- Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062630863
感想・レビュー・書評
-
初めての村上春樹氏ならこの本が読みやすいと知り、期待を込めて読了。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
表面的には
浮気を繰り返し人を傷付けた過去があるのにも関わらず、結婚後も自分を愛してくれている大切な人々を裏切ってまで、過去の恋愛感情に引きずられ自己の欲望を満たそうとする利己的な主人公。
意味深な物言いで自分の正体を一切明かさない、美しく成長した幼なじみの女性。
二人が再開することで始まる泥沼劇。
自分が女性なので、どうしてもイズミに同情し、妻の立場に共感してしまい、主人公の未練や妄想に共感することができなかった。
性的な描写があまりにも多いことも苦手だった。
そもそも島本さんとの再会は全てが主人公の幻想に過ぎなかったのか?
読者の感じ方によって解釈が様々なのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
しかし、深読みすると
「過去に縋って生きていてもそれは妄想であって、現実に足をつけて前を向いて生きるしかなく、自分を見失うと破滅を招くだけ」
「何かを選択すると、他の選択はできなくなる」「過去は元には戻らない」ということなのだろうか。
雨の表現がたくさんあるように、それらは人の心を表していて、陰鬱なものをみんな併せ持っているということなのか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
表現力が豊かで、繊細で美しい言葉を使って情景が描かれていたので想像力は掻き立てられたが、会話文の書き方が和訳のようだったことや、ストーリー性と人物設定が自分好みではなく、ジメジメとしていて後味は悪かった。
しかし独特な世界観が後からじわじわと染み込んでくる不思議な感覚。
村上春樹氏の他の作品ももっと読んでみたい!と思っている自分もいる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
村上春樹の、作品の中では一番一気読みしてしまった。
読みやすく、そして先が気になりどんどん読み進めていきたくなる作品だった。
情熱的な愛の物語でもあり、そしてわたしはホラーも感じた。女の怖さというか。
結局、島本さんの【愛】が最悪の展開を免れたのかなあとかいろんなことを考えてしまう。また読みたい。 -
読んでいて胸が痛くなった。
主人公の男性は、女性から見ると情けなく甘えている感じも受けるが、それでも等身大の人間を描き切っていると思った。この小説は、人間をどこまでも素直に愚直にありのまま捉えていると思った。
登場人物全員の心情が分かる気がした。絶対にもう元に戻ることはないもの、中間のないもの、辛い思いをしているのは自分だけではないこと、確実にその通りだけど、いつもいつも見失ってしまうものばかりだ。
立場が色々とあるが、主人公がものすごく大事にしていたものを永遠に失ってしまったのは間違いなく、その張り裂ける胸の痛み、喪失感、やがてくる無力感虚無感脱力感…どれも一度は感じたことがある感覚であり、共感するとともに、読んでいて辛くなった。
どうすればいいのか分からない、何が正解か分からない、誰かを傷つけるかもしれない、自分が傷つくかもしれない、でもどこまでも自分は自分でしかない、命が続く限り生きていくしかない。そのような、ある種の諦めを受け入れる。でもそれが日々の営みであると思うし、普遍的なことだし、人間なんてそんなものだと思った。 -
たとえば人がそれぞれ殻のようなものをもっているとして、唯一その殻を超えて行き来できた相手。
そんな感じだろうか。
近くて遠い人。きっとそれはこの中のどの人にとっても。
よく人は寂しい生き物だというけれど、全体に漂うその静かな寂しさが私にはすうっと入ってきた。共感というか、しばらくじっとしていたい感覚だった。
また読み返すと思う。 -
また僕の硬くなった勃起の話だ。
しかも不思議な事は何も起こらず。
主人公は僕だけど名はハジメでバーの経営が成功している別人の設定。
多感だった頃の恋が再会によって着火し、その当時にひどい仕打ちをしてしまって別れた別の元彼女の変わった姿を見て鎮火したお話。
いよいよ、ノリ極まって結ばれた彼女の性癖、結構ひいた。
村上小説を時系列順に読んできて、『世界の終りとハードボイルド〜』あたりから性描写にきつさを感じる。少し違ったテイストに離れたく、しばらく村上小説をお休みする。
(次も『東京タワー』を読んでいるので、SEXの話多めだけど) -
主人公が嫌々ながら就職した小さな教科書を作る出版社になんの楽しみもなく何年も勤め、夜はひとり自宅アパートの壁に寄りかかってデューク・エリントンのレコードを聴きながらじっと静かに暮らしていたのに、なぜか突如としてやり手経営者の娘と出会って結婚し、義父の金でひょいと小粋な店なんか出させてもらい、トントン拍子に経営が軌道に乗ったそのジャズバーでビジネス的に成功し、スカしたアルマーニのスーツなんか着て、自分がオーナを務める店のカウンターでつまらないサラリーマン当時と同じStarcrossed Loversなんかを生演奏のピアノで聞いていたら、幼馴染の女の子が美しく成長した姿で突然現れて、当然ながら衝撃的に避けられようもない恋に落ちて妻子を捨ててBMWで家を出る、といった下りがとても村上春樹らしくて好きwww
-
『恋愛小説かと思いきやホラー小説』
▶︎要約
この本には答えがない。
読者一人一人に解釈は委ねられており、
2回、3回と読み直しても毎回最後に思うことが変わる。
主人公の男性は平凡な人生を送っていたが、
あるきっかけを境に、
いわゆる勝ち組の生活をすることになった。
高級車を買い、素敵な奥さんや子供に恵まれ、
BAR経営もするなどと順風満帆であった。
ところが、ある女性と久しぶりに会うこととなり、
そこから深い闇に入っていく。。
▶︎学び
・人はそこそこ平凡な人生では満足しなくなってしまうこともある。
▶︎感想
私が読書を好きになったきっかけがこの本で、
高校時代の国語の先生に貸してもらったのを覚えています。
当時、文章を読むことが苦手で何度も挫折しそうになりましたが、先生と感想を話したいという一心で読みました。
今では大切な1冊となり、時々読み返したくなるのがこの本です。
-
タイトルの意味を知って身震いした。「国境の南」はメキシコではなく、「よく分からないけれど、おそらく素晴らしいところ」、「太陽の西」は、破滅に取りつかれた人間(ヒステリア・シベリアナ)のこと。
つまり、人間は「よく分からないけれど、おそらく素晴らしいところ」に行くために破滅にとりつかれることがある。
片思いの描写はさすが凄まじいものがあった。魂が惹かれる、素晴らしい出会い。これには心の奥の柔らかい場所を締め付けられました笑 -
結婚して子どもまでいる成人男性が、小学校の頃に好きだった女の子と再開してセックスして妻を傷付けるけど、結局女の子は消えちゃったので妻と縒りを戻す話。
……もう少しちゃんと書く。
当時としては少数派の一人っ子だった主人公は、同じ小学校にいた足の不自由な一人っ子、島田さんに想いを抱いていた。別々の中学に進学してしまい、彼女のことを忘れられないまま、高校生になってイズミという女の子と交際をした。彼女と交際するも、彼女は島田さんが持っているものを持っていない、そんな美人でもない、と思い、結構雑に扱う。そんな彼に、イズミは以下の言葉を投げかける。
「あなたはきっと自分の頭の中で、ひとりだけでいろんなことを考えるのが好きなんだと思うわ。そして他人にそれをのぞかれるのがあまり好きじゃないのよ。それはあるいはあなたが一人っ子だからかもしれない。あなたは自分だけでいろんなことを考えて処理することに慣れてるのよ。自分にだけそれがわかっていれば、それでいいのよ」p.53
結局他の女と姦通していたのがバレて、正直かつ不誠実な説明(言い訳)をして、イズミはそれを「理解しなかった」。壊れてしまった彼女を置いて東京へ行き、大学4年間をつまらなく過ごし、三十までを孤独に過ごした。
三十になって一人の有紀子いう女性と結婚するが、そこには安心を求める主人公の気持ちがあったように思う。
「彼女と一緒にいると、この十年以上のあいだに自分が失いつづけてきたものの重みをひしひしと感じることができた。僕はそれらの歳月をほとんど無駄に費やしてしまったのだ。でもまだ遅くはない、今ならまだ間に合う。手遅れになってしまう前に、少しでもそれを取り返しておかなくてはならない。」pp.91-92
で、結婚し子どもが二人、少なくとも形式的には順風満帆な人生を送っているときに、島田さん?に再開し、彼は島田さんという亡霊に搦め取られて……。そんな話。
あらすじをなぞるとこれでもかというほどクズな主人公だが、私が今まで読んだ村上春樹の小説の中では比較的珍しく、主人公は妻と二人の娘もいる、その意味ではかなりスタンダードな社会人だ(義父が金持ちで、そのお金で自分のバーを持って、類い稀なる才能から経営もトントン拍子にうまくいくという点は浮世離れしている観もあるが、まあ…)。
「子を持つ親として現実的に生きる」というノルマは、自分の孤独な過去や現在の人生に向ける眼差しを、曇らせてしまっているのかもしれない。
「これはなんだか僕の人生じゃないみたいだな、と。まるで誰かが用意してくれた場所で、誰かに用意してもらった生き方をしているみたいだ。いったいこの僕という人間のどこまでが本当の自分で、どこから先が自分じゃないんだろう。」
「でも僕はおおむね幸せな生活を送っていたと言っていいと思う。(中略)僕は何があっても、もう二度とあの二十代のうら寂しい孤独な生活に戻りたくなかった。ここが自分の場所なんだと僕は思った。」p.99
しかし、どこか自分の根っこから浮いているような生活は、「何か」があったときにぽっきりと折れてしまうものだ。
私自身、色々あって何もかもなくなってしまった。色々あって仕事もあって不自由なく生きているが、大きな喪失を抱えたままで何か辛いことがあった時、踏みとどまれる気がしないし、踏みとどまろうと思えないのだろうなと思う。
この物語の主人公にとっての「何か」は、島田さんとの再会。彼はイズミの人生を壊したことを覚えているにも関わらず、妻のいる身でありながら島田さんに深く関わってゆく。それは或いは小学生時代に残したままの空白を埋め、自分の人生を取り戻そうとしているようにも見える。
島田さんは警告する。
「とても残念なことだけれど、ある種のものごとは、後ろ向きには進まないのよ。それは一度前に行ってしまうと、どれだけ努力をしても、もうもとに戻れないのよ。もしそのときに何かがほんの少しでも狂っていたら、それは狂ったままそこに固まってしまうのよ」p.204
それでも、主人公はどんどん破滅に向かっていってしまうのだ。
人は何を持っているかではなく、何を持っていないかによって特徴づけられる、という言説を何かで読んだことがある。主人公は兄弟を持たないことが自分を特徴づけていると幼少期の頃に捉え、島田さんは健常な足を持たないことを深く気にしていた。
この物語は、そうした自分の中にある欠落なり空白に上手く向き合って生きてゆくことができなかった男の話だと、今は解釈している。
また、僅かにファンタジー要素があり、お伽噺のような薄気味悪さも相まって、小説のラストはともすればバッドエンドの可能性もある。表層的には主人公はただの浮気・不倫野郎ではあるが、大きな空白を抱え、それが取り返しの付かないものであるならば、彼はどうすれば幸せになれるのか、この小説には示されていない。
この小説は長編『ねじまき鳥クロニクル』の一部になるはずだったものが、切り離されて一つの小説として独立したという経緯があるらしい。まとまった時間のある時に、次は『ねじまき鳥』も読んでみよう。