いまを生きるための思想キーワード (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062881340

感想・レビュー・書評

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  • わかりやすい。

  • 中央法の入試で動物化の項が出されていて、感動してしまった。受験後すぐ購入。大学生になって何度も読んでいる。名前がライトなので中身も薄そうだが、そんなことはない。文系のみならず理系の人も読んでもいいだろう。文系生はここらへんまで知っているか知らないかでは議論の質が全然違うのでこの本でもなくてもいいのでここらへんまでは知っておいて欲しい(結構切実に)
    筆者にはどちらにも偏らないでいようという様子がなく、冷静にキーワードに沿って説明をしつつ、さらっとつっこんで自分の意見もいやらしくない程度に入れてくるスタンスが好きだ。

  • あとがきにもありましたが、とても仲正さんらしいキーワード集。一番最後の「人間」の項目が特に印象的。

  • 昨今において、様々な所で語られる言葉の幾つかについて、著者の考え方が書かれている。

    よもすれば、私たちはこれらについて語る時、世論のコピーになりがちなのを、改めて自分自身で考える大切さを教えてくれていると思う。

    以下、ややネタバレも含むが、この本で取り上げられているキーワードを元に、沸き上がってきた私の考えを整理してみた。

    正義
    更生なルールを追求する議論から、心の奥底にまで入ってきて導きを与えてくれるような正義論への移行


    何が善かを特定しようとすれば、主体的に係わらなくてはならなくなると思う。
    日本のように、自分の立場をはっきりさせなければ生死に関わるような宗教紛争もない国では、抽象的、曖昧、日和見な態度で、善を特定しないことが身の守りなのだろう。
    確かにそれは、戦争に突き進んだかつての日本、あるいはナチスドイツのような状況を産まずには済むかもしれない。
    しかし、そのままでいいのか。
    長いものにまかれろで済んだ、高度成長期は既に過去。
    これからは、自分にとって何が善かを語らなければ、個としてどう生きるべきか、わからなくなってしまうのではないか。

    承認
    『人間関係や仕事や勉強がうまく行っているときは、自分が「認め」られているかどうかなどとわざわざ考えたりしないが、いったん「認められていない」と”気づく”と、どうなったら再び認められることになるのか、見当がつかなるなるからである。周りの人も、どうしたら、本人が認められていると確信する=自信をもてるようになるか分からない。』
    世間の大筋の流れに載っていられた時代は、周りに合わせていればよかった。今はもうそういうものはない。
    自分で自分を承認できる基準を自分の内に持たなければならない。
    それは、【質の良い読書】によるものと、私は考える。

    労働
    あくまでも金を得る手段か、社会の一員であることを示すためか、「好きな事を仕事にしている」などの喜びのためか、食べていくためと労働を切り離すべきか、自己実現を目的とするのか。
    労働というものの意味が崩壊している。
    「労働に向き合わない自分」と向き合わなければならないことに、まだ、特に日本人は、慣れていないのに、それと向き合わなければならない情勢を迎えている。

    所有
    ネットでの匿名が本名での活動か、どこまでも自分の個人情報で、他人の権利であるデータなのか。
    金銭的、物理的なものは無料シェアに移行する。
    これが、あるいは個々までが「私」というアイディンティティが不明になり、どんどん希釈されていく。
    どこに、何によりどころを求めればいいか、その答えもどんどん遠くなっていく。
    この先、どうなるのだろう。

    共感
    共感というものは、すでに食いつくされてしまったように思える。
    今のように情報がこれでもかというくらい溢れまくる様になる前は、率直な自分の「感じ方」だけがその場に存在した。
    だから共感できたのだと思う。
    しかし、今は感じる前に、というか感じる必要を忘れさせるほどの情報が溢れている。
    あまりに多いので、自分が必要と思う情報だけを選択する。
    本当に相手が困っていても、それが選択基準ではなく、自分の「お気に入り」や「いいね!」が基準なのだ。
    よほどの震災でもなければ、「共感」は不要になってしまったのだろう。

    責任
    小沢一郎氏や堀江貴文氏への裁判所や検察の対応を見ると、本当の責任追及とはなにか首をかしげてしまう。
    東電もオリンパスもそうだ。
    明らかに間違っているものを罰しようとするのではなく、単なる祭りになっている。
    責任追及ではなく、個々が「これに対してどう対処しようか」と知恵を絞り行動することもまた大切なのだが、それが欠落しても責任追及は、本当の公正さを欠いてしまうように見える。

    自由意志
    結局、完全な自由意志など存在しない。
    何かに影響され、無意識の内に選択している。
    時々、その選択について「これでいいのだろうか」と怖くなる。
    その選択や怖いという感情を承認するために、また何かを再び無意識に選択する。
    しかし、そのことを、人はしばしば、「素晴らしい自由意志」と勘違いする。
    そして、それを繰り返すのだ。

    自己決定/自己責任
    『客観的に、”自業自得の人間”と”自己決定できない状況の犠牲者”の区別をすることは可能なのか?
    あるいは、皆犠牲者か』
    区別できないこと、とことん相手のために責任を負ってでも助けることに躊躇してしまうこと。
    これは共感力の欠如とそうせざるを得ない全体主義のおかげ。
    この問題を解決に近づけるのが「ベーシック・インカム」ではないのか。
    この章で触れられているロールズの「現代正義論」を再読したい。

    「心の問題」
    『フランスの哲学者フーコーは、精神医学が元々、~社会の秩序を保とうとする法的権力の要請に対応する形で理論を形成し、犯罪者の精神鑑定などを通して司法に貢献することで、社会的ステータスを獲得したことを指摘している。正常=規範性(normality)から逸脱する異常者(abnormals)たちから社会を防衛しようとする、治安(security)に対する社会の要求が、精神医学的言説に権威を与えたのである。』
    つまり、社会のありように寄って、どういう精神が正常か異常かはいくらでも変わる。本当の基準等などないということだ。
    よく考えたら恐ろしいことになる。
    ベーシック・インカムによって、「働かざるもの飢えるべからず」が当然になったら、今の精神診断基準なんて通用しなくなるかもしれない。

    ケア
    『「ケア」が人間の生活に不可欠だという前提で、教育や訓練などを通して、家族を中心にとする身近な人同士の関係を蜜にし、支えあうべき、というような価値観を各人に-半場強制的に-植えつけようとする保守的なイデオロギーが、ケアの倫理を培養土して育ってくる恐れもなくはない。…様々な「自由」の土台を掘り崩す危険も孕んで(はらんで)いる。』
    すでにそれは起きている、だたそれが潜在化して苦しんでいるのにそれを感じないように洗脳されているか、そういう人達の声が「家族で支えるべき」という考えに抹殺されているかのどちらかである。
    どうすればウォール・ストリートのデモのように、顕在化できるだろう。

    QOL(Quality of Life)
    これからますます、医療の選択肢と情報は増える。その時にほんとうに必要なのは情報やサービスそのもの以上に、患者や患者の関係者の心の持ち方ではないか。結局それが情報を選択するのであるから。

    動物化
    昔、人間性と教養は一つだった。今は人間性、いや人間そのものがなくても、インターネット上に教養がむせ返るほど積載されている。
    教養や情報が人間を媒体とすることを必要としなくなり、独り歩きしている。
    これが人間の動物化の所以。
    しかし、これもどこかで壁にぶち当たり、結局その時代に象徴されるような生身の人間を媒体としての教養、知識の伝達が起きるのではないか。
    現代において思いつく方法とは全く違うかもしれないが。

    「歴史(=大きな物語)の終焉」
    Aさんは歴史というモチーフで自分を権威付ける物語を形成する。Bさんもやはり同じ歴史を使って自分を権威付けする物語を形成する。
    時の権威に寄って、Aが肯定されたりBがそれをひっくり返したり、さらにCが出てきたりのパワーゲーム。
    歴史なんてそんなこと。と言いたくなる。
    その歴史にも目的があって、それも終焉するということか。
    『「歴史の目的」が消失することで、「人間」が目指すべき共通の理想も消失する』という。
    その先は、ユートピアか地獄か。

    二項対立
    以下、Twitterを利用する際のガイドラインとしたい
    1)二項対立図式は、対立・論争しているかのように見える両陣営が、それぞれどのような価値観や世界観を背景にしているかを明らかにするために使うべきである
    2)感情のもつれとかそれまでの成り行き、単純な誤解・理解不足のために”対立”しているだけであって、本当に理論的に対立しているわけではない場合が多い-というより、圧倒的多数である-ことに留意すべきである
    3)したがって、表面的な言葉遣いの対立だけがら二項対立図式を描くのは避けるべである
    4)自由主義/共同体主義とか、財政再建路線/経済成長路線のように、それぞれの立場の論拠を掘り下げて考えると、必ずしも対立していないと分かる場合が多いことに留意すべきである
    5)既存の二項対立図式が誤った前提に基づくものであったと判明したからといって、問題が解決するとは限らないと最初に認識しておくべきである
    6)二項対立図式が存在するからといって、問題が解決することが、必ずしも当事者にとって不幸であるとは限らない、と認識すべきである。
    ネットなどの”二項対立”論争に参加することで、孤独を紛らわし、生きがいを感じようとしている人、有名になろうとしている人たちには、こんなことを行っても無駄だろうが。

    決断主義
    先行き不透明な時代は、決断してくれる指導者がもてはやされる。
    もやもやを払拭してくれるように思えるのからだろうか。
    ヒトラー、小泉純一郎もそうだという。
    しかし、決断を人に委ねすぎると、結局バランスを失って倒れるのではないか。
    「自分では決断しない」というのもまた自己責任において下した決断なのであると、客観的に自覚すれば、自分で決断しようという気になるのだろうか。

    暴力
    かくして、諸先生方、警察、裁判所その他もろもろは、間違った取り調べや裁判を正当化し、経済問題は人口減少のせいでどうしようともないと行って、何の手も打とうとしない。
    利権を取られたくないという恐怖心を克服して、むだな暴力を手放していただきたいものである。

    アーキテクチャ
    『”私たち”の意識は、周囲の自然的あるいは技術的環境によって既にかなりの制約をうけており、その範囲でのみ「自由」があるのではないか、と思えてくる。』
    しかし、その「周囲の自然的あるいは技術的環境」も、実は無意識の内に自分で選んでいると思うと、また違う選択肢が見えるのではないだろうか。

    カルト
    以下、私自身も留意したい
    『実態がよくわからない内から、安易に、『協議に問題があるはずだ」とか、「おかしな協議によって若者が狂気に走っている」などと決めつけるべきではない。何の科学的・法倫理的検証もないまま、「教義が悪い」という前提で、その宗教を信じる人全てを犯罪者扱いするのは、「信教の自由の原則」をなし崩しにしかねない危険な徴候だが、日本では、大学の教員やマスコミに登場する評論家、大手出版社のベテラン編集者などにも、その肝心な店が全然ピンと来てなさそうな人が少なくない。そういう人は”カルトの恐怖”を語っている自分自身が、”フリーメーソンの陰謀”並の”雑で大きな物語”にはまっていることになかなか気付かない。』

    イマジナリーな領域への権利
    この本の中で一番難しいお題かもしれない
    『「自己決定」のための基礎としての「自己」自身を再想像する(メタ)権利である』
    まず、こういう権利があることに驚いた。
    進学先、医療等、私たちは常に選択と自己決定に迫られる。
    しかし、「自己」がどういうものか、どうしたいのかが分からなければ、それに関する決定もあやふやになってしまう。
    よもすると私たちは、自己決定とは名前だけの他人や世間体からの決定を強要されたり、自己決定の機会を見過ごしてしまうことにもなりかねない。
    だから『人生の重要な場面において、他者の助けを借りながら、「私」は何を求めているのか、どうなりたいのか、「自己」のイメージを(再)形成する機会を設定して貰う権利』を顕在化させ、意識しなければならないのである。
    そうしないと、性虐待を受けた人が、ポルノ産業でお金を稼ぐ事を正当化するために、性虐待の経験を商品としてみなすということが起きる。
    これは他人から強要された価値観を間違った仕方で内在化することだ。
    この人が新しい自己決定をするためには『人生の重要な場面において、他者の助けを借りながら、「私」は何を求めているのか、どうなりたいのか、「自己」のイメージを(再)形成する機会を設定して貰う権利』が必要である。
    『今の日本では、「イマジナリーな領域への権利」が法的理論の上から払い落とされたままではないだろうか。
    これについての議論がもっと顕現化すれば、失業、貧困、格差社会、そういう人達が受ける差別などの問題に、今までと違った角度で光をあてることになる。

    人間
    倫理として、医学技術から見て、環境問題の一貫として、そして法的にも。
    一口に、「人間とはこうである」と言えなくなってきた。
    個人的には、「人間とは」の前に、質の良い読書によって自分の内に確固とした、且つ柔軟な基準を気づきたいと願っている。
    それが、「人間として私はこうありたい」というものを作ってくれるのではないかと思うからだ。

著者プロフィール

哲学者、金沢大学法学類教授。
1963年、広島県呉市に生まれる。東京大学大学院総合文化研究科地域文化専攻研究博士課程修了(学術博士)。専門は、法哲学、政治思想史、ドイツ文学。難解な哲学害を分かりやすく読み解くことに定評がある。
著書に、『危機の詩学─へルダリン、存在と言語』(作品社)、『歴史と正義』(御 茶の水書房)、『今こそア ーレントを読み直す』(講談社現代新書)、『集中講義! 日本の現代思想』(N‌H‌K出版)、『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書)など多数。
訳書に、ハンナ・アーレント『完訳 カント政治哲学講義録』(明月堂書店)など多数。

「2021年 『哲学JAM[白版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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