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この作品からのみんなの引用
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村の神や仏の本体は、村の自然であり、同時に村のご先祖様であった。人智を超えた自然こそが神であり、その自然を村の自然へとつくり変え、いまの村の暮らしを守っているご先祖様こそが神だったのである。自然という神とご先祖様という神が一体化して、村の神として祀られるというかたちがここにつくられた。そして仏教の仏もこの神と習合することによって、村に定着したのである。伝統的な村では、神と仏は同じものであり、仏教の宗派はさまざまなものであっても、村では村の仏教でなければならなかった。
― 168ページ -
身体や生命の記憶として形成された歴史は、歴史を循環的に蓄積されていくものとしてとらえなければつかむことができない。「発展していく歴史」は、知性が歴史に合理性を求めたことによって、そのようなものとしてみえてきた歴史であって、それだけでは身体や生命を介した歴史はつかむことができないのである。
― 160ページ -
身体や生命もさまざまな記憶を蓄積していくけれど、その記憶はたえず受け継いでくれる人々を探す。その受け継ぎは「発展」という形式ではなく、むしろひとつの循環である。技を伝えることによって循環的に再生し、生命を伝えることによって、やはり循環的に再生する。
― 160ページ
みんなの感想・レビュー・書評
ちょっと読みにくかったです。文章構成の問題かもしれません。何度も同じ表現や結論が出てきて,あんまり「読ませる」文章じゃない印象。「少しずつ」が「少しづつ」(2ヶ所)なのも気になりましたw(調べてみると,間違いというほどのことではないようですが教科書等の表記は「ずつ」なのでやっぱり気になるw 職業病w) それはさておき,この本は「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」というタイトルを冠し... 続きを読む »
よく消化できていない。もう一度読み返そう。
(「歴史」というものに対する認識が少しかわったかもしれない。)
失われたキツネへのノスタルジックな民俗蒐集ではなく、1965年辺りでキツネに化かされた話が途絶える(もちろん地域差はあるでしょうが)ということが、果たして一体我々が何を喪ったことを示しているのか、について思いを巡らしています。
どうやら私たちは、かけがえのないものを喪ってしまったようです。
喪った私たちはどうすればいいのか、については言及されていません。
それは、「まず私たちは喪ったということを受け止めるべきだ」
と言っているように思えます。
大学時代に考えた「平家物語」成立の推論(「平家物語」は敗者が語り継いだ歴史、異史)を論理づける勝者の歴史・正史の考察。→歴史哲学
筆者は、1965年頃から「キツネにだまされた話」が出てこなくなったことに注目。 その理由として、1 高度経済成長によって経済が優先される価値観になったこと、2 科学を至上とする時代になったこと、3 コミュニケーションが電話やテレビなどの普及によりマスメディア中心へと変化し、人から人への口承伝承が減って脚色の入る余地がなくなったこと、4 教育が、年長者から子どもへという継承ではなく、学校ひいては受... 続きを読む »
在野の哲学者というなら、うっかりもうひとり、この内山節を忘れていました。 私が一昨年2009年7月4日に書いたカール・マルクス『経済学・哲学草稿』(岩波文庫版)の感想は、翻訳者の田中吉六のことに終始した感がありましたが、そこでは周囲を見渡して・・・・ 「たとえば今の日本で在野の哲学者というと、フッサールの訳本『経験と判断』(1975年)もありますが、それより何と言っても一連のヘーゲルの... 続きを読む »
著者は1965年あたりで日本人はキツネにだまされなくなるとしているが、その変化の理由は、人間の側では科学至上主義・村落社会とくに通過儀礼の崩壊・進学率の向上などによるものである。キツネの側(と人間が考えた理由)では、自然開発の影響で人をだませる老狐がいなくなったことである。かつての村人がもっていた「キツネにだまされる」能力とは、要するに「自然に共感する力」であったことを指摘し、さらに身体的「技」の継承や、精神的な「共感」の歴史が、現在の歴史叙述から抜け落ちていることを指摘している。焼き畑が1950年代半ばに終了したこととか、山村での自己破産「山に上る」こととか、明治政府の修験道弾圧とか、江戸時代後期にはじまる植林とか、そういった日本の風土の歴史についても詳しく書いてある。
1965年を境に日本人は「キツネに騙される能力」を全国的に失くす。昔、民俗調査をしたことがあり、その村へ行きたくなった。
戦後しばらくの間、日本の田舎には「キツネにだまされる」という伝承が残っていたが、1965年ごろを境に、その手の話をぱったりと聞かなくなったという。著者自身によるこのような経験にもとづき、「知性の歴史」からは見えない「身体性の歴史」と「生命性の歴史」について思いを馳せている本。著者は、この本の企画に「歴史哲学序説」という隠れた副題を付けているそうだが、普通なら民俗学や文化人類学として扱いそうな話題を、視点を変えた「歴史」として扱おうとしているところに、著者の強いこだわりを感じた。
浦野所有 「現代人はキツネにだまされない」という話を手がかりに、戦後日本の社会構造の変化をさぐる本です。人と自然との関わり方や、集落などのコミュニティの変容を分析しながら、「人がキツネに“だまされる必要のある時代”は終わった」と説きます。 ただ、正直、内容が薄い点は否めません。このテーマで新書1冊を書くほうが無理がありました。話を引き伸ばし、小ネタを挟みすぎているため、肝心の「なぜキツ... 続きを読む »
このタイトルが今の KiKi にとってキャッチーだった理由のひとつは、5月に上橋菜穂子さんの「狐笛のかなた」を読んだときに感じた 「太古からの日本文化の中でお狐さまとはどんな存在だったのだろうか?」 という疑問、そして、 神社とかお稲荷さんで「お狐さま」を何度も見かけているくせに、日本人の文化の中で「お狐さま」はどんな存在だったのか、「お狐さま」にどんな想いを抱いてきたのかに関し... 続きを読む »
1965年を境に、日本人はキツネにだまされなくなったようだ、なぜか、という問いから始まる本。
キツネにだまされていた頃とだまされなくなった今、何が違ってしまったのか、日本人の歴史観とか宗教観、客観的事実とは何か、とか、そもそも知性とは、という話がどちらかというとメインで、もうちょっとエピソードが多かったらもっとよかったのにな〜とも思うけれど、でもとてもおもしろかった。
キツネにだまされなくなってしまった今、知性を介するととらえられないものをつかむことが苦手になってしまった、というのはとても悲しくて残念なことで、私がキツネにだまされることもたぶんもうないんだ。
途中に出てくる「山上がり」という話もとても興味深いです。
オススメされていたので読んでみたよ。
きつねの話が延々とつづく本ではないのです。
見落とされる歴史ってあるよねとか、なんかいろいろ載ってます。
Museum Theater Workshopの嵯峨さんから薦めていただいた一冊。他にも複数の方から内山節さんをオスススメされました。読まなきゃ!
一部分だけ読んで全部を読みたくなった本。
結局、はじめに読んだ一部分が一番良かった。
「オノズカラ」について考えさせられた。
自分の内も外も一緒なのである。
「心を開放する」から、「自ずから」となるきっかけになった本。
歴史哲学の本らしいが、そこはどうでもよかった。
自分にとっては、筆者の言いたかったことはどうでもいいのである。
図書館での分類(NDC:210-76-U)は、日本史だったし、 タイトルは、日本史、もしくは、民俗学っぽい感じだったので、借りたんですが、 まえがきに、「本書は、私自身の企画としては、「歴史哲学序説」という副題のものに書かれている。」とあって、 その時点で、失敗したかなあ…、と思ってたんです。 で、 第一章「キツネと人」 第二章「一九六五年の革命」 第三章「キツネにだまされる能力... 続きを読む »

「歴史哲学序説」という副題を冠し、「なぜキツネにだまされなくなったか」という問いを通じて従来の歴史学ではとらえられない生命性の歴史があることを説き、日本の伝統的な精神文化の世界を追う。自然観、死生観、...






