東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

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著者 : 羽田正
  • 講談社 (2007年12月18日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (406ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062807159

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)の感想・レビュー・書評

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  • 東インド会社隆盛前のイスラム世界がもう少し詳細にわかればよかったのだけれど・・・

  • 竜頭蛇尾??
    と言っちゃ悪いかな?
    前書きが長くて、とっても期待させるって却ってマイナスかも。
    いや、内容が悪かったというわけじゃ絶対にないんですよ。
    普段は見逃されている観点から歴史を見るという試みには大いに共感を持ちます。
    その観点とは、東インド会社を中心として、アジアの海の帝国を語ること。

    勿論、アジアの海には日本の長崎・平戸を介した貿易が含まれます。

    歴史というものは陸上を念頭において語られますが、海から見るというのはとてもチャレンジングな試みです。

    とても興味深く読めましたが、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰経由でアジアに至る海路を発見したときから、16世紀から18世紀までの200年間に絞って語られ、残念ながら植民地支配には踏み込みません。
    何故なら東インド会社はそれ以前に終わってしまうからです。
    もちろん東インド会社は植民地支配の先導役を果たします。
    しかしながら、海からの観点からは植民地支配は描けません。
    そこで終わるのは仕方ないことで、著者に対して竜頭蛇尾だと批判するのは的外れなことは分かっています。

    さらに著者に気の毒なのは、主役たちがろくでもない連中ばかりで品格に欠けることです。
    一攫千金を目論んで、命がけで海に乗り出す連中です。
    金儲けが総ての連中に、品格のある歴史が作れるはずがありません。

    でも、品格があろうがなかろうか、それは紛れもない歴史であり、彼らの活動によって歴史の大きな流れが確実に影響されたのは間違いのない事実です。

    人類の進歩というものは、実に多くの紆余曲折があったんだなぁと改めて思わされます。

  • 羽田正『東インド会社とアジアの海』講談社、2007年:イエズス会士のことを調べているが、カトリック系の本はどうも抹香臭くていかんと思い、ビジネス面も勉強してみることにして手に取った。最初はポルトガル人の活躍である。ヴァスコ・ダ・ガマは「キリスト教徒と香辛料」をもとめて、インドへ航海した。当時のポルトガルはレコンキスタの後で、イスラム教徒に被害妄想をもち、キリスト教徒だと知られたら殺されるんじゃないかと怯えていた。アフリカのモザンビークに寄ったとき、アラビア語を話す人たちがいると知ると、いきなり砲撃して水を奪い、案内人を連れだし、モンスーンをつかまえ、1498年5月20日にインドのカリカットに到着する。ガマは王に謁見し、ポルトガルの豊かさを力説したが、贈り物が貧相で王の側近らに失笑された。大航海時代、インドの綿織物・東南アジアの香辛料・中国の茶などヨーロッパ人が欲しがる品は多いが、ほかの地域が欲しがる産物がなかったのはヨーロッパだけである。ガマは香辛料を手に入れ、陰謀がめぐらされていると勘違いし、港の税を踏み倒して出航した。帰路、壊血病が発生し、船を一隻失いながらたどり着く。帰国後は大騒ぎ、東方貿易を握っていたヴェネチア人は「漁師をやらねばならない」と言われたが、そんなことにはならなかった。1500年にはカブラルが出発、途中ブラジルを発見するというめちゃくちゃな迷いかたをし、なんとかカリカットに到着したが、現地で紛争を起こし、帰国時には物産が足りず赤字がでて、航海は失敗といわれた。ガマは1502年に二度目の航海をする。はじめて立ち寄ったキルワの沖合で大砲を発砲、王をよびつけ「和平」を結ばせた。途中、船を略奪しながら航海をつづけ、カリカットでは前回バカにされたのが頭にきたのか、ムスリムの追放を主張、ムスリムを34人処刑しマストに吊るし、カブラルがうけた被害を賠償せよと、沖合から発砲、2日で400発も砲弾を撃ち込み、カリカットを破壊した。自らの武力が有効だと知ったポルトガル人は、1515年までに各地を攻略、「ポルトガルの鎖」をつくり、航路封鎖で香辛料の独占をねらった。アルプケルケによるインド・ゴアの征服(1510年)もこのころで、1515年以後はゴアに「副王」が駐在した。しかし、航路封鎖を破る方法がいろいろ案出され、結局、ヴェネチアに香辛料が流れ、独占はならなかった。ポルトガルはあちこちに築いた砦を維持するために移民をおこない。派遣された男が現地の女性と結婚し、ここに「ユーラシアン」が生まれる。彼らはアジアの海で勝手に交易を始め、私的なポルトガル人になっていく。要するに海賊兼商人である。1511年、アルブケルケがマラッカを陥れ、21年、インド洋と同じく広州で武力による貿易を試みたが、明はそんなに弱体ではなく失敗。42年、種子島漂着、50年、平戸到着、53年、マカオで濡れた荷物を乾かすため上陸し、そのまま居すわった。57年、明が居住を暫定的に認めた。地租は500両であった。イギリスではロンドンの商人たちが出資し、1601年「イギリス東インド会社」が成立した。ロンドンに本社があり、王に頼んで独占の特許をえた。ペルシャのホルムズや東インドのベンガル(マドラス)などに商館をおいた。オランダはイギリスより早く1590年あたりから東インドに進出、1591〜1602年まで46隻が出航している。アムステルダム・デルフトなど各都市の商人が船団を用意した。1602年、共和国が間に入り、各地の会社を合同して「オランダ東インド会社」が成立する。17人委員会による運営であった。資本の規模はイギリスの12倍、会社の消滅までアジアで最強の商社であった。オランダが拠点をおいたのはバタヴィア(ジャワ島)だが、オランダも東南アジアで蛮行をしている。1620年バンダ島で1500人の島民を殺害、23年にはアンボイナ島で虐殺、香辛料クロウヴを独占するため、ほかの島の木を切り倒したりしている。フランスは1664年、コルベールの肝いりで国策会社として「フランス東インド会社」を設立した。一時はイギリス東インド会社にせまったが、政府の肝いりだけに財政危機をまともにかぶり、7年戦争(1756〜)の敗北や銀行の未発達もあり、1769年に活動停止する。イギリス東インド会社はインドの情勢悪化にともない商館防衛の兵士を増強していたが、会社がインドの現地勢力に荷担し、軍事行動を起こし、1757年「プラッシーの戦い」で勝利を収める。この結果、会社は徴税権をもつインド領主となった。これは当時歓迎されたが、結局、会社の能力を超えており、行政コストがかさみ、1770年のベンガル大飢饉、ボストン茶会事件(1773年)による英国茶のボイコットがあいまって、赤字に転落、1784年の「インド法」により政府管理となる。1813年インドとの独占貿易を終え、33年中国との独占貿易を終了した。以後、植民地統治機構として残ったが、1858年の解散にいたる。オランダ東インド会社は、第四次英蘭戦争(1780)の敗北、社員の汚職、会計制度の欠陥、17人委員会とバタヴィア評議会の不和などがあいまって、1799年解散である。胡椒・香辛料・インド綿・生糸・茶・陶磁器・銀など、東インド会社が扱った物産は欧州やアジアで人々の生活や土地利用をかえた。ヨーロッパは1670年までは日本銀をつかい、それ以後は南北アメリカの銀をつかい、物産を交易して利益をあげた。この意味で近代ヨーロッパは内在的に発展したものではなく、グローバル経済の落とし子なのである。インド洋は多民族の「交易の海」、東シナ海は朝貢システムによる「政治の海」で、「陸の王国」の態度がちがった。インドや東南アジアの王権は人を支配するが、土地を支配するという発想がなかった。人がいなければ土地は物産を生まないからだ。このような国家観があったから、役に立つ人間ならヨーロッパ人であっても恩恵をあたえた。ここに「国民」や「国籍」といった概念はなかった。しかし、中国や日本はちがった。とくに日本は鎖国政策、新居白石の「正徳新令」(1715)による対外貿易額の制限など、国の内外をわける発想があり、これはヨーロッパに成立した主権国家・国民国家と似ていた。また、江戸時代の日本は貿易に依存しない自給自足社会をつくっていた。東インド会社が衰退したのは国民に平等に権利を保障する「国民国家」の成立と関係がある。国民国家が未成熟な時期には、一部の会社による独占も大事業を興すという点でそれなりに意味があったが、国民国家では許されない。とくに台頭した資本家は自由貿易を求めた。原料が独占されると調達が高額になるからである。また、商社と統治者の立場は異なる。商社は自らの利益を追求すればよいが、統治者は安定を実現し「国民」を豊かにせねばならない。これが東インド会社が植民地経営に失敗した理由であった。紅茶文化はイギリスよりオランダで先に発展しており、香辛料は薬膳としての需要があったことなど、通説を批判しているところもあり、興味深い内容であった。イエール大学は、インドのマドラスで総督をしながら私的貿易で巨富をなしたエリフ・イエールの名からとっている。金にものをいわせ、追及を逃れ、晩年は本国で悠々自適、アメリカ植民地の大学に金をだしてやった。「ジャガタラ・お春」や、コルネリア・ファン・ネイエンローデという蘭日ハーフの女性の人生もくわしい。コルネリアは再婚相手が財産を乗っ取ろうとしたため、オランダ本国で訴訟を起こしてたたかった。「おてんば」は「手に負えない」という意味のオランダ語だそうだが、コルネリアにふさわしいとのこと。東インド会社は16世紀17世紀を通じて200万人の人間をアジアへ送ったが、ヨーロッパに帰ったのは1/3である。

  • 大好評、講談社の『興亡の世界史』シリーズの第15巻「東インド会社とアジアの海」です。著者は羽田正先生、近年では岩波新書『新しい世界史へ』の著者でもあり、東大出版界『海から見た歴史1 東アジア海域に漕ぎだす』の編者でもあります。そんな先生が、インド洋海域世界を中心として東アジアからヨーロッパまで(アメリカ大陸までというべきか)をまたにかけて活躍した史上初の株式会社「東インド会社」を書くのですから面白くなかろうはずがありません。案の定、読者はそのスケールとの大きさと内容の濃さに圧倒されます。
    インド洋海域から東シナ海海域にかけ、ヨーロッパが入ってくる16世紀以前、すでに巨大な交易圏が誕生していました。インド洋海域世界では、陸上の政治権力は害さえなければ(自分たちに利益をもたらすのならば)貿易は基本的に自由であり、どこから来た人間だろうがとくに干渉はせず、とくにインド洋西部のいわゆる「イスラームの海」アラビア海は「ムスリムが一体となってインド洋海域の貿易を自分たちのやり方で完全に支配していたかのように思わせるが、そのような実態はない。異なった宗教を信じる多様なエスニック集団が、共存して競争しながら貿易を行うのが、この海域の商業活動の特徴だった。」(38頁)という状況でした。
    そこに15世紀末ポルトガル船のヴァスコ・ダ・ガマ一行がこの世界に出現してから状況が変化してきます。ガマは海賊以上の掠奪と暴力でキルワやカリカットなどを屈服(これらの地域はヨーロッパよりはるかに豊かであったが、火器が劣っていた)させて以降
    、この地域は「ポルトガル海上帝国(エスタード・ダ・インディア)」となっていきます。1503~15までにモザンビーク、ホルムズ、ゴア、マラッカなど高校世界史でも登場する交易都市が次々とポルトガル支配下に入り、この「ポルトガルの鎖」内で交易をするのならば、必ずポルトガルの許可(通行証=カルタス)を受けなければなりませんでした。
    しかし次第にこれらの都市とポルトガル本国との関係が疎遠になってくるとそこにはエリザベス女王のもと力をつけてきたイギリス(イングランド)や、そして新興国オランダがやってきます。
    スペイン領オランダは、16世紀後半のオランダ独立戦争によりポルトガル(当時はスペイン王が統治)経由でのアジア物産が手に入らなくなると、1590年代自力でアジアの海からの商品を手に入れようとします。これを見たイギリスは1601年1月10日(当時のイギリスの暦では1600年12月31日)イギリス東インド会社(East India Company略してEIC)を設立します。また遅れて1602年連合オランダ東インド会社(verenigde Oostindische Compagnie略してVOC)」が設立されます。オランダは東南アジアでのヨーロッパ勢力を駆逐し、香辛料交易を独占することになります。また同時に西アジアから南亜アジアにかけてはモカ(アラビア半島)、バンダレ・アッバース(ホルムズ島対岸)、スーラト(ボンベイの北)に、また東アジアには平戸やゼーランディア(台湾)などにも商館をも受け、ポルトガルに替わりアジアの海を席巻します。またイギリスも現地の王権と協力をしながら、コロンマデル海岸の綿織物産地マドラスや、ホルムズ島対岸のバンダレ・アッバースに商館を設けます。
    こうした彼らが運んだ品物はまず香辛料が挙げられます。これについては興味深い一文があります。例えば新課程版の高校世界史B教科書:山川出版社『詳説世界史』の202頁注には「西ヨーロッパでは14世紀以来肉食が普及し、胡椒などの香辛料の需要が高まった・・・」と書いていますが、氏は「ポルトガル人のインド洋への進出の理由として真っ先にあげられるのが、胡椒や香辛料の獲得である。ヨーロッパの人々は、食肉の保存と保存の悪い食肉の味付けのために胡椒や香辛料を必要としていたというのである。しかし、最近翻訳の出た『食の歴史』の編者であるフランドラン氏は、この通説を「とうてい認められない」と切って捨てる。その理由として、第一に肉と魚の保存剤は塩、酢、植物油が基本だったことと、第二に肉は現在よりもずっと新鮮なうちに食べられていたこと、第三に保存肉、腐肉を食べるのは香辛料の消費者である貴族や金持ちではなく下層の人々だっただろうこと、そして第四に塩漬け肉は一般にマスタード味で食べられたことをあげている。・・・では、ポルトガル人をはじめ北西ヨーロッパの人々は、なぜ争って東方の香辛料を求めようとしたのだろう。フランドラン氏は、それは香辛料がなによりもまず医薬品と考えられていたからだという。・・・」(249~250頁)と述べています。
    次に茶が挙げられています。茶も当初は貴重な薬種として普及しだしたそうです。そして綿織物です。当時のヨーロッパ人が使用していた麻や毛、皮の織物に比べ加工のしやすさ、肌触り、軽さ、吸汗、洗濯のしやすさ、そして何より価格の安さで圧倒しました。これらはその機能からアメリカや西インドの奴隷たちにも着られました。西アフリカでは奴隷購入の対価としても使われています。
    しかしそんな東インド会社も徐々に変質してきます。主力商品の価値の低下、会社が植民地領主となったことによる業務の複雑化と費用の増加(統治者として治安を安定させ税を徴収しなければならない)。さらに、領主としては取引の自由を認めて貿易を活発化させ領民の増益を計らなければならない、しかし商人として自分たちがヨーロッパ製品を高く売り、インド商品を安く買うことをしなければならない、という矛盾した立場にいる(アダム=スミスの指摘)。そして産業革命により資本家たちが力を増し、自由貿易を求めたことです。経済的に逼迫した東インド会社は国の管理を受けることとなり、オランダ東インド会社は1799年に廃止され、イギリス東インド会社も1813年にはインドとの独占貿易が終了し中国との貿易だけの独占となり、さらに1833年にはその中国との独占貿易も廃止されます。そして単なるインド統治機関となり、結局インド大反乱後の1858年、イギリス東インド会社はその歴史に幕を閉じることとなったのです。
    しかし、東インド会社が世界史に与えた影響ははかりしれません。本書の帯に「史上初の株式会社からグローバル化は始まった」と書かれてありますが、世界史を概観してみるとその言葉が決して誇張ではないことが分かります。また本書では、高校では決して取り上げられない東インド会社社員の行動、その家族などなど、東インド会社に関するさまざまな興味深い内容が書かれてあります。この時代、この地域を取り扱うには英語だけでなくオランダ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、中国語、日本語、ペルシア語、アラビア語その他南アジア・東南アジアの現地語などさまざまな言語を駆使しなければならない、非常に困難な研究対象です。それをこれだけ視野を広く、多岐に、するどく、深く、要領よく、そして興味深く書き上げるのは相当な能力と時間と努力があってこそ成り立つものです。一人の歴史で飯を食べている人間として、最大限の敬意を払い氏の研究成果という恩恵を受けたいと思います。
    以下備忘録・興味深かった点
    ・ヴァスコ・ダ・ガマが会ったカリカット王国(昔何かの試験でヴァスコ・ダ・ガマがカリカットに到達し時、その都市を支配していた王国名を答えよといい、ヴィジャヤナガル王国を答えさせるという問題があったが、氏は「ヴァスコ・ダ・ガマの船隊が向かっていた当時の南インドにおいても、ヴィジャヤナガル王国という内陸部に拠点を置く強力な政治権力の力は、必ずしも海岸部にまで及んでいなかった。・・・マラバール海岸の港町は、いずれも独立、または半独立の小さな王国であり、町には海外貿易に携わる多種多様な商人が共存していた。胡椒や香辛料の集散地であるカリカットもそのような王国の一つであった。」(40頁)と述べています。)の王に贈ろうとした品物を見た現地の役人やイスラーム教徒の商人は「この町にやってくる一番みすぼらしい商人でももう少しましなものを用意している。」と言われ、ガマは「私は商人ではなく大使であり、これは私の贈り物だ。ポルトガル王が贈り物をすればもちろん比べものにならないくらい豪華になる。」と言い訳をした(43頁)
    ・カブラルの航海は、往路にブラジルを発見するという功績をあげ、1年4カ月という短期間でインド往復を成し遂げたものの、1501年の6月にポルトガルに帰り着いた際には、失敗と酷評された。インドに至るまでに船7隻を失い、帰途にも1隻を放棄したこと、持ち帰った商品の量が十分ではなく航海全体にかかった費用を回収できなかったこと、カリカットで武力紛争を起こし、54人ものポルトガル人を失ったこと、町を砲撃し現地に商館を置くことに失敗したことなどがその理由とされる。
    ・(オランダがバンテン王国と戦って奪い取ったジャワ島のジャカルタを拠点としバタヴィアと命名した理由)ローマ帝国時代に現在のオランダのあたりに住んでいたバタヴィー族に由来する。(91頁)
    ・1620年1月現在の(バタヴィア)の人口として、873名が記録されている。この中の71名は日本人である。(同上)
    ・(サファヴィー朝アッバース1世がポルトガルの支配するホルムズ島攻略にイギリス東インド会社の協力を求めた理由)木のほとんど生えないイラン高原に拠点を置くサファヴィー帝国では軍船が建造できないため、皇帝はペルシア本土からわずか8キロ沖合に浮かぶホルムズ島を攻略できずにいたのである。(97頁)
    ・(朱印船貿易について徳川政権は)日本に拠点を持つ人であれば、その人の「国籍」に関係なく朱印状が発布された。日本人の商人、大名、武士以外に、華人やヨーロッパ人の商人も朱印状を受け取っている。貿易を管理しながらも、商品の安定的な輸入を第一に考えた結果だろう。(134頁)
    ・(豊臣秀吉が宣教師追放令を出した直接の理由)イエズス会準管区長のガスパール・コエリョが博多滞在中の秀吉の前に、武装船の提督の姿で現れ圧力をかけようとしたことによる。(137頁)
    ・興味深いことに、キリスト教を禁止したのは日本の政権だけではない。事態のあらわれ方が細部で異なるにせよ、明を継いだ清帝国や朝鮮、さらにはベトナムもほぼ同様の政策をとった。キリスト教の禁止は、17~18世紀の東アジア海域周辺諸国に共通に見られる政策なのである。(137~138頁)
    ・1637年における(オランダ東インド)会社全体の利益総額のうちで、平戸商館での貿易による利益が占める割合は何と7割以上に達していた。これだけの利益が上がっている以上、オランダ人が少々の屈辱であればそれに耐えて貿易関係を維持しようとしたのは同然だろう。(141頁)
    ・(オランダ東インド会社の社員募集について)18世紀になると、会社は「すべての悪ガキ、破産者、落第生、倒産者、失敗者、あぶれ者、逃亡者、密告者、放蕩者たちの避難場所」と呼ばれるほど、どんな履歴の人物でも雇用せざるをえない状況となる。18世紀にはオランダの人口は100万人から150万人のあたりにとどまって増えず、人手が足りない上に、対外的な戦争が相次ぎ、軍隊が高い給与を提示して大量に若者を雇用したからである。・・・オランダ東インド会社は、オランダ共和国出身者だけを雇用したのではない。外国人の雇用率は常に高かった。17世紀半ば頃で、兵士の65%、船員の35%が外国出身だった。1770年になると、兵士の80%以上、船員の50%以上が外国出身だった。・・・会社の高級幹部の場合も事情はそれほど変わらない。(ケンペルやシーボルトなどがこれにあたる。)171~172頁
    ・ジャンクという言葉はもともと漢語ではない。中国の船がマレー語でジャンクと汎称され、それが中国やヨーロッパの人々に取り入れられ、中国では漢字で「戎克」をあてるようになった。(178頁)
    ・ 日本語の「おてんば」は、「手におえない」を意味するオランダ語ontembaarのなまったもの。
    ・(東インド会社の輸入品において香辛料の重要性が低下したことについて)胡椒の重量あたりの輸入価格はほとんど変動していない。つまり、香料以外のより高価な商品、具体的には茶、コーヒー、綿織物などが新たに大量に輸入されるようになったために輸入総額が増大し、価格の安定していた胡椒や香辛料の重要性が見かけ上は低下しているのである。(255頁)
    ・(日本茶について)イギリス東インド会社のジャン・シャルダン(彼自身はフランスのユグノー出身)は日本の茶が最高の品質であると語っており、また茶がヨーロッパに持ち帰られた一番古い記録は、オランダ東インド会社の船が平戸から持ち帰った1610年である。また、18世紀オランダの茶の飲み方は日本式を取り入れてズルズルと大きな音を立てていた。
    ・(国旗が意味するもの)国旗は、それを掲げる船が強力な火砲をもっていることと、万一その船が襲撃された場合には、同じ国旗を掲げた僚船が直ちに復讐にかけつけることを示していた。確かに、ヨーロッパ船以外のインド洋海域世界の船は、必ずしもどこかの国に属してはいなかった。この海域での「陸の帝国」の海上貿易と貿易商人に対する関心の薄さはすでに何度も指摘したとおりである。現地の商人が艤装した船は、国旗を掲げることはなかった。2種類の船の安全性を比較した際、貿易商人がヨーロッパ系の船に荷を託そうと考えたとしても不思議ではないだろう。(291~292頁)
    ・日本では一般に、プラッシーの戦いとは、イギリス東インド会社軍がフランスとベンガル太守の連合軍を破った結果、フランス勢力が駆逐され、インドにおけるイギリス支配が本格化するきっかけとなったと理解されている。しかし、この解釈は、後になって一連の出来事を見直してみたらそうとも言えるという程度のことでしかない。まず、ベンガル地方での前年以来の対立の基本構図は、イギリス対フランスではなく、イギリスあるいはヨーロッパ諸勢力対ナワーブ(太守)である。確かに、プラッシーにはフランス東インド会社からの援軍も加わっていたが、その数はわずか40人である。とても連合軍といえるだけの規模ではない。この戦いの4カ月前に、シャンデルナゴルのフランスの要塞は、フライブの率いるイギリス東インド会社軍と艦隊に攻撃され、簡単に降伏している。こちらは、1756年にヨーロッパで始まった七年戦争での本国同士の戦いに連動したクライブの行動だった。フランス東インド会社の後退とプラッシーの戦いは、結びつけて考えない方がよい。

  • オランダからインドへ、そしてマカオを超えて出島まで、やや物語的に過ぎるところもありますが、興亡の世界史シリーズでもっとも知的興奮を味わったのはこの本でした
    貿易を主軸に幅広いテーマにきっちり目を配られていて、是非とも読むべき一冊です

  • 世界史の視点で東インド会社を捉える意欲作。各国史に分かれず全体を眺めると、ここまでダイナミックな時代だったのか。技術はあるが商品競争力のないヨーロッパと、物量豊富なアジアとの交流、今の西洋文明の基礎をもたらした、など、目から鱗の連続。

  • 興亡の世界史シリーズは各国の歴史を「横断」して語ってくれるので面白い。今作はまさにそのパターン。ポルトガルから始まった欧州とアジアの貿易、そっから英仏蘭東インド会社の栄枯盛衰を描く。大変わかりやすい。
    しかし、バスコダガマの時代から西洋至上主義は存在してたんだなー。というか、西洋と非西洋の文化の違いが面白い。アジア~インド諸国の「非主権国家」っぷりというのは今後の世界の有様をみるうえでも大事なことなのではないだろうか。つまり、「西洋的な主権国家」という概念が行き詰まりをみせる昨今、それに代わる、というか、それよりもより有効な国家(?)の在り方が、そこにあるのではないか、など。ようは、今フツーに思ってるシステムがフツーじゃないって思うことって大事ですよね。という。

  • 世界史とってない私にも読める易しい本。大まかな流れが掴める。

    バスコダガマってやなやつだなー。歴史は勝者のものなんですね。

  • ●構成
    はじめに
    第一章 ポルトガルの「海の帝国」とアジアの海
    第二章 東インド会社の誕生
    第三章 東アジア海域の秩序と日本
    第四章 ダイナミックな移動の時代
    第五章 アジアの港町と商館
    第六章 多彩な人々の生き方
    第七章 東インド会社が運んだモノ
    第八章 東インド会社の変質
    第九章 東インド会社の終焉とアジアの海の変容
    おわりに
    --
     当初ヨーロッパにおいてのみ活動していた西洋人は、次第にその版図を広げ、また新たな産物を交易することで富を得るために、西インド諸島を皮切りに少しずつ活動範囲を広げていった。
     本書は、喜望峰を越えた東アフリカからペルシャ湾、インド海、東南アジアを経て極東の日本まで及ぶ広大な世界で活動した、オランダ・イギリス・フランス各国の東インド会社の誕生の背景から終焉までのおよそ2世紀にわたる、東アジアでの西洋と東洋の係わり合い――交易、政治、文化など様々な領域での接触――を概観する。各国それぞれの東インド会社だけを中心に、西洋から見た東アジアを捉えるだけでなく、もう一方の当事者である東アジア各国の視点から東インド会社や西洋世界についても詳述する。
     概観しているからといって広く浅く、薄まったような概説書ではない。関係する様々な先行研究を敷衍し、インド、東南アジア、日本などを「発見」した西洋人がどのようにこの世界で影響力を広げていったかを丹念に記している。ハードカバー390頁で文庫ほど気軽には買えないものの、東インド会社についての全体的な知識を得るためにはお勧めの一冊である。
    --
    【古本】

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東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)の作品紹介

喜望峰からバタヴィア、そして長崎にいたる海域を「商品」で結んだ東インド会社。ヨーロッパの商人とアジアの人々の接触と交流を軸に、海を舞台に展開した一七、一八世紀の世界と近代への胎動をダイナミックに描く異色作。

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