- Amazon.co.jp ・本 (344ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062743532
作品紹介・あらすじ
「権力」とは"支配-被支配"という二項図式ではたらくのではなく、たえずどこででも生産されるものである。日常のなかに浸透し人々をひそかに動かす「知」の様式にむけられたフーコーの視線は、近代の自己規律的理性が、自発的に権力に服従するという逆説を明らかにする。それは「知」に内在する「権力」の働きの解明であると同時に、近代理性への根本的反省をうながしている。
感想・レビュー・書評
-
大学のとき、フーコーの「狂気の歴史」を読み、なんだか分からないなりに、大きな刺激をうけた。狂気という概念が時代によってどのように変って行ったかということに関する、さまざまな文献に基づいた分析なのだが、「歴史」というより、「哲学」「思想」の本として読んでいた。
その後、アメリカの大学に行き、「政治学」を学ぶ機会があって、「政治思想」の単位を必要上、いくつかとったのだが、アメリカでは、フーコーが、「政治思想」として、そして「歴史学」として、位置づけられて教えられているのを発見して驚いた。フーコーは、「学問」「社会科学」であったのか!アメリカ人が、フーコーを正面から受け止めつつ、それを真面目に学問にするところに、アメリカの懐の深さというか、大学における「学問」という「制度」の力を見た気がした。(たとえば、ジュディス・バトラーとか、ベネディクト・アンダーソンとかの議論は、フーコーの影響なしには、考えられないのではないだろうか?)
さて、本書であるが、難解なフーコーを「人と思想」みたいな感じで、かなり分かりやすく説明している。こんなに分かりやすくていいのだろうか?とか、近代的な概念としての「人間の死」を宣告したフーコーをその人生にもとづいて、作品を解説していいのか?とか、思わなくもないが、どうも、そういうものでもないらしい。
本書を読み進むと、フーコーが、自分の個人的な人生の悩みのなかで、自分の問題を、歴史的な文献の分析を通じて、思考していたことが分かる。ちょっと引用すると、
「『私の書物のどれもが、私の自伝の一部』なのだ、とフーコーは述べている。フーコーが人をとらえて放さないのは、個人の苦悩の探究が、社会を知りたいという欲望とむすびつきうるのだ、という事実をフーコーがあきらかにしたからなのである」
とのこと。すごく共感した。
さて、この本は、このように「人と思想」という形で大変分かりやすいのだが、1976年の「知への意志」くらいまでの思想の紹介で止まっていて、そこから、フーコーが死の直前まで推敲をして書いた1984年の「快楽の活用」「自己への配慮」までの思考の変化について、あまり書かれていない。このへんのところは、現在も少しづつ刊行されているコレージュ・ド・フランスの講義録によって明らかになりつつある領域なので、1996年出版のこの本ではカバーできなかった領域で仕方がなかったのかな?
と思いつつ、今、私が興味をもっているのは、まさにこの1980年代の最後のフーコーなので、この辺は、やや不満かな。
同じ1996年の中山元の「フーコー入門」は、その辺もしっかり書かれていて、またこちらも分かりやすい本なので、あわせて読むといい、と思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
定評あるシリーズの一冊で扱いやすいテクスト。さいごの二書があまりにも軽く扱われているところは少々不満だが、最終節の著者自身の思い入れたっぷりの「ひとはなぜフーコーにひかれるのか」はなかなかよかった。
ひとは自分で思っているより、はるかにずっと自由なんだよ。あきらかであるとされていることなんていくらでも批判できるし、くつがえせるものなんだよ。
フーコー自身が、自分の本はその実践のための道具箱だと言うのだ。 -
伝記スタイルなのでフーコーの生涯も追いながら、
思想をおさらいできるのでよい。
ある意味「人間科学」の祖はフーコーと言っても
よいかもしれない。 -
6月の3冊目。今年の76冊目。
ミシェル・フーコーの評伝。フーコーの本を今読んでいるけど、よくわかんないので、ちょっと評伝を読んでフーコーについて理解を深めようと思って買った1冊。わかりやすかった。けど、筆者の考えなのか、フーコーの考えなのかわかりにくい箇所がいくつかあった。文章自体は平易なんだけど、あれ、「この文の主語って?」っていう感じがある。
まぁこれで、フーコーの本をよりよく読めるような気がします。 -
デリダに続いて、デリダに影響関係にあるフーコーについて知りたいと思い本書を購入。
フーコーを知るのに良い入門書。 -
フーコーの人生も含めた、フーコー入門書。
フーコーの人生における軌跡にからめ、彼の著作を分かりやすく説明している。
監視社会化の是非が問われる昨今、「監視」と「権力」についての解析において多大な功績を残した20世紀における哲学の巨人・フーコーの業績は、とても重要な意味を持っているだろう。
フーコーは「権力」はたえずどこにでも生産されるのであると説き、「支配するもの-支配されるもの」という単純な二項図式を否定した。抑圧or差別されているものが、別の弱者を抑圧or差別するということは頻繁に起こるのであり、このことは権力関係がどこにでも発生することを示している。
「監視」については、近代社会そのものが「監視」で成り立っているものであり、その「監視」は自動化・非個人化・内面化されており、それは自発的な服従を生み出す。こうして近代社会を生きる人々の意識や行動は、常に内面化された「監視のまなざし」により規制されている。
そして、この「監視」は特定の主体によって成されるものではなく、社会関係の中において発生するものである、とフーコーは説いた。
では、この逃げ場のない「監視」から一体どうやって抜け出すことが出来るのか。処方箋は未だ見つからない。