世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか (講談社文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (338ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062767132

作品紹介・あらすじ

酒田、雄大な庄内平野の最上川河口に位置する街には、世界に誇れるものがあった。淀川長治や荻昌弘が羨んだという映画館。そして開高健や丸谷才一、土門拳が愛したという料理店。なんとそれらは一人の男-佐藤久一がつくったものだった。酒田大火の火元となった映画館が彼の波乱に富んだ人生を象徴する。

感想・レビュー・書評

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  • この1冊との出会いは、わたしにとっておとんを知る、おとんを知ることで自分を知ることとなりました。

    うちの両親、実はどちらもルーツは山形県です。
    おかんの母、いわゆるおばばは鶴岡の出身だったようだが、おとんはこの本に出てくる「佐藤久一」と同じ酒田の出身。もっと言うと、おとんはもうすこし田舎の出身ですが。
    いずれにしても酒田の人、しかも同年代。しいて違いを言えば、佐藤久一はいいとこ出身のお金持ち。しかしながら30くらいで北海道へ出てくるまでは、おとんも酒田で生活していたわけで、ちょうど佐藤久一がつくりあげた「世界一の映画館」と称された「グリーンハウス」をリアルタイムで知っているばかりか、そこへ通っていたという。そんな時代があったなんて。それだけでテンションあがったことは言うまでもなく。

    この本を読んで、実は聴いたことがない、おとんの若かりし頃を少しばかり垣間見たような、そんでこれがいちばん発見だったのだが、憶測だがなんでおとんは北に向かって来たのかということも。

    うちのおとんもおかんも、いいお年の割にはとても洋画好きです。
    こうなると、おかんの洋画好きはさておき、おとんの洋画好きも納得。
    当時、山形には5館ほど映画館があって、そのうち「グリーンハウス」は洋画専門で、とにかく当時の映画館としては、それが山形という地方にあるのが信じられないくらいすごい映画館だったらしく、今のシネコンなんかめじゃないくらい先駆けだったようです。あの、淀川長治が絶賛したくらいだから、相当でしょう。

    そんなグリーンハウスも、これもまた運命というか、何かの「縁」なのか、
    わたしが生まれた1年後、1976年の「酒田大火」で焼失し、その後閉館しているとのとこ。しかもこの著書によると、その火元が「グリーンハウス」の漏電によるものとのこと。この時点で佐藤久一は「グリーンハウス」のオーナーではなかったものの、こんな運命のいたずらって。
    既に父はこのとき稚内で、そのことをリアルに体験はしていないだろうけど、酒田大火のことはよく知っていました。
    そんな火事があったこともさることながら、自分も稚内中央商店街が1夜かけて焼失した「大火」をリアルタイムに知っているだけに、これまた深い「縁」を感じつつ。(街が燃えるって、どんな感じか、これってきっと、経験した人にしかわからないような気がする。)

    前後して、佐藤久一という人は、いろいろあってフランス料理を確立していくのですが、このフランス料理に関するくだりを読んでいて、はっとされさられるわけです。

    わたしは今まで、父の実家が米農家だということもあって、そこに結びつくことがなかったのですが、酒田はどうやらおいしいお魚にも恵まれるらしく、それを知って「はっ」としました。
    おかん曰く「なぜ北海道に渡ってきたか」との問いに「乗る汽車を間違えた」とよく言っていたそうですが、そうじゃないって。
    最も、おとんの実姉が先だって稚内へ嫁いでいたという事実も大きいだろうけど、北海道の、しかも当時漁業が全盛期だった稚内へ結果的にたどり着いたのは、きっとそんな背景があったからなのでは、と思うんです。

    おとんは佐藤久一がつくったフランス料理店「ル・ポットフー」には、おそらく来店したことはないだろうし、実際佐藤久一も既にこの世を去っており、当時の料理を本人自ら作ったものを食べることは叶わないけど、幸いまだお店はあるらしく、小学校6年生のとき、1度だけおとんと二人だけで酒田を訪れた時以来、私自身も酒田へ久しく足を運んでおらず、もし近いうちにできるなら、酒田を訪れ「ル・ポットフー」で料理を食べるのが、できれば父も、せっかくだから母も一緒に、しゃーないからだんなもついでに(苦笑)、ちょっとした夢になりつつあります。

    余談だが、佐藤久一という人の人生だけで言うと、晩年はどういう思いでいたんだろう、女のわたしから見たら、なんとも寂しい人生の幕引きを感じないわけでもなく、心中複雑でしたが、いずれにしても彼の功績はたしかに大きく、父が酒田というきっかけで手にした本でしたが、こんな人いたんだ、と知れてよかった。

    そんな父と母の子であるわたしも、やっぱり映画好きで(苦笑)
    DNAって、間違いない感じ(笑)
    ああ「グリーンハウス」で観てみたかったなあ。

  • 映画
    地方

  • 2008年に講談社から出版され、2010年に文庫化されました。というのは後から知ったことで、ネットでたまたま見つけ、ものすごく興味を惹かれて入手。著者は岡田芳郎さんという方で、電通を定年退職後、エッセイストに。

    1949(昭和24)年、山形県酒田市に開業した映画館“グリーン・ハウス”は、あの淀川長治氏が「世界一の映画館」と絶賛したという伝説の映画館。同じく酒田市にあったフランス料理店“ル・ポットフー”は、開高健、丸谷才一、山口瞳など、食通の作家や著名人が通いつめた店でした。映画館とフランス料理店、双方の支配人を務めたのが佐藤久一なる男。

    佐藤久一は酒田の造り酒屋、金久酒造の息子。父親は地元の名士として知られ、久一は筋金入りのボンボン。醸造の仕事に関わる気はまるでない久一は日大芸術学部へ進学。ところが、そんな久一を父親は酒田へ呼び戻し、映画館をやってみないかと言います。

    20歳にして映画館の支配人となった久一。観客が快適に過ごせる映画館を第一に考え、清潔感を重視。女性客がなかなか寄りつかないのは、トイレのせいにちがいないと、まだトイレが汲み取り式だった時代、清掃を徹底して悪臭を根絶。映画を観ずにトイレに立ち寄る客まで出たそうな。座席数を減らしてゆったり座れるようにすると、VIPルームも設置。少人数のグループや家族連れがほかの客に気兼ねなく映画鑑賞できます。ロビーには喫茶店を併設して、淹れたてのコーヒーも評判に。

    また、ただならぬ本数の映画を観ていた久一は、お薦め映画について自ら執筆、無料の冊子を配布しました。前売り券の販売や割引制度などのアイデアも久一から生まれたもの。東京の有名映画館と同じ映画を同時期に呼ぶ手配に成功します。しかし、女がらみでグリーン・ハウスに居づらくなり、あっさりグリーン・ハウスを人に任せて出て行くと、次の興味はレストラン経営。実のところ、映画館の話よりもフランス料理店の話のほうがおもしろく、書き並べられた数々の料理も食べてみたいと思わせるものばかりです。

    客に最高のもてなしを。これしか頭にない久一は、原価率70%(一般的には30%)の料理を提供し、みるみる赤字が膨らんでゆきます。そんなときに起きた1976(昭和51)年の酒田大火。この火事の火元がグリーン・ハウスであったことから、人びとの口に久一の名前がのぼることはなくなってしまいました。

    67歳で食道癌で亡くなった久一。映画とフランス料理、華やかな世界で客を楽しませながら、自身がくつろぐことは知らなかったようで、晩年の記述には胸が痛みます。

    正直言って、読んでいるときは著者がお年を召しているせいなのか、文体がいささか古めかしく、おもしろみには欠けるなぁと思っていました。読み終わってしばらくすると、あの淡々とした雰囲気こそが偽りないノンフィクションだと思えて、ちょっと印象深い1冊です。

    映画『世界一と言われた映画館』の感想はこちら→https://blog.goo.ne.jp/minoes3128/e/b41e95722f5d35d374c2d25377192ec6

  • 酒田は「山形の中でまあまあでっかいけど、たぶん普通の地方都市」くらいの認識しかなかったけれど、そのイメージが少し変わった。久一がグリーン・ハウスやル・ポットフーをプロデュースする場面は痛快で面白い。アイデアマンとして久一を尊敬する。才能があっても、最後はやっぱりお金なんやな、と最後は少し寂しかった。

  • [ 内容 ]
    酒田、雄大な庄内平野の最上川河口に位置する街には、世界に誇れるものがあった。
    淀川長治や荻昌弘が羨んだという映画館。
    そして開高健や丸谷才一、土門拳が愛したという料理店。
    なんとそれらは一人の男―佐藤久一がつくったものだった。
    酒田大火の火元となった映画館が彼の波乱に富んだ人生を象徴する。

    [ 目次 ]
    プロローグ 酒田大火
    第1章 グリーンハウスその1 1950~55年
    第2章 グリーンハウスその2 1955~64年
    第3章 東京・日生劇場 1964~67年
    第4章 レストラン欅 1967~73年
    第5章 ル・ポットフー(清水屋) 1973~75年
    第6章 ル・ポットフー(東急イン)その1 1975~83年
    第7章 ル・ポットフー(東急イン)その2 1984~93年
    第8章 ふたたび、レストラン欅 1993~97年
    エピローグ 見果てぬ夢

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 極端にいえば、酒田に居たとあるボンボンの話。もう少し踏み込んで言えば、「地方文化を維持し育むための手法(昭和版)」。

    突き詰めれば「湯水のごとく金を使えば、地方であってもナンバーワンを取れる」という話。映画の話でも、料理の話でも、ましてや経済・経営の話でもない。正直、こんな人が親類にいたら心が安まらない。

    ただ…こういうボンボン的な立場の人が、軽薄な夢と希望を語り行動しなければ地方には文化は残らないのも事実で。田舎の現状を見ていると、「ボンボンが夢を見られた昭和時代は、まだまだ幸せな時代だったのかな?」と思うところがある。

    地方のボンボンが夢を見ず、夢と引き替えに立てたテナントビルに入った全国ブランドチェーンはそこそこのところで撤退する。残るのは絶望だけで、だからこそ気持ちよく人は立ち去れる。それが今の現実なのかな?と。

    いや…いまでも田舎で夢を見てる人はいるんだろうけど…それを発掘し現金化するのは、炭鉱を掘り当てるより難しいんだろうな、とそんなことを思ったりしてました。

    「寂れる地方都市」の現状を、ノスタルジー込みで客観的に見たい、と思う人にはなかなか面白い一冊。

  • 淀川長治が世界一だと羨んだ映画館「グリーンハウス」と、開高健がその味を絶賛したフレンチレストラン「レストラン欅」「ル・ポットフー」を山形の酒田市に作った男がいた。佐藤久一がその男。その佐藤久一の人生に足を止めたのが、著者の岡田芳郎。岡田氏は、電通時代、大阪万博でパビリオンの企画をやった広告マンで、電通を退社した後にライフワークとしてこの本の取材に取り掛かる。岡田氏は、「無理難題プロデュースします」(早瀬圭一著/岩波書店)で伝説の人物と紹介されている小谷正一の直系の広告マン。佐藤は、1997年1月に亡くなった。グリーンハウスは火災で焼失したが、レストランは2店現在も営業している。佐藤久一のダイナミックな人生に憧れ、とにかく山形に行って、今もあるフレンチレストラン「楓」「ルポットフー」に行って食事をしたくなった。本を読んだ後に、すぐに山形行きの高速バスを予約した。そして、酒田市のル・ポットフーでランチを食べた。ランチを堪能した後は、佐藤久一が眠っている墓参りに行ったが大雪で、墓石が半分ほど隠れてしまっていて見つけることはできなかった。2014年、2月7日。帰りの高速バスは大雪のため運休になり、新潟経由で東京まで新幹線で乗り継いで帰った。この日、東京は、歴史に残る大雪だった。
    (日本ブックツーリズム協会 テリー植田)

  • 山形県酒田市に世界一と呼ばれた映画館『グリーン・ハウス』と日本一と呼ばれたフランス料理店『ル・ポットフー』を創り上げた佐藤久一の人生と言う名の物語がここに開幕。

  • フランス料理にかけた男の一生。

  • この恐ろしく長いタイトルの本を書店で見かけたとき、身体中に電流が走るのを感じました。

  • 図書館の単行本で読んだのが今年の春。
    庄内への旅の直後、夢中になって読んだ。
    最近、文庫化されたので、ぜひ手元に置きたくて購入。
    いつか、きっと、また読みたくなるはず。

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著者プロフィール

早稲田大学政経学部卒業後、1956年に電通入社。62年小谷正一のつくったプランニングセンター創設メンバーのひとりとして参加。その後、小谷が電通を離れても一生付き合いを続けた。営業企画局次長、コーポレートアイデンティティ室長などを経て電通総研常任監査役を務め98年に退職。大阪万博「笑いのパビリオン」企画、「ゼロックス・ナレッジイン」はじめ数々の都市イベントをプロデュース。電通のCIビジネスへの取り組みにリーダーとして、アサヒビール、NTT、JR、東京電力はじめ数多くのプロジェクトを推進した。

「2015年 『メディアの河を渡るあなたへ 』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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