殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」 (講談社+α文庫)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062814393

感想・レビュー・書評

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  • どうも自分は加害者側にいたのかも知れないと感じました。
    「文庫本のあとがき」にもありましたが、殺された側でないモノたちの善意でしかないのでしょうが。
    この本を読むほとんどの人がそうかもしれませんが、少しでも阿修羅のごとく司法や矛盾と戦う被害者家族に一歩でも近づけると思います。
    しかし人って強いですね。その一方でズルい。そんなことを感じるところもありました。
    自分がどちら側に立つかわかりません。ただ傍観者なのかもしれません。でも知らないでいるよりは良いと考えます。そしていつどちら側に立つかもわからないのです。読んでみるのも良いと思います。
    そして相変わらず自分の感想はこんなにも抽象的なんでしょう(笑)

  • 9784062814393 316p 2011・8・20 1刷

  •  「殺された側には論理がある。殺された側にしか主張し得ない考え方がある。殺された側にしか見えない矛盾がある。殺された側にしか感じることができない人間の心がある。私は少しでもそれを伝えたい」という、筆者の思いで生まれた本。
     実際に起きた殺人事件を取り扱っているため、不快な感情を抱くことはある程度覚悟していたつもりだったが、各章を読み終えたときは想像以上に胸くそ悪くなってしまった。

     一章の光市母子殺害事件の裁判を巡っては、裁判をわざと引き伸ばして被告人への判決を遅らせることで悪名高い、安田好弘弁護士が「日弁連の全体委員会に出席しなければならないから」という遺族にとっては些末な理由で、加えて最高裁の担当裁判官の交代を見越したものというずる賢い手口を用いていたことに苛立たさせられた。それ以上に「被害者支援と死刑問題」というパネルディスカッションの場で司会者が「人生観」を持ち出して死刑問題を論じることを笑ったこと、「死刑廃止のために被害者支援にも少しは触れておこう」というスタンスである日弁連にはもう言葉を失うしかない。
     「遺族は人生を楽しんじゃいけないと思ってしまいがち、『家族を失ったのにもう笑ってる』と陰口を叩かれる。逆に人生を謳歌してやろう」と語っているが、こう思えるまでにどれだけ苦労をなされたのか私にはとても想像できない。

     二章の通り魔殺人事件では、何度となく論争を引き起こしている刑法39条が焦点となっていた。
     法定では全く喋ろうとしないが、犯罪被害者保護法に基づき警察や検察の供述調書を読むと幻聴はみられない、それどころか自分自身をを心神喪失だったと言ってのけていたという事実。意見陳述と証人尋問の差。刑事記録の謄写の為の乏しい説明、その上建前として民事訴訟の準備・検討のためにしか利用出来ないという、心身ともに疲弊している被害者にとって整った整備とは言いがたい状況が説明されていた。

     第三章は少年法が焦点となっていた。この章は「少年院に入っても二年以内にでられる。早く遊びたいなあ〜!」という、人一人殺したにも関わらず全く反省が見られない少年の、友人への手紙から始まっている。未成年の犯行では、加害者の更生を優先するという形式の為に家庭裁判所の審理が早められており、事実が明らかにされるのか分からない。その最中には地域からは支援と非難の声があがり、加害者を守ってしまう空気が生まれることもある。「暴行を見ていて助けなかったら人間として最低だが、法的責任は問えない」という(ある集まりで邂逅した)家裁裁判官の発言は、聞いていてさぞ悔しかっただろう。
     ちなみにこのリンチ事件が起きたのは滋賀県大津市である。この事件が起きたのは平成13年、この十年の間に県職員が何か問題提起をしていれば、例の悲劇は起きなかったのではと不謹慎ながら思ってしまった。

     四章は警察官による犯行の隠蔽である。警察官職務執行法で質問をする際の服装について定められているにも関わらず、それを怠った警察官たちのために、警察官になることを夢見ていた青年の命が奪われるという痛ましい事件である。最終的に県から損害賠償金が支払われたが、過失を認めたわけでもない。桶川ストーカー殺人事件の教訓は生かされなかったのか(ちなみにこの事件は群馬県で発生した)。

     五章は死体の隠蔽によって時効となった殺人事件について書かれている。酷い被害妄想を抱えた犯人によって命を奪われた挙げ句、埋められてしまう。「時間の経過に伴う証拠物の散逸」「国家による公訴権を行使しないという事実は、公訴権の放棄とみなされている」など、被害者からすれば馬鹿げた理屈である。
     本書では東京高裁で控訴審がスタートした所までで記述が終わっているが、最終的には高裁は被告人の責任を認め、さらに被告人の上告を退け、判決が確定したそうである(Wikipedia ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E7%AB%8B%E5%8C%BA%E5%A5%B3%E6%80%A7%E6%95%99%E5%B8%AB%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6)。しかし、その間に父と母は亡くなられてしまい、姉だけでなく、両親も犯人によって殺された形となってしまった。

     六章は死刑廃止問題を巡る章である。冒頭で大島令子議員が「死刑は残虐な刑罰であり憲法に反しているから止めるべき」発言したのに対し、被害者家族が「死刑は一つの通過点。癒されること無く、悲しみと怒りを一生背負っていかなければならない」と激怒している場面が記されている(それにしても、「加害者には会ったことがあるが、犯罪被害者に会ったことはなかった」という、被害者の心情も考慮出来ない人が死刑廃止を訴えるとは不思議である)。
     この話に限ったことではなく、死刑廃止を訴える本の大半は死刑を望む被害者側の意見を汲んでいない、死刑廃止論者によるものばかりと断じていたり、なぜ世界が死刑廃止の方向であるからといって、日本が追随する必要があるのか説明がなされていない、死刑を無くすのなら応報権を被害者個人に返せなど、死刑廃止論者の方は一度は目を通すべき意見が多く載っている。

     あとがきでは四章で書かれていた警察官によって息子を奪われた母親に対し、同じような目にあった(命は奪われていないようだ)知人から「息子さんは訴訟なんて望んでないと思いますよ、息子さんのことをいつまでも思ってあげることが供養になりますよ」という、手紙が来たことで母親が「ではどうやって息子の尊厳や名誉を回復できるのか」と絶句したエピソードを踏まえ、「この知人の善意はもしかするとこの社会の奥底に横たわる、殺された側ではない者たちの本音かもしれない、とも思うのだ」と綴られている。

     こうして長々と、加害者を責め立て、被害者の心情を察した気になっている文章をうっている私への警告でもあるように感じられてならない。

    自分用キーワード
    検察審査会 全国犯罪被害者の会 少年犯罪被害者当事者の会 死刑廃止を推進する議員連盟 リエゾンナース 更生保護官署

  • 御巣鷹山の本を読んでも思ったけど、
    人は自分の見に降りかからないと
    物事を真剣に考えない。
    でも、すべてのことは誰にでも起こり得るのにあまりに他人事な社会。
    私も何かできるわけではない、今のところ。
    でも、本を読むということは
    良いも悪いも含めて、何かを知り、
    考えるという事だと思う。
    何かをいう前にいろんな事を知って、
    考えなきゃいけないな…

  • 第1章 山口県光市母子殺害事件
    ──遺された本村洋さんの孤高の闘い

    第2章 滋賀県大津市少年リンチ死事件
    ──息子のために阿修羅とならん

    第3章 群馬県高崎市青年「事故」死事件
    ──警察に「殺された」息子よ

    第4章 東京都足立区女性教師殺害事件
    ──殺された側に「時効」はない

    第5章 兵庫県稲美町少年リンチ死事件
    ──加害少年とその親の責任

    第6章 極刑を求める側の論理と逡巡
    ──死刑廃止議連と被害者遺族

  • 「日常」ということばの中身が、ほんの一瞬の出来事でこれほどまでに変えられてしまう、その苦しみの深さ。犯罪被害者になる、ということは「偶然」、と断片だけを見て「簡単に」口に出してしまうが、この犯罪は防げたのではないか、という観点で考えたときに、はたして「偶然」なのか。
    この本は、具体的に特に少年犯罪事件の被害者が、一体何と戦っているのか、向き合うのか、ということを教えてくれた。加害者と戦っているようで、実は自分の家族を殺した少年がたった2年足らずで社会に戻る少年法を含めた司法、被害者の本当の声は何一つ聞いていない死刑廃止論者、自分が家族を守れなかったという自責の念。。。
    その被害者を救うのは、次の被害者を生まないこと。そのための罰、を求めていくことは単に犯人を憎む感情から出ているものではない、と知った。
    自分がその立場になったときに、初めてその守られていない社会を知る、というのは本当に恐ろしい。なぜ、被害者、が単なる犯罪の「証拠物」としか扱われないのか。まず、知ることから。

  •  本書には、6件の被害者遺族=殺された側からの加害者への望む「罰」の強さが記されているが、それは同時に『一般社会』へ犯罪被害者『軽視』に対しての論理的反論ともとれます。
     本村洋さん(光市母子殺害事件被害者遺族)は、死刑問題に対して『死刑になりたくなければ、人を殺さなければよいだけの事』とばっさり切り捨てます。これは、社会で軽々しく論じられる問題に対しての啓蒙でもあるかもしれません。
     他の被害者遺族の皆様の心の内も同様に、更正せず社会にいとも簡単に復帰している加害者だけでなく、そのシステムを作り出している仕組み・法への疑問や「殺された側の論理」に被害者の目線より何故かその向こうにいる加害者擁護に近い姿勢と思われる社会や一般的な見方への重き疑問であることを、我々も気がつかねばならないと思います。
     著者の藤井誠二氏は、『はたして殺された側は(加害者に)「償われる」ことを望んでいるのだろうか?』と、大きな疑問を投げかけます。償う事は言葉での表れではなく、継続的な行動の表れだと僕は思います。しかし、それは贖罪の小さな通過点でありその行為が目的ではない事は、本書を読むと理解していただけるのではないかと思います。

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著者プロフィール

ノンフィクション作家。「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」「沖縄ひとモノガタリ」「誰も書かなかった玉城デニーの青春」など多数。

「2023年 『居場所をください 沖縄・kukuluの学校に行けない子どもたち』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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