愛と暴力の戦後とその後 (講談社現代新書)

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著者 : 赤坂真理
  • 講談社 (2014年5月16日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062882460

愛と暴力の戦後とその後 (講談社現代新書)の感想・レビュー・書評

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  •  著者の曖昧なことをそのままにしておくのが、耐えられない感じがすごくいい。「戦争放棄をしていながら朝鮮戦争やベトナム戦争の特需で経済発展」「自民党は保守といいながらアグレッシブに改革する」「学生運動での共産主義が流行ったのは他に反体制の受け皿がなかったから」などなどこれまでモヤモヤしながらもそんなものかなと受け流してきたものが明確になる指摘が多数あった。とても面白く、とても勉強になった。

     これまでに触れた、憲法改正への反対意見で最も腑に落ちて、改正してもいいんじゃないかと思っていたけど、反対したほうがいいような気になった。

     先に結論ありきで、理屈を後付するのとは全く違う感じがよかった。

  • 私小説というか,ルポというか.
    著者が内面を掘り下げながら戦後を総括している.
    感情的な語句が多く,こういう種類の新書はあまり読むことがなかっただけに,言葉を飲み込むのにとても時間がかかる.しかしながら,引き込まれる感覚があった.
    戦後日本を振り返るならば,誰も責任を取らなかったし,責任を取ることを避ける世の中であり続けたし.また責任を取ることとはいったい何なのかという問いをもたらしているにもかかわらず誰もそこを直視しない現実が有り続けているということを,思考から導き出している.その思考が果たして正しいかどうかは置いといて,それでも圧倒的に深く考えて表現しているものになっていることは間違いない.そして,その問いはこちら側に投げられている.昨今の政治の世界で怒っていることに対しての危惧感も,「空気」というところからアプローチしているところは,「なるほど」と思わせられる.
    理系的な文書では無い分,読み取るのに時間がかかったが,問いのある本という点では良著ではないかとおもう.

  • ユニークな観点からの戦後史。1964年生まれの著者の視線から、70年代以降の連合赤軍事件、オウム事件、日本語、日米関係、どらえもんやサザエさん。そして遡って60年・70年安保などを説明していく。非常に自然な平易な語り口であるが、結構鋭い戦後の政権批判も含まれている。「どらえもん」のジャイアンのガキ大将としての分析、空き原っぱの存在が消えたとの文章、「さざえさん」に見る家族の仄々とした温かさも失われたなどは成程!かつて学区の存在が未知の世界との境界線だったという感覚は懐かしい!そこからだんだん世界が広がっていった。60年安保は反米ではなく、胡散臭さの象徴である岸信介首相への反対であったと喝破する。これらの闘争の担い手は決して反米ではなく、むしろ米国の民主主義の信奉者であったことは鶴見俊輔が好例だという。逆に岸・小泉・安倍などの系譜が反米・国粋主義と繋がるように思われるのは皮肉なところである。この時代に革命と言うとマルクス主義の切り口しかなかったのは事実なので、誤解を招くとの説明はその通りだと思う。

  • 近代というもの、戦後とはいったい何だったのか、学術的な話ではなく、筆者が身近に起こったことを起点にそれについて考察されています。戦後の特殊な一時期にあって、現在にはなくなってしまったもの、その一つに「ガキ大将」などの暴力があり、それが大切だったということを感じさせてくれます。そしてその暴力を、今の私たちは分かることができなくて、その時代の人にしか理解できないものなのだなと感じさせてくださりました。その文脈から、この間の原発事故、オウム心理教のこと、決してて他人事ではないということ、改めて教えられました。

  • 著書は思い込みの強そうな人物だと感じた。
    そして、その壮大な思い込みに付き合わされているような、感じが読んでいてした。

    頭が良くて面白い人なのだと思うし、ここまで日本というもの、戦争の結末を自分ゴトとして考えられるのはすごい才能だとは思うのですが。
    頭が良くて真面目な文系の人特有の言葉遊びというか、レトリックに付き合わされている感じがした。

    読んで何か得られるか、っていうとそういうものもなかった。
    視野が外に広がるというものでもなかった。

    なんというか、非常におすすめできません。
    戦後史とかを知りたいならジョンダワーの有名な本なり何なり、他に面白い本がたくさんあると思う。

  • 著者とは全くの同世代です。私にとって、戦後という言葉のくくりでの時代感覚はない。戦争を知らない子供たちですから、前も後もなく、時代論証としては、ガンダム世代、ファミコン世代、おにゃんこ世代、バブル世代、ネット世代みたいなキーワードで語られることご多いです。

    さて、そんな世代でも学生時代には興味の薄かった日本史を知りたいと、この歳になると自然と思います。歳をとるとはふしぎなものです。

    本書はタイトルには戦後というありますが、戦争や天皇のお話もふくみますが、それにべったりでなく、戦後という時代を経て育った日本の社会を考えています。社会学としてはパーソナルな視点に立脚しており正しい、正しくないではなくこの人はこう考えるんだ。と自然に伝わってくる読みやすいものでした。

  • 「がんばろう東北」ではなくて「嘆いていい、東北。あなたたちのために私たちはがんばる」と東北以外の人が言うのが、筋なのではないだろうか?
    に納得。それ以外の言葉は、気持ちの真相に挟まった感じですぐには出てこない断片になって我が身に入った。

  • ところどころに印象的な言葉はあるけど、全体的になぜだか思い込みの強さを感じてしまい少し受け入れられないところがある。まるで無農薬野菜の素晴らしさを説かれているように。

  • 父から「読むか」とまわってきた本。この人の『東京プリズン』も本屋で見たことがあるが、あれは小説なのらしい。

    まえがきにはこうある。
    ▼これは、研究者ではない一人のごく普通の日本人が、自国の近現代史を知ろうともがいた一つの記録である。
     それがあまりにわからなかったし、教えられもしなかったから。…(略)

     これは、一つの問いの書である。
     問い自体、新しく立てなければいけないのではと、思った一人の普通の日本人の、その過程の記録である。(p.3)

    "普通の日本人"て、どんなんかなーといきなり思いつつ、この本で書かれている「戦後とその後」については、そうやったんか!と思うところもあり、それは知ってるわと思うところもあり、10歳からの「戦後とその後」をリアルタイムで生きてきた父は、読んで何を思ったんやろと考えた。

    それと、著者は正直で率直な人だと思った。私は知らない、私はわからない、ということを、知らない、わからないと書き、それを知ろうとし、わかろうとする人なのだ。

    自分の母親について、「ママはね、東京裁判の通訳をしたことがあるの」(p.30)と祖母から聞かされた著者は、そのことを母に問う。言葉を濁しながら、裁判資料の翻訳を手伝ったようなことを著者の母は言った。

    そのとき母が「下っ端よ、下っ端。BC戦犯」(p.34)と言ったところから、著者は"「A級戦犯が大物であり、いちばん悪い」という誤解"について書く。「A級戦犯」は、いまでも、最も重大な責任があることの喩えとして使われることがある。私も、そのように誤解していた。A級が一等悪い奴で、B級やC級は下っ端だと。

    これらは、裁かれた罪が違うのだった。※

    ▼C級=人道に対する罪は、ナチス版東京裁判ともいうべきニュルンベルク裁判での(というか東京裁判が東京版ニュルンベルク裁判なのだが)「ホロコースト」に相当するもので、日本での該当者はほとんどいなかった。
     B級は、通常の戦争犯罪、たとえば捕虜の虐待や民間人の殺戮で、当時の国際法で禁じられていた行為への造反である。従来、軍事法廷(東京裁判も軍事法廷である)で裁かれる戦争犯罪と言えば、これだけだった。
     通常の戦争犯罪以外に「平和に対する罪=A級」や「人道に対する罪=C級」があるというのは、第二次世界大戦後の概念であり、戦争史上の一大発明ではないかと思う。(p.35)

    母との会話のなかに、「あの戦争」の通俗的なイメージのほとんどが出てきたとして、著者はそれを書き出している。

    ▼「戦争」とか「あの戦争」と言ってみるとき、一般的な日本人の内面に描き出される最大公約数を出してみるとする。
     それは真珠湾に始まり、広島・長崎で終わり、東京裁判があって、そのあとは考えない。天皇の名のもとの戦争であり大惨禍であったが、天皇は悪くない! 終わり。
     真珠湾が原爆になって返ってきて、文句は言えない。いささか極論だが、そう言うこともできる。でもいずれにしても天皇は悪くない! 終わり。
     その前の中国との十五年戦争のことも語られなければ、そのあとは、いきなり民主主義に接続されて、人はそれさえ覚えていればいいのだということになった。平和と民主主義はセットであり、とりわけ平和は疑ってはいけないもので、そのためには戦争のことを考えてはいけない。誰が言い出すともなく、皆がそうした。それでこの国では、特別に関心を持って勉強しない限りは、近現代史はわからないようになっていた。(p.45)

    「戦後とその後」には、当然のことながら日本国憲法の話があり、「アトミックサンシャインの下で日向ぼっこをしていましたよ」というホイットニー発言のことも、この本には書かれていた(この件は、加納実紀代の『ヒロシマとフクシマのあいだ』で読み、そこから私はマーク・ゲインの『ニッポン日記』を読んだのだった)。

    「それは、原子爆弾を想起させて敗戦国に君臨する、実にスマートで嫌な脅し文句だったのだが」(p.126)と書いた著者は、実際に英語でどう言われた文句だったのかを調べている。それは、"We have enjoying your atomic sunshine"だったらしい。こないだ読んだ『日本国憲法を生んだ密室の九日間』では、太陽の熱のことだと注記があったが、私がそもそもこれを読んだ加納の本では、「原子力的な」というのは、原爆を想起させるものだと書かれていた。

    1964年うまれの著者は、自身の記憶や経験もたどり、知らない時代のことは年上の人たちに聞きながら、高度成長期という「空き地とガキ大将が消えていった時代」を書き、「安保闘争」の時代を書く。それが「愛と暴力の戦後」であり、1980年代の「断絶」のあとが「その後」なのだ。

    同じ「安保」といっても、1951年にサンフランシスコ平和条約の一環として締結された安保条約と60年に改定された安保条約とはずいぶん内容が違うことを、まさに原典にあたって、著者は記していく。

    ▼日本にとっては、自分が言いもしない欲望を、他人が明文化し、しかも自分が呑む。これは倒錯的なことだ。そんな倒錯的な条文が、責任の所在がどこまでもクリアな英語で書かれていて、物語の域に達している。こんなに物語的な条文を私は読んだことがない。(p.122)

    さらにいえば、同じ「安保闘争」といっても、60年安保と70年安保は、驚くほど違う。別種の人に担われ、違うものに向けられた違うエネルギーではないかと思うくらいに違う。そう著者は書く。日本の歴史には、わけのわからなさがつきまとっていると記しながら。

    私がおもしろかったのは「この国を覆う閉塞感の正体」と題された6章。著者自身がメンバーとして加わった「ある地域の会議」で、昔からの公園である子供の遊び場のことがどう検討されたかが詳しく書かれている。著者がその遊び場のあり方についての検討メンバーに立候補した理由のひとつは、子供に自由に遊んでほしい、その子供の既得権益を守ってやりたいと思ったからだった。

    だが、検討委員会は、著者には勝手のわからないまま続いていく。「子供の遊び場に」と明確に考えていたメンバーは著者とあと二人だけ。委員長と副委員長の明確な希望は「老人の憩いの場として使いやすく」というもので、会議が3回目になって、どうやら出来レースらしいと著者は気づく。

    ▼同じ地域に住まうご近所さんなのだから、話せばわかるというのは間違いだった。ご近所さんだからこそ、同じ土地の占有権を主張して譲らない。領土問題とよく似ている。「住み分けしよう」という提案は通じず、「共存の道を探そう」という提案は、ハード面で排除されようとする。(p.214)

    しかも提案や共存の道を探ろうとするやりとりが記録してもらえない。議事録には「フリーディスカッションをした」と、何も書いていないに等しいことが書かれるばかり。私はかつての職場で、長い長い時間をかけた議論をし、議事録にも書いたことが、次の会議でやすやすと覆される、というわけのわからない経験をしたことがある。著者が会議のもようを記すのを読んでいると、そういう雰囲気を思いだすのだった。

    ▼どうやら見えてきた。
     委員会だけの想像力ではない。こういうことなのか…。
     「子供は、管理された状況でしか、体を使ってはいけない」
     恋さえもだ。かなり暗い気持ちになった。
     自由さを奪うこと。その「見返り」は、「管理しやすくなること」。「代償」は「活気が失われること」。
     そして、「管理しやすさ」という見返りは、すぐに結果が見えやすく、管理責任を問われることもない。それに対し「活気が失われる」には長い時間がかかり、それに対しての責任は、誰もとらなくてよい。なぜなら特定できないから。(pp.220-221) 

    著者はこの話のあとに、軍隊じみた日本の学校の管理についても書き、「身体性や自然な衝動を管理されることのつけは、目にはよく見えないけれど、積もり積もって、とてつもなく大きいと思う」(p.230)と述べる。ここのところに、共感する。

    8章は「憲法を考える補助線」。英語で憲法を指すConstitutionは「成り立ち」という意味で(小文字で書けばそれは「構成」という意味になる)、それにしたがって憲法を「国家構成法」として虚心坦懐に読んでみてどうか、ということが書かれている。著者は大日本帝国憲法を読み、日本国憲法を読み、自民党の憲法改正草案を並べて読む。「テキストというのは正直なものだ。思惑や運用の仕方がどうであれ、原典のテキストには、実はありのままのすべてが書かれている、そんな気持ちがすることがある」(p.259)という。

    著者は、「現行憲法、特に第九条を護りぬこうという人たちに素直に与することができずにきた」(p.265)そうだ。そう主張する人たちの多くが口にする「「日本人の平和に対する願いが憲法に実った」という言い方に、嘘とは言わないまでも省略がありすぎるから」(p.265)だという。その一方で「「アメリカの押し付けだから破棄すべきだ」という物言いにも、与する気にはなれない。…(略)もらおうが拾おうが押し付けられようが、いいものはいい、と言ったっていいはずだ」(p.266)という。

    ▼なぜ正直に、
     「私たちがつくったものではないが、美しく、私たちの精神的支えとなってきた」
     と言えないのだろうか。(p.266)

    この人の本は初めて読んだ。この人の書いた「物語」を読んでみたいと思った。「まったく新しい物語を」を思いながら、そういう物語をなかなか紡げなかったというエピローグを読んで。

    (11/24了)

    ※外務省「歴史問題Q&A 関連資料集」
    極東国際軍事裁判(「東京裁判」)について
    http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/shiryo/shiryo_11.html
    極東国際軍事裁判所の管轄に属する犯罪は、
    「平和に対する罪」:侵略戦争又は条約等に違反する戦争の計画、準備、開始、遂行やこれらのいずれかを達成するための共同謀議への参加等。
    「通例の戦争犯罪」:戦争の法規又は慣例の違反。
    「人道に対する罪」:戦前又は戦時中の殺人、せん滅、奴隷的虐使や政治的又は人種的理由に基づく迫害行為等。

  • 読み終えて、タイトルは何だったかなーと思った。『愛と暴力の戦後とその後』だった。

    『東京プリズン』の方がテーマに迫れていたように思うのは、私だけか。

    日本人は根深い恨みを持たない民族だ、と評していたのは誰だったか。

    天皇が現人神ではないことに、我々は気付かなかったわけではない。それが西洋の宗教観とは違う所である。
    では、現在の我々は戦争に対して、誰かに、何かに恨み辛みを抱いているだろうか。

    忘れてはいけない事柄は、「受けた傷」であり、「傷を与えた存在」ではないことが殆どである。

    しかしだからと言って、敗戦に対する衝撃を忘れようとしている、と言い切れるのだろうか。

    言い切るためには、我々は確かに直視しなければならないと思う。

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愛と暴力の戦後とその後 (講談社現代新書)の作品紹介

「これは、研究者ではない一人のごく普通の日本人が、自国の近現代史を知ろうともがいた一つの記録である。
それがあまりにわからなかったし、教えられもしなかったから。
私は歴史に詳しいわけではない。けれど、知る過程で、習ったなけなしの前提さえも、危うく思える体験をたくさんした。
そのときは、習ったことより原典を信じることにした。
少なからぬ「原典」が、英語だったりした。

これは、一つの問いの書である。
問い自体、新しく立てなければいけないのではと、思った一人の普通の日本人の、その過程の記録である。

――「まえがき」より

愛と暴力の戦後とその後 (講談社現代新書)はこんな本です

愛と暴力の戦後とその後 (講談社現代新書)のKindle版

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