47都道府県の関ヶ原 西軍が勝っていたら日本はどうなった (講談社+α新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062725750

感想・レビュー・書評

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  • 関ヶ原後の改易や配置転換で、大まかな日本の大名の位置づけが決まったので、主にそれを追った一冊。

    各都道府県別ということで、弱冠のムリはあるものの、従来の歴史とは違った視点で面白かった。

  • mo

  • 序章とエピローグはわりと面白かった。
    各県については、知らない大名についてはあまり頭に入らず。
    評価は、トータルで3というよりも、4や2の部分が混在した結果の3。

  • 基本スタンスは、徳川批判・豊臣評価、武田過小評価。後世に脚色されたであろう戦国物語を事実の積み上げにより冷静に否定している。
    そういう意味で面白味はないが、正しい歴史を知る教科書的な評価が出来る。

  • 我々は歴史を知っているので関ヶ原の戦いは東軍が勝って、その後に江戸幕府成立に繋がったと理解していますが、関ヶ原の戦いは西軍が勝つ可能性も十分にあったと様々な本を読むことで分かりました。

    私にとってのこの本の印象は、タイトルとは異なっていて、実際の歴史のウラ話(正しい内容と思いますが、私が今まで理解していなかった内容)の解説がメインだと思いました。

    この本の著者である矢幡氏は、豊臣政権は近代的な国家体制と、アジア世界で積極的な戦略を展開していて、東軍により否定されたが明治維新により回復されたと記していて(p269)この点が印象的でした。

    以下は気になったポイントです。

    ・豊臣秀吉は東洋のナポレオンというべき業績がある、1)朝廷の権威の回復、これが現代に到るまでの独立と統一を維持する力となっている、2)国土デザイン、全国の県庁所在地のうち半数以上が関ヶ原前後に豊臣系大名によって創建、改造された(p13)

    ・信長が欲したのは鎌倉幕府における北条氏のような地位、北条氏と同じ平氏を主張していて当然の発想(p16)

    ・信長がモデルとしたのは、関東公方のような形であり、足利義昭がこれを認めてれば問題なかったが、義昭は管領より上の地位を臣下に与えることは将軍として許せなかった(p17)

    ・清洲会議の結論は、家督は三法師丸が継いで、社長は空席、次男の信雄と三男の信孝が最高顧問、運営は重役たちの集団指導体制というもの(p23)

    ・織田家の序列は、信忠、信雄の次は信長の弟の信包で、信孝はその次だったが、信雄の行動が鈍かったのと、信孝が山崎の戦いに参加していてややこしくなった(p24)

    ・家康がなぜ秀吉と戦ったかは、本能寺の変後に横領した信濃と甲斐を返したくなかったから、武田氏滅亡時に、家康は駿府を、信長は信濃、甲斐、上野西部を得た(p27)

    ・秀吉が家康に譲歩したのは、当時の最大の関心は貿易の独占と海外進出であったから(p28)

    ・西軍は2位の毛利と3位の上杉の連合であったが、両者ともにすべてを賭けた戦いを避けた(p40)

    ・戊辰戦争において、中央の情報を正しくつかんで官軍側に立った秋田、新庄は官軍到着前に庄内藩に攻撃されて大損害、新発田や三春のように最初は列藩同盟に付き合って後に寝返ると被害は少なかった(p42)

    ・室町時代から戦国にかけては、関東は準独立国であり、足利直系の関東公方(後に徳川家康が後継)やお目付け役である関東管領としての上杉家があった(p53)

    ・伏見城が廃城になった後には、江戸は事実上の首都になり1634年以降には将軍は京に上らなくなった、これが崩れるのは家茂が上洛して大坂城で征長戦争の指揮をとってから、これ以降は江戸城は私的な居城でしかなくなった(p58)

    ・丹羽長秀が坂本城で三法師丸を預かった後、9歳で元服して従四位侍従となった、前田、毛利、上杉と同格、12歳で岐阜城主(13万石)となり従三位中納言に昇進、秀忠と同じ昇進ぶり(p118)

    ・秀信が西軍についたので、美濃の諸大名の多くが追従して西軍に参加した、初陣である関ヶ原で負けて高野山へ追放となった(p119)

    ・源頼朝によって九州を3カ国ずつ3人の守護(少弐、大友、島津)がおかれて、初めは鎌倉から代理を派遣していたが、元寇を機に土着した(p163)

    ・全国の戦国大名のほとんどは、信長・秀吉・家康によって移動があったが、最果ての地というべき北東北と長崎県では生存率が高かった(p178)

    ・太閤検地とは、中央政府の手で検地をして、ヤミ給与を摘発して土豪達の知行地を減らして、手数料を蔵入地として上納させる仕組みであった、中央政府と地方政府の統治力を上げる優れものであった(p186)

    ・琉球において徳川幕府が創った関係は、ほぼ、慶長の役で朝鮮について秀吉が目指したものと同じ(p193)

    ・豊臣家は滅亡まで徳川家と天下人や畿内の盟主としての役割を分担していた、家康・秀忠・家光の将軍宣下は伏見城で行われている、家康の駿府移住後には、伏見城は徳川家の畿内における居城となり、政権所在地としての江戸城、西日本拠点としての大坂城、京都での居城としての二条城に機能分化した(p232)

    ・安土城は本能寺の変の後に三法師丸の居城として使われたことがある、廃城になったのは、信雄が秀吉に臣従して三法師丸が坂本城の丹羽長秀のもとで養育されるようになってから(p253)

    ・江戸時代が環境先進国というのはウソで、山林が荒廃して明治になってから緑豊かになった、リサイクルが盛んだったのは貧しく交通インフラが貧弱だったから(p271)

    2010/09/20作成

  • 2009.8.26読了

  • 西軍が勝っていたらのIF本なので偏りはあります。私は西軍贔屓なので読んでて楽しかったです。
    著者は徳川が相当お嫌いなようで(笑)

    著者の説を推すと西軍が勝っていたときの日本のポテンシャルは無限大。
    明治維新後あんなに必死に頑張らなくてもよかったかもしれないですね。


    しかしこの本の恐ろしいところは目次にホイホイされると痛い目を見るという事です。

    三重 藤堂高虎・七度の転職の言い分

    にちょっと期待しすぎました。

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著者プロフィール

1951年、滋賀県大津市に生まれる。東京大学法学部を卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。北西アジア課長、大臣官房情報管理課長、国土庁長官官房参事官などを歴任。在職中にフランスの国立行政学院(ENA)に留学。現在は徳島文理大学大学院教授を務めるほか、作家、評論家として活躍中。著書は150冊を超え、ベストセラー『江戸三〇〇藩 最後の藩主』(光文社新書)のほか、近著に『365日でわかる世界史』『365日でわかる日本史』(清談社Publico)、『日本の総理大臣大全 伊藤博文から岸田文雄まで101代で学ぶ近現代史』(プレジデント社)、『日本人のための日中韓興亡史』(さくら舎)、『歴史の定説100の嘘と誤解 世界と日本の常識に挑む』(扶桑社新書)、『令和日本史記 126代の天皇と日本人の歩み』(ワニブックス)、『誤解だらけの韓国史の真実』『誤解だらけの平和国家・日本』『誤解だらけの京都の真実』『誤解だらけの皇位継承の真実』『誤解だらけの沖縄と領土問題』(イースト新書)、『消えた都道府県名の謎』『消えた市区町村名の謎』『消えた江戸300藩の謎 明治維新まで残れなかった「ふるさとの城下町」』『消えた国家の謎』(イースト新書Q)など、日本史、西洋史、東洋史から政治、経済、文化など多方面でリベラル・アーツを重視する斬新な視点で話題となる。

「2022年 『家系図でわかる 日本の上流階級』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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