熊の敷石 (講談社文庫)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062739580

作品紹介・あらすじ

「なんとなく」という感覚に支えられた違和と理解。そんな人とのつながりはあるのだろうか。フランス滞在中、旧友ヤンを田舎に訪ねた私が出会ったのは、友につらなるユダヤ人の歴史と経験、そして家主の女性と目の見えない幼い息子だった。芥川賞受賞の表題作をはじめ、人生の真実を静かに照らしだす作品集。

感想・レビュー・書評

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  •  二年ぶりに再読。改めて思うけど、すごく良かった。
     最近のわたしがずっと気にしている部分を深いところでぐさぐさ貫かれるようで泣きそうになった。

     ひとを好きになったり嫌いになったりするとき、その究極的な根拠はただ「なんとなく」という感覚にあるのだと思う。理屈とは別のところにある「なんとなく」の論理を信じている。むしろそう信じること以外に他人を、決して触れられないし理解もできない他人を、好きになる方法を知らない。あのひとにとって切実な痛みを同じように切実なものとして共有することがわたしはできない、それでもあのひとを何か大切であたたかい存在であると現に感じてしまっていることを、「なんとなくそんな気がするから」という以外にどう説明すればいいのかわからない。根拠など持たないまま、ものすごくグレーであやうい関係性の中でわたしは他人と暮らしている。
     『熊の敷石』は、「なんとなく」で築いてきた(と思っていた)居心地の良さが、不意にぐらりとその足場を失う瞬間を描く、関係性の物語だと思う。なんとなく、を信じるのは、とても傲慢なことなのかもしれない。無知で盲目で、愛していながら知らず知らずに相手を傷つける悲劇、そういうものと常に背中合わせになりながらわたしたちは生きてゆくしかないのだろう、ラ・フォンテーヌの熊のように。悪意がなくても偽りがなくても、傷つけてからでは、遅いのに。取り返しのつかない痛みを負わせてしまう恐ろしさは、当たり前のように傍にあった。それは今までもこれからも、わたしが誰かと一緒に生きる限り避けることのできない悲劇の予感だった。

     まるでどうでもいい余談だが堀江敏幸さんについてあれこれ検索しているうちに、彼の誕生日がわたしと同じ日であることを知った。どうでもいいけどうれしい。

  • 淡々としているけど何処かシビアで、何か起こりそうな不穏さはずっとあるけれど重大な事は起こらない…不思議な空気です。
    でも全く退屈はしないし、静かな映画を観ている様です。
    シーンの描写が視覚的。フランスの情景も良いです。食べものも美味しそう。
    表題作の「熊の敷石」という言い回し、「要らぬお節介」という意味みたいだけれど教訓となってるお話が衝撃的でした。初めて知りました。
    大家さんの眼球の無い息子と、目を糸で縫い止められている熊のぬいぐるみも印象的です。でもまさか歯痛で終わるとは。。
    2つ目のお話は砂の城大会がたいへん気になります。
    3つ目はそんなに。「ぺなぺな」という表現は好き。

  • 熊が怖い。敷石と見紛われた夢のなかの熊、敷石で老人の頭をかち割った寓話のなかの熊、盲目の子どもを投影されたぬいぐるみの熊。だが根本においてわれわれをどことなく不安にさせるのは、なにかが別のなにかを呼び起こすときの齟齬だと思う。それは連想であることもあれば、置き換えであることもある。後者はたとえば一方の者から発された言葉がもう一方の者に受けとられるときのわずかな取り違えであり、さらにそれに翻訳や要約や比喩といった意図的な置換を加えたときのずれである。そうしてその間に潜む歴史や物語の思わぬ出現がひとを戸惑わせる。語り手は自らを寓話の熊に重ねあわせ、齟齬の端緒となる発話を誘発する存在なのではないかと考える。あらゆる単語の羅列された辞書から引っ張り出した言葉が相手になんらかの契機をあたえるように、無縁の風景たちが並列された写真群からなにげなく一枚を選びとる行為すらもが、思わぬ想起を導く。彼は今度は盲目の子と結びつけられたぬいぐるみの熊を思い、そこにそのような不自由からの解放を予感する。しかし寓話の熊が敷石を投げたことが決して悪意に導かれたわけではないままならなさを帯びているように、語り手たちの誘発もなにかの意図をもってのものではなく、一方で盲目の子とそのぬいぐるみの熊はそこに置き換えの関係をかかえており、まったくだれもかれもやるせないじゃないかという気にさせられる。

  • 表題作は、芥川賞受賞作。
    という先入観はともかく、また堀江さんの世界にどっぷり浸かったな、という感じ。
    表題作以外に「砂売りが通る」「城址にて」の2編が収まっている。いずれも、フランスと日本を往還している著者を想起させる主人公で、「おぱらぱん」の続きを読んでいるようでもあった。
    いずれの物語も、現在から、ぐっと過去に遡り、大きな事件というよりは小さな出来事の連なりがあって、また現在に収斂していく。語られる現在はいずれも不穏で、かと言って完全な不幸でもなく、少し欠けたところを抱えながらも毎日過ごしている、つまり、誰もが過ごしている人生そのもののようなんだけど、なんというか非常に映画的で美しい。フランスの風景がそうさせるのか、日本人とは少し違う、濃密な心のやり取りのせいなのか。
    ストーリーを追うというよりも、情景を味わい、そこから想起される、自分の中にある感情を揺さぶられて、心地よくせつなくなるような本だった。

  • 堀江さんの文体はいつもそうだけれど、これはなお一層うす靄の中を慎重に歩くような読後感が。

  • 主人公がフランス人の旧友ヤンを訪ねるところから始まり、ヤンとの話や記憶を通じてフランス(あるいはヨーロッパ全体)の歴史や文化のエピソードを経る。それがある種エキゾチックで、整った文体と相俟ってめちゃくちゃオサレではあるんだけど、作品を通してテーマとして横たわっているのは「人とのどうしようもない差」だと思う。背景や信条、環境など全ての人の間に存在する差異。
    主人公とヤンは数年ぶりに再会し、かつてと同じような親密さを取り戻すものの、共有できない感情と年月に気付き、わずかな違和感を感じたまま再び別れる。

    ラスト手前で、フランスでは有名(らしい)な寓話が挟まれる。爺さんと仲良くなった熊が、爺さんが昼寝をしている間に飛び回る蝿を追い払うために敷石を投げつけ蝿もろとも爺さんまで殺してしまうというもの。
    無知な友人こそ害、程度の意味で「熊の敷石」という表現と共に訓話として残っているという。
    最終的に一方が他方を殺すという衝撃的な結末になるものの、二人は間違いなく親密だったし熊も爺さんが好きだったからこその行動だったのだ。

    蜜月の時にはほとんど見えなかった境目に、時という水が流れ込み、やがては埋めることの出来ない溝となり川となっていく。時が流れるのも人が変わっていくのも止められない以上は、人と人の関係が同じでいられないのも当然のことだろう。これは誰しもが人生において必ず経験する悲しみだ。どうしようもないからこそ虚しく悲しい。

    自分はこの「人生におけるどうしようもなさ」をぶつけてくる小説がすげー好きで、これは文体もキレイだしオサレだしかなり人に勧めたい作品。

    ラスト。強烈な虫歯の痛みで、かつてのヤンとの記憶がフラッシュバックしながらの最後の一文。
    「病んだ下顎から神経のすべてを統括する見えない中枢にむかって、取り返しのつかない時間がじわじわと遡っていくような気がしていた。」

  • 読みました。
    熊と虫歯と友人のヤンが巡る、静かなお話です。

    主人公がペタンクの大会で出会った友人ヤンと久しぶりに仏で
    出会います。

    ヤンは明日の朝アイルランドへ発つ予定。

    それまでの出会いや、ヤンの生誕地、
    そこはまた仏辞書を編纂したリトレの生誕地でもあります。

    土地を巡っての主人公の様々な思いがじんわりと伝わってきます。

    カトリーヌの息子の熊、すごく印象的です。

    それと時々垣間見える、過去の様々な作品のイメージ。
    また、ユダヤ人の友・ヤンとの関係は、日本の学生と海外留学生との対話を思わせ、
    身近でもあり、遠くもあるような距離感を感じました。

    作者は仏文学者ですが、仏・独両方のお話が伺えるのもいいですね

  • 三篇とも、静かな感じがとても気持ちがよいです。

    表題作も印象的ですが、

    『砂売りが通る』が一番気に入りました。
    「ありがと」という「どんな状況でも押しつけがましさのない礼のひとこと」、が「彼女」のさっぱりとした人格や主人公との関係を象徴しているようで素敵です。

  • 表題はラ・フォンテーヌの寓話から。親しくなった老人の安眠を守るために集りくる蝿を追い払おうと、「敷石をひとつつかむと、それを思い切り投げつけ」、「老人をその場で即死させ」てしまう。この訓話から「いらぬお節介」「無知な友人ほど危険なものはない」といった意味らしい。

    ・作品には、カマンベールチーズ・ペタンク・敷石、それらを「投げる」イメージが周到に配置されている。投げること。「敷石」を投げつける「熊」。その野蛮で「暴力的」なイメージ。

    ・語り手はユダヤ人の友人と、或いは全盲の子とその母親と「なんとなく」によってつながった関係性を有している。そのような関係のもとで、親しげな、ときに「パイ」を供応される親密な関係性も構築されてはいる。

    ・だが、「なんとなく」が瀰漫したところでも、事後的にしか確認し得ない形で「何か」は「投げられて」いたかもしれない。(コミュニケーションの場面で出来する「他者性」。あるいはそこでの根源的な「暴力」?)

    ・作品では、振舞われた「パイの甘み」が虫歯に響き「身体の内側を貫通する針金を抜かれているような痛み」が「私」を襲う。「歯の痛み」すなわち「私」には統御し得ない何者かとしての「他者」が露呈する瞬間)が生じる可能性は、誰もが「なんとなく」の関係で他者と関係しているなかでは、既に常に胚胎しているのだし、だから誰もが「熊」になり得る。

  • 決して読みやすくはない。
    けれど独特な空気が漂う本。不思議な感触。

    その不思議な感触の由来は、舞台のフランスという土地や人に染み付く空気を、日本との文化的差違を踏まえてぼんやりと描くからなのかもしれない。日本語にすっかり置き換えてしまうのではなく、距離のあるものとして日本語で描く。
    人間と土地の根底に流れる根本的な潮流の違いを描きたかったのかなと、文中に出てくるユダヤ人に関する話や寓話などから感じた。

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著者プロフィール

作家

「2023年 『ベスト・エッセイ2023』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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