ。
特に「ことば」に関して言えば、日本人同士であっても万人に共通でなくなっているのではないか?
だからこそ確かな過去の偉人たちの足跡を振り返りつつ、自分の立ち位置を説明し、これからを論ずる哲学的な語り口が、より一層必要とされていくのではないか? そんな気がした。 -
あんまりおもしろくなかったなあ。僕は想定された読者ではなかったということだろう。危機の言葉じゃなくて、来るべき時代からの言葉を聞きたかった。
何となくみんな近代的な主体性を取り戻したいと考えているのかな、あるいはそれを失ったことを嘆いているのかなと思った。
それはどうしても「危機の時代と未来の哲学」ってテーマゆえなんだろうな。「危機」ってフレーミングの時点でどうしても現在を過去の欠如として語ってしまうから、何となく創造的じゃないような感じになる。
一方で「てつがくカフェ」の実践について書いてた文章はこれだけ読んでも物足りないけど、それが会場で話されると多分いい議論の種になるんだと思う。
西山雄二さんの大学の危機の文章は「現場の創造」っていう一節があって良かった。あと、森一郎さんの文章も「世界の終わり」という思考パターンの外に出る方法を考えよう、という点ですごく生産的だったように思われる。
これは青臭い僕の感覚かもしれないけど、他の論者は哲学すると言いながらもカギカッコつきの「哲学」にだいぶ寄りかかっている感じがしたのだ。
しかし、他方で、乏しい紙幅で哲学について書くにはどうするのか、という問題提起がむしろあるように思う。哲学=問いと答えだとして、答えは文字数を食う。要約してしまっては意味がない。だから、①答えきるために問いを小さくするか、②答えをシンプルにしてしまうか、③答えをいっそ切ってしまうか。
②は「ああでもないこうでもない」とその場で苦しむ代わりに、誰かの説を紹介するという形になる。しかし、僕はそれはつまらないと思う。それだったら問いを磨ききる③の方が好ましい。だが、問いを提示するというのはどういうことか?
問いは現実から出発する。こういう現実があって、こうも言えそうああも言えそうというところに挟まれて、さてどう考えるべきかという問いが生まれる。つまり、いかに細かい目線で現実を見るのかということだが、現実の羅列はどうしても「哲学っぽくない」ものになるのではないか。
哲学は何より問いの立て方の技法であるべき、という偏った哲学観がある。