- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062879439
作品紹介・あらすじ
勉強嫌い、読書量の不足、敬意の喪失、萎縮する若者が「できる」大人になるために。
感想・レビュー・書評
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かつての日本人と比較し、現代の日本人特に若者は向上心、何かに対するリスペクトがなくなり、自発的に学ぶ姿勢が失われ、自分にとって快適な空間、情報にだけアクセスしようとする傾向に筆者は強い危機感を持っている。
この原因の1つにインターネットの普及によって、誰もが簡単に自分が欲しい情報にアクセスし、知識を得ることができるようになったことが挙げられる。
わたしは日本の高校生が海外の高校生に比べて向上心や出世欲、チャレンジ精神が低く、安定を求める傾向があるというデータが気になった。
生き方の選択肢が増え、自由や多様性が尊重される時代、なんで日本人は安定を求めるんだろう?
誰かがやっているから自分もやろう、自分だけ浮かないように周りを意識して、周りに合わせよう、人と違う道を進むのは怖いという日本人的な思考が影響?
プラスそもそも自分が何をやりたいのか分からないという人、夢や目標がない人が増えているような気がする。
筆者も言っていたように学ぶ機会が昔に比べて少なくなった(読書や先輩社員との飲みなど学ぶ機会を自分で作ろうとする人が減った)こと、物質的、経済的に昔に比べて豊かになり、そんなにガツガツ生きなくてもそれなりに生きていれば不便がないくらいの生活ができるようになったことが背景にあると思った。
何かを学ぶことは自分の成長であると同時に、誰かの幸せにもつながる。
やらなくてもなんとかなるけどやったほうが自分のためになるなら例えめんどくさくてもやってみる。自発的に取り入れた知識や経験にこそ価値があると思うし、そうやって得た知識や経験を誰かのために役立てられる大人になりたいと思った。
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主張したいことは分かるが従来からの変化を感覚値で報告しているのみであり、「なぜ~のか」を裏付ける社会構造や社会心理的分析による裏付けが弱い。
良くも悪くも講談社現代新書だなぁという書。 -
教養がいかに大切かが分かった。夏目漱石や、著名人が出てきても、名前は聞いたことがあるで終わってしまう。教養を身につけなくては不味いと思わせてくれる本である。
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明治大学文学部教授の著者が、今の世の中、学習をしない若者達へのメッセージ。もっと、みんなで考えてみよう!というメッセージ。
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まあ、そんなものだけど、
そういうテーマに挑んだところがいいね。
資格を獲るだけが勉強になってる。
バカバカしい限りだ。
勉強って、自分を信じられるようになるために、
するんだけどね。 -
斎藤先生の熱意が伝わってくる一冊。教養の衰退は怖い
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イヤホンから耳を離さない限り、偉大なる伝統の言葉は彼らの耳には届かない。長い間耳にあてていたイヤホンをはずしたときに、初めて気がつくのだ。自分には何も聞こえないことを。
イヤホンで耳を塞いでいる若者たちに聞かせたい言葉である。
そして、これが発刊されたのが2008年。当時の自分に読ませたかった。
ただ、読了したのは2017年。今読むには、どうしても時代錯誤に感じる記述が多いのは仕方がない。ただ、この日本がかかえている構造的な問題を大人が、本当に真剣になって解決しないといけない、ということには変わりない。 -
オビに書いてあることを、そのまま。
「勉強嫌い、読書量の不足、敬意の喪失
萎縮する若者が「できる」大人になるために」
この書き方は気に入らないが、では「できる」大人になるためにどうすればいいか?というと、本を読みなさい。&学ぶエネルギーの高い場所に集いなさい。だという。
(と、読んだ。)
中心はタイトルにあるように『なぜ学ばなくなったか』の理由付けであり、解決の一冊ではないと思う。
まして「日本の「教育力」を取り戻す!」のは難しい。
齋藤孝の読書への意味付けは何度も為されており、解決を期待するのならば『読書力』や『古典力』を読んだ方が面白い。
偏差値教育にも意味があるという言を必ずしも否定はしないが、大学進学率の高さと、センター試験までもが人物重視を謳いだした現状で、偏差値という観点での結果に対するモチベーションを上げよという方が無体である。
しかし、学ぶことは教育機関の門戸を叩くことのみに通じるものではない。
そうした中で、読書というのは非常に意味のあることだと思うし、それは偏差値云々よりも大切な心構えであるだろう。
結局のところ、自分に対する責任を失った子供たちに育ててきたのは大人である。
自身への責任どころか、社会へ責任転嫁する光景さえ多々見られる。
大人が「己に対する責任の欠如」についての自省を以て、次の子供たちに中らない限りはこの状況は変わらず侵攻していくだろう。
学びとは、自身にとって震えるほど楽しいものである。
それは齋藤孝の言う共有ではなく、過去や故人と対話する孤独な行為であっても楽しい。
さて、そのことをどう「学ばせる」かを大人は考えてゆかなくてはならない。 -
「学ぶこと」に対する「リスペクト」がなくなってしまったという指摘は納得できます。この国の未来に対する強い危機意識が、著者にこの本を書かせたのではないかと思いますが、「あとがき」で取り上げられている子どもたちの読書や学習に対する熱気を伝えるエピソードには、まだこの国には希望があるということを感じさせられます。
ただ、大正教養主義を「リスペクト」する著者自身の好みが強く反映されていて、ドイツ哲学やロシア文学を学ぶべきだとされていますが、これには全面的には賛同できないとも感じました。もっと多くの、それこそどんな対象からでも、私たちは学ぶことができるのではないでしょうか。著者が批判的に言及している、戦後の日本が受け入れてきたアメリカの大衆文化や「ガンダム」などのサブカルチャーにも、学ぶことはたくさんあるはずだと思います。
もちろん、そうした可能性を著者が否定しているわけではありません。「スラム・ダンク」の友情論についての本を書いたこともある著者が言いたいのは、アメリカのロックや日本のサブカルチャーにも優れたものはあり、そこから多くのことを学べるのは確かだけれども、そのことを理由にして、他の学問や文化から学ぶべきものなどないといった態度を取るのは間違いだ、ということなのかなと理解しています。
ただ、やっぱり著者自身の「教養」観に基づいた懐古的な話が多いので、そこに抵抗を感じる読者も出てくるのは仕方がないという気がします。 -
戦前の日本の若者が持っていた、「学ぶこと」に対する貪欲さは、やはり大事な事。そして、教養と言われるものも現代では不足していると思う。共感するところが多かった。201312