非社交的社交性 大人になるということ (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062882088

作品紹介・あらすじ

人間は一人でいることはできない。といって、他人と一緒にいると不快なことだらけ――。「人間嫌い」のための、居心地のいい人間関係のつくり方とは。哲学者が、カントの言葉「非社交的社交性」を手がかりに、哲学、日本、若者を考えるエッセイ。

感想・レビュー・書評

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  • 中島義道さんの著作を読むのはこれで3,4冊目だと思います(うろ覚えですが)。

    「非社交的社交性」という題名に惹かれて読みましたが、これ、カントの言葉だったんですね。不勉強の極みでした。
    しかしながら、哲学について基礎知識がなくても、この本は十分に楽しめる内容ですので、不勉強でも大丈夫です(私がいうのもオカシイですが)。

    前半は著者の過去の暮らしぶりや思想について語っており、後半は著者が開いた勉強会で出会った、「社交性」という意味において一風変わった(?)人々のエピソード集、のような形になっています。

    著者の本を何冊か読んでいると一度は出会ったことのある内容が前半に詰め込まれていて、(うーん?)となるのですが、それもそのはず、この本は新聞連載されていた記事をまとめたものだからです。
    ですから、著者の本を何冊か読んでいる人は前半を飛ばして、後半の面白い(?)内容を読んでもいいと思います。

    自分の言った(著作の中で書いた)事を言葉面だけ理解して対応してくる人々に著者が辟易させられるシーンでは、気の毒に思いながらも笑ってしまいました。
    極端なことを言うと、その極端につられてくる人たちがいる、ということなんでしょうか。
    今あらためて読んでみると、このエピソードに挙げられた人の中には、発達障害などのハンディを持つ人がいるのかもしれないなと思いました。

    しかしまぁ、世の中には様々な人がいるものだなあ、と考えさせられた一冊でした。

  • 『差別感情の哲学』で著者について興味を持ったため、手に取った作品。
    前半は著者の人生を振り返りつつ、非社交的社交性(カントの言葉、「人間嫌い」ではない)について著している。
    後半は著者が主催する「哲学塾」での、現代若者(中高年も一部含むが)の生きにくさを多数のエピソードを使って著している。

    全体的に意外と取っつきにくさがなく、エッセイのような感じでスラスラと読み進めることができる。
    面白いのは後半であり、20代の自分と随所に比較して読み進めた。登場人物の言動に対して奇怪だなと思う一方、自分としてもこのレベルではなくとも人との関わりで同様の行為をしてきたのではないかと省みた。自分勝手というよりも、自分が真に正しいと思うからこそ、彼らは奇怪な言動を起こしている。それがズレていることを学ぶのは、日々の日常生活における人間関係の中である。自分が正しいと思うだけでなく、人間関係を通じた自己批判の精神をもつことが社会で生きることに必要不可欠である。一人で生きるにはこの社会は難しい、割りきった人間関係を構築することが必要なのではないか。

  • 前半は新聞の連載などをまとめた内容。後半は自身の哲学塾で出会った変わった立ち振る舞いの人たちについての話。

    環境と自己についてのエセー集といった感じではあるのだけど「哲学するのに向いている人向いていない人」といった経験をもとに「困った人たち」について語っていて一気に読めてしまった。

    いわゆる哲学についての話は第1部で語られているのだけど、「絶望に陥らない不幸」として、悩むことの前提条件が欠けている点を突いた第2部が圧倒的におもしろい。
    ここでは「悩んでいる人=病人」といった捉え方を拒絶して「悩んでいる人は治せない」という当たり前のことを言っているだけなのだけど、なぜ世間一般ではそう捉えていないのかは気になった。

  • 【由来】
    ・確か図書館の講談社アラート

    【期待したもの】
    ・「大人になるということ」というサブタイトルの通り、「社交」ということについての「大人」な考え方、ライフハック的な視点が提供されているのかと。

    【ノート】
    ・前半は「何だ、この屁理屈親父?」という印象。自分の世間への視線を、自分の経歴に即して偏屈に赤裸々に、そこそこ愉しく語っている。笑いの取り方にかすかに内田樹的な匂いもするが、あざとさも見え隠れしている印象。

     後半は、屁理屈(哲学?)をこねてる本人が主宰している塾の生徒達の抱腹絶倒なトンデモエピソード集。これはもう、笑いながら読んでいい、しかも大笑い。著者が塾生達の奇行を「ええい、バカの標本め!」とツッコんでいるのがまた面白い。オーケンのエッセイに出没する電波な人々のエピソードに通じるものもあり、滑稽だったり、実はちょっと怖かったり。

     哲学者である著者が、そんな「生きにくさ」を抱えてる塾生達に注ぐ眼差しは、しかし意外と優しかったりする。それは、著者が、辛くて放り出してしまいたい「問い」を抱え続けて、生きにくい人生を歩んでいる人達にこそ共感しているからだし、また、そんな抱え続ける姿勢こそが哲学だと考えているから。だから、大いに笑い飛ばしながら読んでると、そんな言動の中に、かつての、もしかしたら現在の自分と重なる部分を見つけてドキリとさせられたりもする。

  • <Key Learnings>
    ・社交性
    万人ウケする社交性→ミニマムでよし。が、自分を相容れない人を全部排除するのではなく、上手くそれなりには付き合う様に。

    そのかわり、自分のワガママが通る場所を確保せよ

    ・他人の目、評価が気になる→仕事か、
    他人を恐れる人
    =他人による自分の評価を恐れる人
    =他人によく思われたいという欲求が強い人

    これを希薄化して気にならなくする方法は、2種類

    1)カントみたいに仕事で評価されれば、どんな変人でも、仕事によって多くの人と結びついていられ、しかもかなりのワガママが通る
    が、誰にでも出来る事ではない

    2)1人でいいから、本当の理解者、本当に信頼出来る人、自分が行きていることそのものが励みになる人(普通は、親、恋人、友人など)
    =私を本当に必要としている人、私のワガママを聞いてくれる人
    が居れば、生きていける

    ・日本の変な教育
    教室に入る時「失礼します」と言わねばならにと命じられて「何故ですか?」と尋ねた息子はしかられた。「ボランティア活動したい人?」と聞かれ手をあげなかった理由を問われ「したい人がすればいいと思って」と言って咎められた。息子が学校からもらったパンフには、「電車やバスに乗る時、むやみにたったり、大声を出したりしない。まわりの人が嫌な気持ちになるようなことはしない。スクールバスに乗る時は、運転手さんや知っている人にあったら、さわやかに気持ちよく挨拶する。車内のものを大切に扱う。」等々の注意書きが。定型的言葉が飛び交い、個人の言葉を圧殺する、調教現場の風景が広がっている。

    インターナショナルスクールでは、
    食道で1人でご飯を食べ、サッカーの練習を1人でしていても、先生に「それのどこが問題なんですか?」ときょとんとした顔で言われる。遠足も学芸会もスポーツ大会も、参加したい人だけ参加すればよい。昼に食べなくても、ひとりで食べても、誰も何も言わない。林間学校の注意書き通りに靴やグッズをそろえて行っても、他の子達は、革靴で来ることも、お菓子だけ持って来た子もいたが、先生は放っておく、のだそうだ。
    文字通り放っておいたわけではない。
    人種差別的発言をされて、その子を息子が殴った、と校長室に呼び出された。校長先生は、その場にいた子全ての証言を元に、3日間の掃除の罰を与えた。そして「相手も反省しています。それにしてもヨシは強いなぁ。」と笑った。「同級生を殴ったのですから、罰を受けるのは当たり前です。ありがとうございます。」と言った。

    →こういうのを聞くと、インター、特に海外の学校っていいなぁと思う。自主性が本当にきちんと育つのだ。自主性の芽を摘む事にしか興味のない日本教育で育った私には皆目検討もつかなかったのだが、こういうことである。

    ・帰国子女@日本
    祖国日本では、教育機関のみならず、個人が集団から離れて行動しようとするや否や、四方八方からワガママだ!という石つぶてが飛んでくる。
    欧米の個人主義的教育が必ずしも正しいわけではなく、我が国の集団主義的教育が必ずしも間違っているわけでもないだろう。が、みんな一緒主義が強すぎる。過度の協調性信仰から身を離してもいいのではないか?

    ・ウイーンに家を持つ事
    日本人にはあまりオススメできない
    →ヨーロッパに家を持つのはどこもこんなもんだよね…

    1)言語の壁
    家主と渡り合うだけのドイツ語ができねばならない。(ほとんどのウイーンの家主は英語ができない)暖房費がかさむ、排水溝が詰まった、などをみんなドイツ語でこなさねばならない

    2)文化の壁
    恐ろしく頭の固いウイーン人と日々戦わねばならない

    3)距離の壁
    9千キロの彼方。体力と気力とマメさが必要。

    4)気候の壁
    10月末から3末まで真冬という気候に耐えなければならない

    5)インフラの壁
    駅前商店街もコンビニも出前も赤提灯もなく、自動販売機もない
    日本にくらべた格段に不便である

    というわけで、誰かウイーンに家を持ちたい人いますか?

    ・日本でまかり通っている名前と違う物、イメージ
    ウイーンのカフェでウインナーコーヒーを注文してもウエイターは首を傾げるであろう。そんなものはないからである。日本でウインナーコーヒーと称しているものは、アインシュペンナー、もしくはメランジュにあたる。ついでにウインナーソーセージもない。

    音楽の都ウイーン、というイメージから、ウイーン人はみんなクラシック音楽ファンに違いない、という思い込み。
    国立歌劇場に入った事のあるウイーン人は数%。モーツァルトやベートーベンに全く興味がない生粋のウイーン人はうじゃ2いる。

    クリムトもシーレもウイーンの芸術アカデミーでは拒否された。ウイーン人は時代の新調をおいそれと認めようとしない頭の固さがあるらしい。

    ・言葉を文字通り受け取る欧米、言葉の中身や意味がわからなくても気にしない、わかろうとも思っていない日本人

    日本人は、言葉とそれが指すものの間にズレがあっても、橋渡しがなくともなんともない。
    書いてある文字が全くわからない掛け軸を堂々とかけ、客人もそれをしつこく聞こうとはしない。法事で全く意味の分からないお経をありがたく聞いている。
    だが、ヨーロッパ人は、あれは何だ、これは何だ、と五月蝿い程聞いてくる。茶席では、何故茶碗をまわすのか、何故粉なのか、と質問攻めにする。彼らにとって、書いてある事の意味がわからないのは不安だからだ。

    日本人にとっては、「駐車禁止」と書いてある場所に自転車を置き、「駆け込み乗車はおやめください!」というアナウンスの響く構内を電車に駆け込む。とくに反抗的態度であるわけでもない。
    言葉の文字通りの意味と、本当の意味が分離しているから、問題とも思わない。
    だから、日本にはヨーロッパの何百倍もの放送や指示看板がある。

    ・お節介文化
    ヨーロッパ的には意味のない言葉が、公共空間にだら2と垂れ流されている。
    防災行政無線から「子ども達の下校時間になりました!子ども達を犯罪から守りましょう!」
    電車には「閉まるドアにご注意ください」「携帯電話はご遠慮ください」「お忘れ物のないように…」
    ATMも「いらっしゃいませ」「毎度ありがとうございます」
    機会がよくしゃべる。

    こういったものはヨーロッパにはほとんどない。
    講義をしたが、少数派なので、改善されなかった。なぜなら、日本国民はそういう放送を望んでいるから。

    劇場で階段を上がると「こちらが劇場1階でございます!」と叫ぶ女性。誰が見たって1階なんだからやめれと頼んでも、「間違える方もいる」とやめない。交替時間になり、次の人はそこにつったってるだけだったが、それで何の問題もない。

    「間違える人は間抜けなんだから、彼らに合わせる必要はない」というヨーロッパ風の考えが、日本には絶対根付かない。

    ★誠実、あるいは誠意の意味の違い
    ヨーロッパでは、自分の心に素直になること、神は全て見ているから、というのが誠実。
    でも日本では、誠意は行為と結びついているので、誠意は行為に表れなければならない。しかも何か誠意かは、社会的文脈で決まっているので、社長の葬式に出ない社員、生徒の悩みを真剣に受け止めない教師は(本人の意思に関わりなく)誠意はない。
    西洋では、共同体に反しても自分の精神に誠実である、ことがありえるのに対して、日本ではその可能性は閉ざされている。西洋の伝統では悪を誠実に意欲するのが可能だが、日本ではあり得ないのだ。

    ・理論だけを押し通せばいいのではない。なぁなぁ社会への順応。権力に従う事。
    いかに正しいと信じている事でも、それが社会の大勢と異なっている場合は、それを貫こうとすると、大変くたびれる人生が待っている。

    ・30年以上前はチカンもセクハラも合法だった
    痴漢なんて当たり前、セクハラという言葉すらなかった。被害者が訴えても、誰も真剣に聞いてくれなかった。これらに対して魔女裁判の様に過敏に対応するという思想はついこの30年くらいのもの。今や痴漢は平凡な殺人事件より痴漢を大きく取り上げる。これは成果を上げていて、それはいいが、「女とは」とちょっと言っただけでセクハラと言われ身の危険があるという社会は逆差別だ。

    →まぁね。でもそれがまかり通っていた時代は許せないわ。


    ・リア充になれない若者たち 状況が全く読めない根本的欠陥

    WHO?
    彼らは人生の調教の時期である高校生までは、成績優秀ないい子であり、家庭でも学校でもどうにか生き延びられる。が、大学以降は自由度が増え、総合的な人間力で生きていかなければならず、その要素に人間関係というものがあると知り、怖じ気づく。その訓練を今まで怠り、ある時期に飛び越えるべきハードルを全く越えずにハタチになってしまったから。

    彼らは、拒否されることを通じて、自分に欠陥があることは知っているが、その実感がない。自分のロジカルで合理的な態度の何処が悪いのか、と不満げ。

    学歴が高く、勉強熱心で、努力を惜しまなくても、人間関係を築く事が
    絶望的に下手で、それを自覚して人間恐怖症になっている。ひとりで行きて行くのは難しい。働く事は出来るが、そこには人間がいるので、そこでつまづいてしまう。

    とても傷つきやすく、すぐ「不当な仕打ち」を受けたと言って逃げ出してしまう。極めてプライドが高く、たとえ自分に責任があるとわかっていても、みんなの前でそれを指摘されると、特に差別と思われる言葉を言われると、それをどうしても許せない。大変な屈辱を感じ、自分を棚に上げて、相手を責める。

    WHY?
    これはまさに現代のヒステリックな差別禁止・差別語禁止教育の賜物で、その教育自体は悪くないが、言葉の総体を捉えずに、「もちろん」や「無能」の様に、相手の一言に敏感に反応し、相手を切り捨ててしまう態度は、生きる力をますます削ぎ落とす。

    彼らには、フロネーシス(それぞれの状況ごとに適切に判断し、行動するという実践知)が決定的に欠けている。現在、ありとあらゆる知識はネットで手に入るが、フロネーシスは、実践を通して生身の他人との関係を通して獲得する他ない。

    すなわち、
    努力が報われなかったり、他人に誤解されたり、だまされたり、あるいは時折思いがけず救われたり、要は「痛い目」に合わねば、身体の芯に染み入る様にはわからないのだ。

    ハタチくらいまでにこれを習得しないと、その後身につけるのは至難の業で、痛い目を避けて来たので、社会に出ると、まともに降り掛かってくる他人の威力に怖じ気づく。それを避けているうちに、もはや生きられないと、途方に暮れる。(あ)

    HOW?
    人生のある時期に、他人の振る舞いの「意味」がわかるための、実地教育を受けずにきたものには、それぞれに状況に応じてこうこうと具体的に教えなければならないが、それが次の具体的場面にまったく適用できず、いつまでたっても「正しい振る舞い方」を学習しない。

    彼らは自分が「正しい」と思い込みたいので、常識と縁を切り、自分のプライドが保たれる道を模索する。だがそんなものないし、今更普通にも戻れないので、先が見えなくなる。

    現代社会は一方で、物事を深刻に捉えず、全てに対してそつなく、軽くすべるように生きる若者達で充満してもいる。(い)

    その対比がますます真摯で不器用な若者達の居場所を失くし、思い切って治そうと思っても、プライドが許さない。

    (い)は味方ではないが、敵でもないのだから、異質な人だからと言ってむやみに恐れたり、軽蔑することもないのだ。

    多様な人々がもみ合う集団の中でもまれ、恥をかき、攻撃され、不当な仕打ちを受けながら、学ぶしかないのである。


    <哲学info.>
    ・カント
    嘘も方便を否定

    ・ニーチェ
    あらゆる真面目な仕事なんて無意味だ
    人生に意味、価値、目的を探すことなんて錯覚

    ・アリストテレス
    フロネーシス=それぞれの状況ごとに適切に判断し、行動するという実践知

  • 人間は一人でいることはできない。かといって他人と一緒にいると不快なことだらけ。「人間嫌い」のための、居心地のいい人間関係のつくりかたとは。「哲学塾 カント」を主宰する著者が、哲学、日本、若者について考える。【「TRC MARC」の商品解説】

    関西外大図書館OPACのURLはこちら↓
    https://opac1.kansaigaidai.ac.jp/iwjs0015opc/BB40185338

  • 後半、著者の主宰する塾に通う若者達の生態が事細かに紹介されるが、そこが本書の読みどころだろう。おそらく発達障害と絡めて語られることが多そうな人々であるが、この本では一切そのフレーズは出てこない。「哲学に取り組むにふさわしい生きづらさを抱えた(今どき珍しい)若者たち」ととらえ、著者自身半ば呆れつつも正面から向き合う姿はユーモラスでありながら、少し崇高さを感じもした。

  • 愛を感じる。

  • だれかの「生きづらさ」に目を向ける40冊

    所蔵状況の確認はこちらから↓
    https://libopac.akibi.ac.jp/opac/opac_details/?reqCode=fromlist&lang=0&amode=11&bibid=2001009531

  • 後半がずっと筆者が開設する私塾に通う、社会的未熟な「使い物になるかと聞かれたら絶対にノーと言うし、職場に来たら面接官をなじらなければならい」段階にいる若者の愚痴になっている。ええい勝手にしろ

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著者プロフィール

1946年生まれ. 東京大学法学部卒. 同大学院人文科学研究科修士課程修了. ウィーン大学基礎総合学部修了(哲学博士). 電気通信大学教授を経て, 現在は哲学塾主宰. 著書に, 『時間を哲学する──過去はどこへ行ったのか』(講談社現代新書),『哲学の教科書』(講談社学術文庫), 『時間論』(ちくま学芸文庫), 『死を哲学する』(岩波書店), 『過酷なるニーチェ』(河出文庫), 『生き生きした過去──大森荘蔵の時間論, その批判的解説』(河出書房新社), 『不在の哲学』(ちくま学芸文庫)『時間と死──不在と無のあいだで』(ぷねうま舎), 『明るく死ぬための哲学』(文藝春秋), 『晩年のカント』(講談社), 『てってい的にキルケゴール その一 絶望ってなんだ』, 『てってい的にキルケゴール その二 私が私であることの深淵に絶望』(ぷねうま舎)など.

「2023年 『その3 本気で、つまずくということ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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