埴谷雄高――夢みるカント (再発見 日本の哲学)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (308ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062787635

作品紹介・あらすじ

『死霊』の作者の思考を、この国の近代が生んだ、ある特異なかたちでの哲学的思考のひとつとして問題としてゆくこころみ。埴谷雄高の思考、わけても『死霊』のそれを、カントの思考とのかかわりをときに意識しながら読みといてゆく。

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  • わが国の戦後文学最大の哲学小説とされる『死霊』を中心とする埴谷雄高の思考を、カント哲学との関わりに目配りしながら読み解く試み。

    生まれたばかりの乳児が深い闇の中で泣き出したが、母親は深く眠り込んでいるかその場にいないとする。そのとき乳児が直面するのが、「〈泣いてもついに揺り動かされることのない〉冷酷で、確固とした、厳然たる存在の薄気味悪いかたち」である。これは埴谷が「自然と存在」という小論で展開した議論だが、彼は同じ内容の議論を『死霊』の三輪与志に語らせている。この乳児が直面しているのは、世界の存在とぴったり重なり合った私が、世界から逸脱し始めるという事態である。

    『死霊』の中で「存在の薄気味悪いかたち」を体現するのが、与志の父親の三輪広志だ。彼は、同じ空間を二物が同時に占めることができない存在の世界を生き抜くために、存在の悪を自覚的に追及する悪徳政治家となった。彼の生き方は、現に私がこうして存在することは、他の無数のありえたかもしれない可能性を抹消することで成り立っているということを示している。

    自同律「A=A」は「私=私」という自己同一的な意識の構造に支えられていると、埴谷は考えた。だが、「私は」という主辞と「私である」という賓辞との間は、宇宙の全存在によって隔てられている。彼はこれを「自同律の不快」と呼ぶ。このような「私」の間の「ずれ」を生み出す形而上学を語るのが、黒川建吉だ。彼は、宇宙はたえず自分自身から「逸脱」してゆくという奇妙な想念を抱いていた。

    政治は、こうした「ずれ」を抹消することで成立している。政治は、不断に関わってゆく現在においてみずからを正当化する営みにほかならない。現在における正当性を主張することで、政治は過去の死者たちを抹消している。現に存在する体制を支えているのは「一=一のゆるぎない思考」なのだ。

    死者たちの語るありえたかもしれない可能性に耳を傾けることで、政治の成立している「存在」の次元に亀裂をもたらし、「倫理」の次元を呼び入れようとしたのが、埴谷の『死霊』なのではないか。そうした次元が「存在」すると語ることは、カントのいう誤謬推理にほかならない。だが埴谷は、現在の背後にある根源的存在を「無出現の思索者」と呼び、それが「無」であることを承認しつつも、それを求めることで「政治を超える」ことが、根源的な倫理の「課題」だと考えていた。そこに著者は、この課題を「課題」とすることそれ自体が希望を語ることだという、倫理的な着想を見ようとしている。

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著者プロフィール

東北大学助教授

「1997年 『カント哲学のコンテクスト』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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