下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち (講談社文庫)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062763998

作品紹介・あらすじ

なぜ日本の子どもたちは勉強を、若者は仕事をしなくなったのか。だれもが目を背けたいこの事実を、真っ向から受け止めて、鮮やかに解き明かす怪書。「自己決定論」はどこが間違いなのか?「格差」の正体とは何か?目からウロコの教育論、ついに文庫化。「勉強って何に役立つの?」とはもう言わせない。

感想・レビュー・書評

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  • 学ぶ意味、働く意味を考えることは重要じゃない。そんなのは学ぶ、働くうちに見つけるもの、或いは見つからなくても良いもので、学ぶ、働くというのは当たり前のこと。という理解は強引かな?
    内田さんは子供のうちに労働主体として生きることを経験するべきと言っている。そうかもね。自分が生きている社会は誰かの労働の上に成り立つもので、生きているだけで恩恵を受けている。働かずに生きていくというのは難しいこと。

    私が物心ついた時、労働というものは自分以外の他人が担うもので、その対価に自分の何かを差し出すという考えはなかった。親が子どもに「寝床と食事は与えるからその分働け」なんて言ったら虐待扱いされますもんね、今なら。でも昔は子どもも働き手とみなされてたんですよね。食べていくためには子どもも働く必要があった。そうしないと家族が生きていけなかった。

    何のために働くのか、とか考えることもなかったんでしょう。働かなきゃ生きていけないから。
    今は働かないでも生きていける人がいる。衣食住やそれに相当する金銭を他人が与えてくれれば。子どもが生きていくのに必要なものを、子どもの労働なしに親が与えることもできる。余裕があるんでしょうね、昔に比べたら。

    働きたくない人が働かないで生きていけるようにはならないのかな?今は他人を養う余裕がある人がいるわけで、その余裕を機械に労働させたり仕事を効率化させることで大きくしていけばいいのではと思うんだけど。
    でも賃金が安いから共働きじゃないと子育て、生活が厳しい人も増えてる。これから余裕はむしろ小さくなっていくのかな。

    労働からの解放というのは実現されないかなぁ。星新一さんの世界みたいだけれど。働かないでも生きていける社会になったら、どれくらいの人が働いてどれくらいの人が働かなくなるんだろう。いっぺん見てみたい。
    政府から半年分くらいの生活費が全国民に与えられて、その期間働く必要はないと宣告されたら。物が買えなくなるしサービスも提供されなくなる。電気も水も使えなくなるかもしれない。働く人がいないから。水が使えなくなったら死ぬから、水道局に出向いて仕事を教えてもらって実践するかもなぁ。水道局の人に教えてもらう対価には何を差し出したらいいだろう。めんどくさいからって拒否されたらそれまでだしな。

    食べ物は?スーパーに出向いていっても営業してなかったら、無理矢理こじ開けて盗むかもしれない。警察だって働いていないかもしれないし。そうなったら法律が機能しないから誰かに危害を加えられる可能性もあるね。なんか殺伐としてきたな。

    やっぱり労働がある世界の方がいいか。働く人が大勢いるからこそ毎日食べる物があってインフラがあって安全に眠れる家があるんだし。
    でも1日2時間週2日労働くらいに短縮されないかな、なんて理想はまだ持ってます。皆がもうちょっと楽できたらいいのにね。

  • 子供が教育の場で消費主体として自己確立している、という視点が新鮮だった。学生が消費者化しているという説は今では定着した感があるが、私は、それは本質的には「授業料」という対価を払う親が消費者化しているのであり、子供は「虎の威を借る狐」として威張っているだけだと思っていた。

    だが著者は、そうではなく、子供が消費「主体」として教育に臨んでいるのだと述べる。つまり、子供は自分を「狐」ではなく「虎」だと思っているわけだ。何故か。今の子供は、手伝いという労働より、買い物という消費活動を先に体験するからだという。大人が持っていても子供が持っていても、お金の価値は変わらない。消費者という立場を取る限り大人と同じ力を行使できると気づいた子供は、教室でも消費者という有利な立場を確立しようとする。彼らが支払うのは「不快」という対価である。「君の提供する教育サービスが気に入ったら我慢して聞いてあげる」という感覚で「勉強が何の役に立つの?」と聞いてくる。

    己の成長に必須の水を、養分を、その本来の価値からすれば殆ど無償で提供しようという人に向かって、その言い草は何事か。だが著者は、子供自身は大真面目なのだと強調する。賢明な消費者は、商品の購入の前にスペックを確認する。意味不明な商品を言い値で買ったりしない。個人は「自己責任」で自らの判断に基づいて「自己決定」する、それが健全な姿である。子供といえども一人の人間なのだから、教育を受けるかどうかは「自己責任」で自らの判断に基づいて「自己決定」しなければならない。意味不明な勉強はしない、それが賢明かつ健全な判断である。子供はそう考えているのではないかと著者は分析する。

    これは、「学び」を語る上で外せない「時間性」という性質を見落とした大人の誤算である、と著者は指摘する。曰く、学んだ後に初めて意味がわかるのが本当の学びなのだから。学びの前後で別人になる、価値観すなわち判断基準が変わる、その動的プロセスが学びの本質である。「何の役に立つの?」と問う、その事実こそ子供が学ばなければならない理由なのである。

    ところが、消費主体として自己確立した子供に、この論理は通用しない。自己決定する主体の判断基準は変化しない、というのが消費者としての大前提だからだ。然るべき時期に学ばなかったツケは自己責任として未来の自分に回ってくるのだが、無時間モデルを採用した子供に、この皮肉は理解できない。「賢い消費者」として、無限の可能性を自ら閉ざす自分に誇りさえ抱きながら、階層という坂を一直線に転げ落ちていく。

    このアイロニーを是正するには、著者のいう通り、市場原理で人生を語るのを止めるしかないのだろう。ありえない問いは断固として斥ける、私もこれが正解だと思う。それでもなお返答を迫られるとすれば、「何の役に立つの?」という問いの答えは、「何の役に立つと思う?」という問いの形をとるしかないのではないか。「学びとは何か?」という根源的な問いには、子供にも分かる形で一言で答えることなどできない。問いを発した者が自分で答えを見つけるしかないという類の問いも、この世にはあるのだ。その問いの答えを見つけるために学ぶのだと、時間変数を織り込んで学びへと誘導するしかないのだろう。言うは易しで、子供がそれで納得するとも思えないが、少なくとも「良い会社に入れる」のような答えで、子供から納得どころか軽蔑を引き出すよりマシだろう。

    私の学生時代の先生は「教育とは火をつけて燃やすことだ。教えを乞うとは燃やされることだ」と仰っていた(正確には私の先生の、そのまた先生の言葉である)。炎を次々リレーしていくこと、パスしていくことが教育なのだろうと私も思う。私の子供はまだ言葉を解せないほど幼いが、私が先達から託された炎をいつかちゃんとパスできるように、一人で世界と対峙しなければならないのではなく、過去から未来へ向かう流れの中に既に繋がっているのだと伝えられるように、切に願う。

  • 【感想】
    若者の学力低下はいつの時代も叫ばれているが、近年問題になっているのは「学力低下」だけではなく、「学ぶ意思の喪失」である。
    学ぶことは間違いなく人生を豊かにする。それは社会階層の向上や年収の増加といった、即物的なステータスの改善のみにあらず、見識の拡大や未知の遭遇への楽しさといった、より複雑な「人間性」の部分を育んでくれる。

    しかし、今の子どもたちは、そうした「複雑で長いプロセス」を嫌うのだ。

    本書は、学ぶことから脱落していくのではなく、自らの意志で主体的に学びを放棄する子どもたちの思考・行動原理を探った一冊だ。タイトルにもなっている「下流志向」とは、たとえ社会階層の下落が明白であろうとも、学ぶことを拒否する若者を、痛烈に皮肉った造語である。

    筆者は、若者たちの「下流志向」の理由は、「消費者マインドによって教育と向き合っているからだ」と語る。
    昔の教育現場は、教師を中心としたコミュニティがあり、学力の向上だけではなく、人間性・社会性を鍛えることにも重きを置いていた。この場において「勉強」とは即効性のあるハウツーレッスンではなく、より複雑で、無駄な情報の多いものであったことは疑いようがない。

    しかし、現代の生徒は、教育を「役に立つか立たないか」で品定めするようになる。子どもたちはまず「それがなんの役に立つの?」という功利的な問いを口にするようになったのだ。

    この質問に対し、教師は的確な答えを用意することができない。
    学びとは、学ぶものがそこからどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまでは言うことができないし、それが教育という制度を成り立たせている。

    筆者は「教育は市場価値には変化できない」と語る。
    消費というのは本質的に無時間的行為である。購入の前と後で時間差があってはならず、買った商品と手に入れた商品の性質が全く異なっていては取引にならない。
    一方、教育は時間的行為だ。ある物事を教わったあとに、それを受け入れる前の自分との間で変化が起こっていなければ、教育は失敗であるからだ。
    自分が何を学んでいるのか知らないという当の事実こそが、学びを動機づけている。母語を知らず知らずのうちに学習していったように、「これを学んでおけば有利だ」と判断してから学習が始まるのではない。

    しかし、消費者たる生徒はその事実を拒否する。そして、教室の中での45分を自分の時間との「取引」であると考え、「オレの大切な時間を浪費するな」という態度を取る。その結果が、授業中におしゃべりする、出歩く、居眠りするといった問題行動なのだ。

    ――――――――――――――――――――――――――――――
    「下流志向」は学生よりも社会人の間で広範に見られる、より深刻な現象ではないだろうか。なぜなら、内田氏が本書で述べているような時間制と無時間制の倒錯――「すぐ食べられて、すぐ効く教育」を強く求めているのは、社会人のほうであるからだ。
    学びという過程をインスタントにすませ、複雑で多層的な知識を「役に立つ」というふるいで選別する。自らの役に立たない情報=意味が分からない情報であり、世界が「虫喰い」になろうとも不快に思わない――本書で述べられていた若者の特徴は、残念ながら社会人にもそっくりそのまま当てはまってしまうだろう。
    ある意味では、子どもたちが役に立つものだけを摂取する社会人を見て育った結果、「何の役にたつの?」という問いを投げかけるようになったのかもしれない。
    ―――――――――――――――――――――――――――

    【本書のまとめ】
    1 学ばなくなった子どもたち
    学びからの逃走…教育機会から「主体的決意」を持って去り、下流社会への階層降下を自発的に行うこと。

    日本の子どもたちは今や世界で最も勉強をしない子どもたちになってしまった。
    今の子どもたちは、わからないものがあっても、どうやらそれが気にならず、わからないままに維持しているようだ。新聞やテレビなどのメディアを通じて見える世界は「虫喰い」的に、一面に意味の穴が空いている。そして、それを不快と思っていない。

    学力低下の危機的な要素の一つは、子どもたちが、自分には学力がないとかを多少は自覚していても、そのことを特に不快には思っていないという点にある。彼らは、「自分の知らないこと」は「存在しない」ことにしているのだ。

    どうして、子どもたちはまず「それがなんの役に立つの?」という功利的な問いを口にするようになったのか。それは、子どもたちは就学以前に消費主体としてすでに自己を確立しているからだ。
    時代が進むにつれ、子どもたちが小さいころからお小遣いを手にするようになり、家庭内労働における「労働者」という立場よりも先に、市場での「消費者」としての態度を身に着けるようになった。消費主体にとって、「自分にその用途や有用性が理解できない商品」というのは存在しないのだ。
    子どもたちは消費者マインドで学校に対峙している。彼らはただ、「自分の不快に対して等価である教育サービス」だけを求めている。関心は教師と自分の間で等価交換が適正に行われることだけだ。
    そのため、教室は不快と教育サービスの等価交換の場となる。授業が不快と思っている子どもにとって、教育サービスとの等価交換というのは、全力で値切ること、すなわち決められた時間以上授業を聞かない努力をすることである。粗暴なふるまいをし、悪い態度を取り、学校から受ける罰を少しでも安くしようとする。

    子どもたちは、自分が何を習っているのか、何のためにそれを習っているのかを、習い始めるときには言えない。自分が何を学んでいるのか知らないという当の事実こそが学びを動機づけているからだ。母語を知らず知らずのうちに学習していったように、「これを学んでおけば有利だ」と判断してから学習が始まるのではない。
    教育の逆説は、自分が学びによってどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、言うことができないということにある。

    「何の役に立つのか?」という問いを立てる人は、ことの有用無用についてのその人自身の価値観の正しさをすでに自明の前提にしている。しかし、「私」が採用している有用性の判定の正しさは誰も担保してくれない。唯一いるとすれば、「未来の私」だけである。


    2 リスク社会
    リスク化とは、社会の不確実性が増し、個人にとっては将来の生活予測可能性が低くなるということ。これだけの努力をすればこれだけのリターンが保証されるという、努力と成果の安定的な関係が崩れ始めることがリスク化社会の特徴であり、「二極化」を招く。

    努力しても報われないという事実がありながらもなお学習努力を続けられる子どもと、学習努力を放棄してしまう子どもの間にはあきらかな学力差がつく。
    リスク社会におけるリスクはすべての社会成員に均等に分配されているわけではなく、階層ごとにリスクの濃淡があるのだ。リスク社会とは、そこがリスク社会であると認める人だけがリスクを引き受け、あたかもそれがリスク社会ではないようにふるまう人々だけがリスクをヘッジできる社会なのだ。
    リスクの少ない社会階層に属する人々は、当然ながら、日々の実践を通じて「努力は報われる」ということを確認し、それによってますます努力するが、逆の人々はますます悪くなる。

    リスク社会におけるもっとも賢明なふるまいは、できるだけ巧みにリスクヘッジをすること。しかし、それがどのような操作であり、どのような資質を要請するかということは、なぜか僕たちの社会ではほとんど語られることがない。

    リスクヘッジは個人だけではできない。AかBかの二者択一で揺れている人に、両方とも選べとは言えない。そのため、「リスク社会をどう生きるか?」という問いは、「決定の成否にかかわらず、結果への責任をシェアできる相互扶助的集団をどのように構築することができるか?」という問いに書き換えられねばならない。

    社会的弱者とは端的に言えば、「相互扶助組織に属することができない人間」のこと。獲得した利益をシェアする仲間が無く、困窮した時に支援してくれる人間がいない人間のことである。
    現代日本人は「迷惑をかけられる」ことを恐怖する点において、少し異常なぐらい敏感だ。「迷惑をかけ、かけられる」ような双務的な関係でなければ、相互支援・相互扶助のネットワークとしては機能しないにもかかわらずである。

    社会的弱者とは、「自立した人間」ではなく「孤立した人間」だ。

    「日本の比較的低い階層出身の生徒たちは、学校での成功を否定し、将来よりも現在に向かうことで、自己の有能感を高め、自己を肯定する術を身に着けている。低い階層の生徒たちは、学校の業績主義的な価値から離脱することで、『自分自身にいい感じをもつ』ようになっている」


    3 労働からの闘争
    ヨーロッパのニートは階層化の一つの症状である。本人に社会的上昇の意思があっても機会が与えられないからだ。しかし、日本のニート問題はヨーロッパとは違い、社会的上昇の機会が提供されているにもかかわらず、子どもたちが自主的にその機会を放棄している。

    本来、「侵すことのできない権利」として要求すべき「学ぶこと」が、どうして「苦役」とみなされるようになったのか。それは、経済合理性の原則が社会のすみずみに入り込んだせいである。
    労働から逃走する若者たちの基本にあるのは、消費主体としてのアイデンティティの揺るぎなさである。彼らは消費行動の原理を労働に当てはめて、自分の労働に対して、賃金が少ない、十分な社会的威信が得られないことに「これはおかしいだろう」と言っているのだ。

    学びからの逃走、労働からの逃走とは、おのれの無知に固着する欲望である。

  • 第一章「学びからの逃走」で著者は、今の子供達は、生まれてはじめての社会体験が(家事のお手伝いなどの労働ではなく)買い物であり、「まず消費主体としての人生をスタート」させるのだという。これによって、等価交換が適正に行われること、すなわち経済合理性を追求する性癖が染みついてしまうから、学校の授業についても、「先生、これは何の役に立つんですか?」等という問いを発し(役に立つかどうか判断できない)勉強を嫌悪してしまうのだ、と説いているが…。

    これはさすがに穿ち過ぎなのでは。思うに飽食の時代、恵まれ過ぎていて生活のために働かざるをえないということがめっきり少なくなってきた。汗水垂らして働く機会が少ないから、働くことの喜びや充実感を感じられなくなっている。そうすると勉強する目的も見失い、刹那主義的になってしまう、と言う単純なことなんじゃないかな。

    また、著者は「消費行動は本質的に無時間的な行為」だとも言っている。学びというのは時間的なプロセス。等価交換原則で生きる人間には時間を勘案することができないから、「学び」のように瞬時に明確な評価が下せないようなものは無価値なものとして排除してしまうのだという。即物的、拝金主義的な傾向が強まっているってことだろうか。この点については頷けるところもある。世の中、寛容さが失われてギスギスしてきている。成果主義、管理の厳格化、厳罰主義、モンスターペアレント、クレーマー。これら全て、等価交換原則で説明できるってことかな。

    全編読んでみて、第一章を含め著者の言わんとすることが何となく分かってきた。ニート問題を掘り下げていくと、所得の少ない家庭にニートが多かったりと物事はかなり複雑。結局、事象を読み解いていくと、幼児の頃に染み付いた消費者マインドによる等価交換原則に行き着く、ということなのかも。でもかなり消化不良。

    なるほどと思ったのは、「リスク社会とは、そこがリスク社会であると認める人々だけがリスクを引き受け、あたかもそれがリスク社会ではないかのようにふるまう人々は巧みにリスクをヘッジすることができる社会」という部分。要するに、どんな社会でも努力を惜しまない人が勝ち組になる、ということなんだけど、社会階層によってリスクの感じ方が違う(成功している階層ではリスクをあまり強く感じない)から、階層化が一層進んでしまうらしい。これは一理あるな。

  • 面白かった。
    本人も書いておられるように「ずいぶん力んで書いている」力作であります。
    消費者として全てを同時性の中で生き、世の中を等価交換で見る体質。
    こういったことが学びを馬鹿にし、労働を無意味なものと見る価値観に結びつくと見る。
    解明していく際の気押される程の勢いある文章に引き込まれて行く。

    学校内の状況は改善はされてきているのだろうか。
    ニートの数は減少しているのだろうか。
    外からは見えない隠れた部分。実態を知る術が無いが、良くなってきていることを望む。

    対談部分は文庫化に際して削っても良かった気がする。何か著者にもしがらみがあるのかも知れないが…

  • 封建制を否定し、地縁共同体を霧散させた近代日本の歪みを解決してくれるのは封建的要素かもしれないのかと考える。それはまた封建制の問題を浮かび上がらせるだけなのだけれど、良い中間は多分ない。
    そういえば、外山滋比古といい内田樹といい、自分の子供時代の教えは良かったとよく言う。人の話は丸呑みせずに考えることも必要だけど、訳もわからず受け取って、後でこういうことだったのか。と気が付くには、現代の生き方は早すぎるかもしれない。

  • 2014.10.20 ~P.59

    学校教育が何の役に立つか。この難問に対して己の回答を見つける過程の履歴こそが学歴の本質である。自分で勉学に対し前向きな目的根拠を持つ事。学びの中でしか人生は存在しない事が見えてくる筈だ。

    2015/06/27 読了

    現在、教育や労働から逃走中である社会的に弱者とみなされた集団に私自身も属している事もあって、本書に書かれた内容に予想外だが啓発された部分はかなり大きい。今やっている事に何の意味があるかと自問を繰り返し、やってる事に対する報酬が割に合わないとか、誰も俺を理解してくれようとしないと不満を募らせたり、結局、自分はユートピア主義だっただけなんだと見透かされているようで、天地が開闢するような視点の逆転を体験した。人との関わりは確かに煩わしいし、自分のやりたい事の障害にしか思われない部分もあるけれど、人と関わることで生き死にに関わる危険リスクをヘッジ(回避)できたり、思わぬ励ましやヘルプを差し出して貰える事も、大いにあるのではないか。助け助けられる相互扶助的な関係を作れるのは生活個人ではなく社会集団においてでしかない。

    尊敬できる人間を身近に持つ必要性と重なってくるが、等価交換を人間関係に適用したりすると全ての関係は破綻するし、何故に尊敬するかと云う基準さえ本当は必要ではなく、これまでの人間が歩んだ歴史に対して頭を下げるのであっても良い訳だ。自分の殻に閉じこもる事のリスクは、人から伝えられるものの素晴らしさを味わえない事が一番大きいのではないだろうか。どんなに引き籠もりをしようとしても、誰かが用意してくれた揺り籠の中でジッとしてる以外に居場所はなく、誰かに迷惑を掛けている自分を何処かで必ず認めなくてはならなくなる。勿論、人と関わることで嫌な経験を堪え忍ばねばならぬ時もあるだろうし、対外的な危険度はそれなりに高まる事はやむを得ない。それでも、人との中でしか、何かを作り上げたり、育てていく事ができないとすれば、自分自身を行動する主体として、世の中に対して立ち上げる意義は大きいのだと思われる。

    たった短い期間であれ社会の中で働ければ、働く者としての悩みや苦労も味わえるだろうし、そこで自分の声を上げる機会だって巡ってくるに違いない。ネットに文章をアップする事は誰にも阻害されない点でコミュニケーションとは呼べないのではないか。社会の只中に身を置いて、行動しながら発言していく事にこそ本物のコミュニケーションがある。勿論、組織の中に停滞する硬直した習慣の押し付けや有無を云わさぬ不条理な業務命令も横行しているし、現場の地獄を嫌ほど味わう事になるかもしれない。しかし、自分の真の声を、巡り巡ってきた何処かのチャンスで発信し、社会にまかり通っているおかしい何かを改善させる事に繋がれば、立派な社会行動だと認められるだろう。その意味でも、私も何らかの形で社会復帰して、様々に被ってきた恩を少しずつ返したいと思っている。

    決して、働いたり学んだりする事から自分を完全に切り離してしまってはならない。本書からは、そのような強いメッセージを受け取った。まだ、人生はこれから。希望や勇気を沢山この本から頂いた。だから、自分が弱っていると思っている方々には本書を紐解いてみて欲しい。そして、再び停滞した孤立状態から一歩でも歩み出せる事を期待している。弱い者同士は連携し合わねばならない。社会に立ち向かっていく為の基礎を共に築かなければならない、そのように私自身は考える。自分の殻に閉じこもるのは、本当に危険なのです。行動しながら幾らでも自分のことは考えられるし、次の一手を打たねばリスクは再び我らを襲うでしょう。連帯こそが社会の中で一番の武器になります。まずは、自分に出来る事で誰かを救ってあげましょう。その為には、日頃から必死に社会と自分自身の現状や問題点を考え続けなければなりません。冷静になって思考を重ねられる安全な環境をいち早く構築しましょう。まだ言い残している事は沢山あるだろうけれど、いま述べられる私の考えは、以上になります。

  • 自分の『無知』に頭の真がしびれるような感覚。頭のイイ人に合った時の衝撃と同じものを、この本から受けました。

    内田さんのツイートや、ブログは時々拝見してましたが著書を読んだ事が無く、たまたま平積だった本書を手に取りました。

    今の子供たち。学級崩壊やニートも問題について、内田さんなりの仮説を説いています。
    仮説ではありますが、裏付けられたデータがある。恥ずかしながら、驚くことが多かった。

    私達世代の常識としては、日本の子供は学力が高く先進国の中でも上位1~2位に位置と言う事。それが今では・・・
    数年前、GNPが中国に抜かれたと言うニュースを聞いて驚きましたが、そんなレベルの話じゃない。
     しかもそれが問題視されていない・・・知らないと言うのは怖い事です。

  • 学ぶことができるという環境を放棄している日本の子どもたち。納得のいく内容でした。
    生産と消費がかけ離れ、生産することへの尊敬と感謝が失われている日本社会。たくさん消費することが良いライフスタイルであることのように報じられるメディア。日本はどうなっていくのでしょう。

  • やや断定的な主張が目立つものの,初めて触れた考え方に「なるほど」と思ったところも多々あった。

    中でも,学びからの逃走・労働からの逃走が「等価交換」の意識からくるものだという主張は自分にとって新鮮だった。

    勉強をさせられる「苦役」を代価としてその教育サービスから得られるもの問う。
    「それは何の役に立つんですか?」

    仕事で得られる給料が自分の払った時間・作業量に見合わない,または,仕事内容が自分の持つ能力に見合っていないという文句。
    「給料が安いからここでは働きたくない」
    「よりクリエイティヴで,やりがいのある仕事をしたい」


    「学びというのは,(略)学び終えた時点ではじめて自分が何を学んだのかを理解するレベルに達する」

    何かを学んで,それが何の役に立つのかは実際に学んでみないと分からない。勉強の「苦役」に対して対価が支払われるのにはタイムラグが生じる。仕事にしても,実力が評価されて給料アップに繋がるまでには時間を有する。我々は消費主義における”無時間的な等価交換”に親しみすぎたのかもしれない。


    本書のもとになった講演がもう10年以上前だというにもかかわらず,
    今でも著者の主張に唸らされるのはどういうことだろうか。
    学び・労働という問題にタイムリーに直面している今の時期だからこそ,
    よく考えていきたいテーマである。

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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