LD(学習障害)とADHD(注意欠陥多動性障害) (講談社+α新書)

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著者 : 上野一彦
  • 講談社 (2003年5月21日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062721967

LD(学習障害)とADHD(注意欠陥多動性障害) (講談社+α新書)の感想・レビュー・書評

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  • 2003年刊行。著者は、東京学芸大学副学長。簡明、取っ掛かりとしては良い。多様な要因論が想定される学習障害に焦点が当てられているのが特徴的。

  •  LD、ADHDの入門書としてお薦めです。とても分かりやすく書かれています。

     じゃあ、教育の現場でどうすればいいか、それはこれからの問題です。

     なかなか難しい問題だと思います。

     教育関係じゃない方も、ぜひ読んでみてください。

  • ADHD、LD、HFAについて。

    歴史的な面や、定義、アメリカを中心とした海外の実態。
    薬を使用した治療法、実際に対応する場合の留意点など。

    ADHD等を取り扱った映画、小説の紹介は面白かった。
    映画が多いのが、そのうち見る。

  • そもそも、60兆を超える細胞集合体として有機的なネットワークを構成している人間が、その受精や細胞分裂において、完全な機能を持つこと自体奇跡に近いことであり、LDもADHDも、高機能自閉症にしても、その背景には中枢神経系に何らかの要因による機能不全があると推定されている。

    LDにしてもADHDにしても、その指導は教育の問題である。

    「障害は理解と支援を求める個性である」

    学力の特異な困難に対する具体的な学習支援にあたっては、教材のスモールステップ化、子どもの学習の水準や学習速度などへの配慮といった治療教育の一般的な手法を基本とし、適切な支援による達成・成就経験からの自尊感情や内発的な動機付けなどを重視する。

    指導の基本である行動修正は、目標行動の設定→スモールステップ化→強化子の選択→即時フィードバック→般化 の順でおこなわれる。

    「臨床指導における順調な成功例は、関わった者の手柄話として蜂蜜のように甘い。しかし、もだえ苦しむ最中の事例はそれを自らの責任とするには、熊の胆のように苦い。」

    ↑この言葉は、重い。

  • 子どもへの対応の仕方は、その子の個性に応じて様々なものになる。障害の特質を知ることで、対処の仕方も自ずと違ってくる。

  • 2012/07/31-

  • 「その個性が不利を被る時障害となる」
    「障害は理解と支援を求める個性である」

    あっという間に読めます。

  • この本はとても参考になったし、面白かった。

    表現の豊かさって、やっぱり「たとえ」で決まるのだと思う。
    比喩を使ったり、例え話や実例を持って来たり。
    それなしでも言いたいことの骨格は言えるけれど、伝わり方は絶対に違う。
    自己満足ではない文章は、そういうサービスがあるものだ。

    知識をもっともっと蓄えるとともに、自分の伝え方も磨いていきたいなあ。
    著者の本を続けて読んでいきたいと思います。

  • LD・ADHDの困難とは、それが障害とはみなされづらく、ゆえに、なんの対応も取られないことにある。
    ある映画で出てくる青年は、知的障害が軽度なために、かえって理解されずに就職実習で困難と挫折を経験する。周りの期待がわかるだけに、厳しい社会の壁を前にふともらすつぶやき・・・。「俺がもっと馬鹿だったら悩まなくていいのに」
    この苦悩は実にリアルに胸に響く。僕自身も、学生時代に落ち着きがなく、そして何より、授業の内容がまったく頭に入ってこなかった。ADHDやLDの診断を下されたわけではないが、自分自身の意志ではどうしようもないこの状態にたいして、それらの症状が多少なりとも関与していることは可能性としてありうる。僕は結局、どんなに真剣に聞いても、耳に入らず、理解もできない授業を放棄し、聞くことすらもやめてしまった。だから、学生時代を通して、僕の成績は、最後から指折り数えることができるほどの低さだった。特に数学などは、いつも0点か2点だった。勉強が嫌いなわけではない。ただ授業が頭に入らない、人の話が頭に入らないという辛さ。これは僕にとって切実な問題である。そしてそれは現在においても治っておらず、そのせいで公務員学校もドロップアウトしてしまった。就職したとて、その懸念は常について回る。
    大学時代に、僕は学ぶ楽しさを知った。しかしそれは一人で学ぶということだ。一人で興味の赴くままに学ぶことは無理なく学べる。これはADHDの典型的な症例でもあり、ADHDで有名なアインシュタインも、学校では落第生だった。彼の業績は、全て一人で学んだ思考実験の賜物である。
    ADHDやLDが苦しむ背景に、理解されないということがあるが、まず現れるのが、学校生活である。
    教師とは、自分に定められた教科を教えていれば教師なのであろうか?そもそも教育とはなんなのか?この本には「教育とはサービスである」と書いてある。サービス(奉仕)とは、「献身的に国家・社会のために尽くすこと」、教師の立場で言うなら、尽くす対象は子供たちである。尽くすとは、ただ単に教科を教えることではあるまい。子供たち一人一人の問題に目を向け、取り組むことをいうのではないだろうか。
    「特異な学力のつまづきや困難に目を向けたLD概念は、わが国のように勉強の遅れを教師の責任として敏感に受け止めることのない教育風土では問題視されにくいという状況があった。だからこそ、不登校とか学級崩壊といった、子供の行動がある沸点を超えると一気に問題として表面化する」
    以前も書いたが、僕は教師というものは、単なる職としてあるものではなく、よりいっそう人格的な素養が備わっていないと勤めてはいけない資格だと思っている。それは、人を育てるという責務が、少なくともその何割かは、教師の双肩にかかっているのだから。勉強ができない生徒に対し、あの子はできないとか、レッテルを貼るのではなく、自分の教え方があの子には合わないのではないかとか、どうすれば、あの子が勉強しやすい環境を形成できるかを自分の責務として考えていくことが教師のプロとして姿勢ではないだろうか。
    「出来のいい子供ばかりを相手にするのは“えこひいき”だが、手のかかる子、遅れがちな子、外れがちな子を、ひとりひとり、タイミングよく特別扱いする“ひいき”は、ベテラン教師、今風にいうならスーパー教師なら誰でもすることである。
    反対に、やっかい者扱いする目や無視しがちな態度は敏感に子供たちに伝わる。いじめの原因を探っていったら、何気ない教師の言動がそのきっかけだったという例もある」  
    では、LDやADHDの子供たちに、どのような手段を講じるべきなのか。
    「物事を肯定的に捉えるか、否定的に捉えるか、その差は大きい。LD・ADHDにしても同じである。彼ら自身が、まず自分の得意な領域や長所をしっかり知っていること、次に苦手な領域や短所について客観的に見つめること、そのうえで克服する努力を続けるのか、必要な助けを借りるのか、別の手段で代替するのか、まったく別の道を選択するのか、そうした作戦について知恵を集め、冷静に考える経験を積むことが最も効果的な教育といえる」
    それを選択しなくてはならないのは、障害を持つ子ら本人である。いずれの道を選んでも、道は険しく、困難である。
    「もだえ苦しむ最中の事例は、それを自らの責任とするには熊の胆のように苦い」
    だからこそ、教師は、彼らの旅路の杖となり、道標となってやらねばならない。
    「障害を個性としてみんなが理解できるならば、障害という概念をあえて使う必要性はない。しかし、その障害の実態が理解されぬまま不適切な対応が存在するのであれば、障害を明確化するのは、必要な作業なのである」
    不適切な対応を行っているのは、教師であり、親であり、われわれである。
    「その個性が不利をこうむるとき障害となる」
    本当なら、LDであるとか、ADHDであるとかはどうでもいいのである。それを個性と理解し、その個性にしっかり向き合っていくことさえ出来れば。
    われわれは、そのことを認識することから、はじめなければならないのだと思う。

  • 知識がつきました。まだまだ知らないことが多いことを痛感しました。が、ここに書かれていることをそのまま鵜呑みにするわけにもいかないな、とも思いました。事あるごとに読み返していこうと思います。

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