取り替え子 (講談社文庫)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (392ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062739900

作品紹介・あらすじ

“まだ生まれて来ない者”たちへの希望を拓く、感動の長篇小説
かけがえのない友の死を濾過し、ひときわ澄んだ光を放つ、大江文学の到達点!

チェンジリング【Changeling:英】
美しい赤ん坊が生まれると、子鬼のような妖精がかれらの醜い子供と取り替える民間伝承が、ヨーロッパを中心に世界各地に見られる。チェンジリングとは、その残された醜い子のことを指す。

国際的な作家古義人(こぎと)の義兄で映画監督の吾良(ごろう)が自殺した。動機に不審を抱き鬱々と暮らす古義人は悲哀から逃れるようにドイツへ発つが、そこで偶然吾良の死の手掛かりを得、徐々に真実が立ち現れる。ヤクザの襲撃、性的遍歴、半世紀前の四国での衝撃的な事件…大きな喪失を新生の希望へと繋ぐ、感動の長篇!

感想・レビュー・書評

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  • この辺から後期オーケンとでも言うのだろうか。
    文から角というかクセが取れている(それでも読み易い文ではないが)。
    息子の光氏につき特に丁寧な扱いをしているが、唸る様な描写が少なく若干物足りなさを感じた。

  • 高校時代からの親友であり映画監督の塙吾良がビルから投身した。古義人のもとには彼の声が吹き込んであるカセットテープとそれを再生するための「田亀」があった。「田亀」をとおして吾良と会話する古義人。その姿におびえる妻の千樫と息子のアカリ。

    「田亀」と距離をおくためベルリンに赴く古義人。
    週刊誌では吾良の死因が悪い女に求められるが、吾良と千樫はそうではないと思う。
    吾良がヤクザに襲われたときのことから、吾良は自然と自分に襲いかかってきたテロルについて思いを寄せる。

    ベルリンに行く前、千樫は古義人に言う。
    彼らが学生のとき、夜中に帰ってきてガタガタになっていた、あのときのことを今度はウソをつかずに書いて終わるべきだと。

    その出来事は「アレ」と呼ばれる。
    吾良のほうからは「アレ」を描いたと思しき絵コンテがあり、吾良は今まで培った小説技法をたよりに吾良の視点からの「アレ」を描こうとする。

    大黄さんという、吾良の父親の門下生だった人物があらわれる。米軍の占領下、彼は講和条約の発効前に日本人からの蹶起がなされるべきだ、少なくとも抵抗したという歴史の片鱗が必要だと考えている。そのためには米軍と同等の武装が必要になる。

    この武器を与えるのがCIEで働いているらしいピーターという白人の役目であるらしい。
    ピーターが吾良に対しどうやら性的な願望を持っていて、大黄さんは吾良を利用して取引をするつもりらしいことが示唆される。

    結局のところ、「アレ」とは何かはわからない。
    在日の子供らに剥いだばかりの牛の生革を頭からかぶせられ、体が血と脂でどろどろに汚れてしまう……。

    実のところ僕は加藤典洋「小説の未来」を読んで本書を手にしたのであって、ここで行われたのが強姦であるという説が頭のなかに既にあった。
    でもどうやらこの評論がいくらか物議をかもして大江の「憂い顔の童子」では作中で引用、批判されてもいるようだ。

    しかしそうはいったって、そういう性的な事柄を連想させるような書き方がなされていると思うのだが……それが不協和音として松山の回想を暗い基調にしているというような。

    最後の章は千樫の視点から語られる。
    そして「取り替え子」というタイトルともなった一連の思想が垣間見える。

    しかしながら松山の回想における張りつめた糸のような緊張感が、ここでどこかすっぽぬけてしまっているような気がしてならない。
    それはなんだろう、千樫という女の肉体をもった人物というのがどうも想像しにくいところにありそうだ。

    端的に言って女を描くのはあまり上手くないのじゃないか、という気も。
    女が自主的に動いているというより、常に作者の視線のなか操り人形のように女が語らされているような、不快感というのかな。

    それから主題に感心したかといえば、歳も離れているし、実感としてはあまり来なかった。
    ただ読書体験としては久々にスリリングなものだったと思うし、読んでいて揺さぶられるような心地良さがあった。
    というわけで本当のところは☆4.5くらい。

  • 五良の自殺(≒伊丹十三の自殺)の根底にあったであろう“アレ”の正体を各々模索していく物語。
    奇しくも、『万延元年のフットボール』と、自殺の原因の探究という点では同じなぞらえ方をすることとなった。

    「取り替え子(Changiling)」という逸話を物語へ絡めこむ上手さ。
    終章にて、モーリスセンダックの絵本からヒントを得て主題となるこの言葉は、それまで一切出てこない。
    そしてまさにこの「取り替え子」の考えによって、五良の死を、次の世代の誕生に繋いでいく…。
    『懐かしい年への手紙』でも感じた、終章に通底する独特の清らかさ。

    ——もう死んでしまった者らのことは忘れよう、生きている者らのことすらも。あなた方の心を、まだ生まれて来ない者たちにだけ向けておくれ。

  • 古義人こぎと、奥さんの千樫ちかし。義兄の吾良ごろうが自殺。田亀というカセットテープレコーダーで声を聞く。
    文章が、そのままの英訳みたいと感じた。○○は、それは○○だが、○○である。とか。
    この文はどこにかかっているのかを考えながら読まないと、イメージできない。大江さんの文章は、こういうかんじなのかな?
    あと、漢字が難しくて読めないのがよく出てくる。なんとなく意味はわかるけど…

    とりあえず頑張って最後まで読みましたが…
    その場のストーリーを目で追うだけで、あまり読み取れずに終わってしまった。
    結構時間かかったので、他に読みたい本もたくさんあるのにこの本をチョイスしたのを少し後悔した。でも、どうであれ初めて大江作品に触れることができたのは、よかったかな。
    ちなみに、大江作品を紹介してくれた友人は、「後期の作品よりも、初期がオススメ」って…先に言うて!

    最近知ったのですが
    初期から最近の作品を集めた短編集が出てるらしいですね!それはそれで、読んでみたくなりました。

  • 読み辛くてぜんぜん進まない…

  • 大江健三郎氏の小説を二冊読んで、新書を何冊か読んで、気がついたことは、大江健三郎という方は、とても保守的な方なのだということです。でも思想やイマジネーションが革新的なので、わかりづらいと思われてしまうと、過激なことを好んだり、白黒つけなければ気がすまなかったりする人には、理解できなくなり、裁判を起こされるようなことにも残念ながらなってしまうのだなあと、思いました。(もともと文学を知らない人が、文学の奥深さを知るには、魔法使いに弟子入りでもしなければいけません)

    大江氏は決して、言いませんが、保守的な傾向に導いたのは、息子さんであろうと、同じ知的障害のこどもを持つ私は、よくわかります。障害のある息子さんを持たなければ、あるいは、もう少し過激な人生を送られていたのかもしれません。故伊丹十三氏と同じように。

    たとえば、知的障害の息子が冬の朝方暗いことへの不安から、マンションの玄関で大声をあげたとしたら、そして、その苦情を言われたら、「知的障害なんだから、仕方ないでしょ? 何が悪いの?」とは言えない訳です。それは、子供のために言えないのです。子供は、それをしてはいけない、ということを、大人になるまで、少しずつでも学んでゆかねばいけません。じゃないと、大人になっても、そこここで、大声をあげるような、異常な大人になってしまいます。そうさせないように、教え込むことは、知的障害なので、無理です。そこは、親が周囲に気を配ってゆくしかないのです。
    そういうことを繰り返していると、人格が保守的になっていまいます。
    仕方が無いことです。

    だからこそ、本当に革新的な、そして、過激で華やかな人生を送った伊丹氏を、心から、(青年時代にジャン・コクトー『オルフェ』のジャン・マレーに自分を見立ててくれたほどの、同性愛的な感性をずっと宝石の如く大切にしながら)尊敬し、眩くどこかとおくから、見つめるように、人生の一部にしていた訳です。

    最高のワインを味わう如く、最高の文学、最高のイマジネーションを、味わえるのだと思いながら、大江氏の小説を、たくさんの人に読んでほしいなあと、自分も二冊読んだばかりですが、思います。

    伊丹十三氏の自殺を取り上げてはいますが、大江氏は決して、一般的な「理由付け」で突き詰めてこの小説を書いてはいません。多くの後悔を文章中に孕みながらも、生と死そして、死を超えた、魂へのいとしい想いを、広い広い空間に投げ出しているかのように、暗い曇天を描きながらも、生き生きと、描いています。

  • 奇妙なスルメ小説
     最後の千樫の推測のくだりで身震ひする気持になったが、なんとも奇妙な小説だと加藤典洋の書いてたままに評しよう。
     どうも前半までは平坦だとおもってゐたが「覗き見する人」以降おもしろかった。ギシギシの挿話に熱中させられるものがあった。
     かういふ小説は、事実背景を知ったうへで再読するとより面白く感じられるとおもふ。実際、いま再読して前半もおもしろい。
     まあ評判を聞かずに読むのがいい。たぶん勝手に期待するとぴんとこない。斎藤美奈子や松岡正剛がぴんとこなかったのもわからなくはない。なにしろその続篇として『憂い顔の童子』があるのだから。

  • f.2023/6/29
    p.2006/4/20

  • 私は私小説的であるか否かに興味がないのだが、自分も父を亡くしたばかりなので、なぜ大江健三郎さんがこの小説を書いたかは分かった。これは弔いであり、彼なりの心の整理の仕方で、昇華したというだけである。もちろん美談的に偶像化されてもいるだろうけど、死者‬を褒め称えるのは礼儀でもありますし、大江健三郎から義兄への弔辞であったのでしょう。かつ故人に家族では反論したいスキャンダルがあったら否定したかったのかな。
    田亀の冒頭のせいでSFかな!ってわくわくしたら違ったが、それなりに面白かった。頭が足りないので難しかったけど。

  • 読みにくかった。難解なのとは違う、純然たる読みにくさ。一つの文章でも、読み直さないと文全体の意味が分からなかったりして、小説の世界に没頭する事が出来なかった。
    万延元年のフットボールはとても好きだったので、おそらく前期から中期の大江健三郎さんが好きなのだと思う。

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著者プロフィール

大江健三郎(おおえけんざぶろう)
1935年1月、愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)に生まれる。東京大学フランス文学科在学中の1957年に「奇妙な仕事」で東大五月祭賞を受賞する。さらに在学中の58年、当時最年少の23歳で「飼育」にて芥川賞、64年『個人的な体験』で新潮文学賞、67年『万延元年のフットボール』で谷崎賞、73年『洪水はわが魂におよび』で野間文芸賞、83年『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』で読売文学賞、『新しい人よ眼ざめよ』で大佛賞、84年「河馬に噛まれる」で川端賞、90年『人生の親戚』で伊藤整文学賞をそれぞれ受賞。94年には、「詩的な力によって想像的な世界を創りだした。そこでは人生と神話が渾然一体となり、現代の人間の窮状を描いて読者の心をかき乱すような情景が形作られている」という理由でノーベル文学賞を受賞した。

「2019年 『大江健三郎全小説 第13巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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