- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062882507
作品紹介・あらすじ
第1章 私が裁判官をやめた理由(わけ)
――自由主義者、学者まで排除する組織の構造
第2章 最高裁判事の隠された素顔
――表の顔と裏の顔を巧みに使い分ける権謀術数の策士たち
第3章「檻」の中の裁判官たち
――精神的「収容所群島」の囚人たち
第4章 誰のため、何のための裁判?
――あなたの権利と自由を守らない日本の裁判所
第5章 心のゆがんだ人々
――裁判官の不祥事とハラスメント、裁判官の精神構造とその病理
第6章 今こそ司法を国民、市民のものに――司法制度改革の無効化、悪用と法曹一元制度実現の必要性
感想・レビュー・書評
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タイトルで受ける印象を、良くも悪くも裏切らない本である。
著者は裁判官として勤務しながら、研究・執筆活動を行い、後、大学院教授に転身した人物。内情を知りつつ、外からの目を持つという点で、裁判所全体を批判するには、ある意味、適任者であるのだろう。
本書の言わんとすることは、タイトルの「絶望の裁判所」につきる。
要するに、裁判所組織は、真に裁判に当たるべき人を正しく選び出し、そうした人が取り立てられるように機能していないというのである。
組織が淀み、情実人事がはびこり、上に阿り下に厳しい者ばかりが出世する。少しでも人に違うことをすれば執拗に叩かれ、人事で不利な待遇を受けるため、心ある者の多くは出て行き、人材の劣化が起こる。結果、無理な「和解」を進める裁判官、事件の本質をまったく考察しない裁判官などが残り、国民にとっても不利益きわまりない状態になっているといった主張である。
暴露本といえばそうなのだろうが、著者が、幅広い教養のある人物であることもあって、徒に露悪的、とまでは感じられない。
トルストイの『イヴァン・イリイチの死』やカフカの『流刑地にて』への言及は興味深かったし、また刑事・民事・家裁といった裁判所のセクションについての説明もわかりやすかった。
但し、読者である自分はまったくの門外漢なので、著者による腐った内情の描写を文字通り受け取ってよいのか、判断に困るところがある。
本来なら、ある業界の腐敗、みたいな本は、自分でどうしようもないので、手に取らないのだが、どこかで見かけた本書の書評で裁判員についても触れられているようであったため、ちょうど裁判員制度に興味があったこともあって読んでみた。
裁判員についての記述は思っていたより多くなく、あまりにもタイトル通り、表紙から受ける印象通りだったので、通り一遍の感想しか持てなかった。
一番は、「任に当たるべき理想の人を選び出し、理想的に運営される組織を構築して維持することの難しさ」である。ある組織にどのような人物が適任であるかを判断するということは、(受験や入社試験を含めて)本当に困難なことなのだと思う。
あとは、つまらないことだが、やはり必要以上に裁判所のお世話になる事態は避けた方がよいなという感想だろうか。
もっと漠然としたところでは、組織が淀み、歪んできたときに、まったく別の視点から見てみることも必要なのかもしれないな、と。これはただの思いつきでしかないけれども。
「絶望」的であったとしても、絶望しても仕方がない。絶望の先に何かがあると信じて進むしか、ないではないか。
大きすぎる、漠然とした、すなわち具体的解決策がまったく見つからない問題を抱えつつ、いつか、(別の問題かもしれないけれど、根は同じ)問題を解決する日のために、考え続けていくこと。そうして考えた1つ1つの小さなことがいつか実を結ぶと思ってあきらめないこと。
とりあえずはそんなことしかないかなぁ・・・というため息混じりの茫漠とした感想を持った。 -
日本の司法の最高峰である最高裁や、しのピラミッドに翻弄されている裁判官という職業と制度の話しである。著者の元裁判官であり、現在学者という経歴によるバイアスを差っ引いても確かにあまり希望的観測が出来ない実情が垣間見える。あれだけ、閉ざされた世界だと人はおかしくもなり、浮世離れしてしまうのか。。。
清廉潔白なイメージはすべて崩れ落ちる…。 -
完読には至ってないのだが、趣旨はよくわかる。
警察、官僚ときて?「裁判所よ、おまえんとこもか…」という話。
国家中枢権力機構の腐敗様子の詳細。
システムを替えたら万事解決するという話ではない。
人格を高めるという教育をどうするか?というどこにでも通じる根深い話でもある。
自身に寄って立てる人と、人の顔色ばかり見て立つ人というのはなくならない。
それだけに、権力を握る際のバトルバランスは拮抗するようなシステムにしないと救われないね。
●『絶望の裁判所』著者・瀬木比呂志氏インタビュー
→ http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38171 -
最初はよくあるドロップアウト側からの告発本かと思いながら読み始めたが、すぐにそれが皮相的な短絡だということに気づかされる。裁判所は外部からの観察に曝される機会が少ないうえ、代替組織もないため競争原理とも無縁。そんな組織が自己目的化を始めたら、確かに筆者の言うとおり権利侵害の防壁としての役割は期待できないだろう。トルストイの短編を引き合いにした「空疎な知識人」としての裁判官批判も興味深く読めた。
ただやはり残念なのはどうしても「グチ」っぽく聞こえてしまう箇所があるところ。ある意味仕方ないのかもしれないが、そのために本意が伝わらない読者もいるのでは。売れているところを見ると杞憂か。 -
身内に判事がいる身として、興味を持って、手にしたが。
現在の裁判所、その官僚体制、及び裁判官に対する批判の書であるが、途中退職したものが、元の職場に対する恨みつらみを列挙した感があり、2~3割差し引いて読まなければ、そんな思いを抱きながら読了。 -
元判事によるある種の暴露本。しかし社会に広く暴露、というよりは、自分の身に降りかかった出来事、こんな奴がいた、というニュアンスがやや強いように感じる。ただ全体的に言えることは、裁判官の能力が落ちている、もうちょっと有り体にいうと阿呆が増えている、と。司法改革系の話は、このようにスピンアウトしてきた人からの話ぐらいしか視点を持ちづらくて、本当に中の人たちがどう考えているのかは、こういうヤメた人の話からしかうかがい知れない。著者がもし裁判をするなら、判事はスーパーマンではなく自分の能力とその限界を謙虚に認識している人に担当して欲しいという。でもスーパーマンでも謙虚でもない人が多いんだろう。日本のキャリアシステムが悪いんや、と。裁判官の嫉妬深さや幼稚性もすごいんや、と。酸いも甘いも噛み分けられるようになってから裁判官になるようにしろ、と。そうするとスーパーマンが出てきそうですな。
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2023年度【国際学部】入学前知トラ「課題図書」推薦作品
OPAC(附属図書館蔵書検索)リンク
https://opac.lib.hiroshima-cu.ac.jp/opac/volume/490676?locale=ja&target=l -
普通に読んでも面白い新書、そして刺さる人には刺さる人生の指南書。
まず一般的な感想を。約30年間裁判官を務め、その後民事訴訟法の研究者に転身した著者の経歴を活かし、日本の裁判所と裁判官の闇を暴く告発本。我々が裁判官という人種に対して抱く清廉潔白なイメージとはかけ離れた非常識な言動や、官僚的というだけでなくむしろ旧共産主義国のような裁判所の極端なトップダウン型の思想統制の数々はいちいち衝撃的。
そのような情報価値はひとまず認めた上で、おそらく読者の多くは著者の語り口にマイナスイメージを抱いたのではないかと思う。テーマがテーマだけに仕方がなかろうが、1〜4章あたりでは著者が実際に体験した上司からのハラスメントや事務総局の締め付けへの恨み節(と捉えるしかない記述)がネチネチと繰り返し綴られる。そして著者の裁判官への人物評も、尊敬に値する価値観や人生観に欠けるだとか、本当の教養を備えていないといった具合でいかにも高踏的な印象を与える。ともすれば「著者が裁判官に向いていなかっただけでは?」と本の内容自体を疑いたくなる人もいるかもしれない。
かくいう私も途中までは、著者に対し懐疑的な気持ちを抱きながら読み進めていた。が、第5章から終章にかけて、どうしたことか一転して瀬木比呂志という1人の人間のファンにさせられてしまった。
第5章の章末にて、著者はトルストイの短編『イヴァン・イリイチの死』を引く。イヴァン・イリイチは帝政ロシアの官僚裁判官であり、一見すれば成功したエリート、だがその価値観や人生観は全て借り物、著者の表現によれば「たとえば、善意の、無意識的な、自己満足と慢心、少し強い言葉を使えば、スマートで切れ目のない自己欺瞞の体系」というものだ。さも悪い人物のようだが、官僚、役人の中でこれはかなり上質の類型だと著者は述べる。そして著者自身すら若いころには「いくぶん自覚的なイヴァン・イリイチという程度の存在」であったのかもしれず、闘病や研究、執筆を通じてどうにかイヴァン・イリイチ的な拘束を脱して1人の人間に立ち返ることができたにすぎないと。
私はこの人間分析に深い感動を覚えた。私だけでなく現代の若者、ことに「センスのある人」に見られようと必死で自身を飾り立て、「人と違う自分」を演出しつつもどこか虚しさを感じているような人は共感を禁じえないのではないはずだ。
自分こそがイヴァン・イリイチなのではないか。そしてそれは、ことによればイヴァン・イリイチにも満たない、自分自身を俗物と信じて疑わない凡庸で素朴な人間よりもずっと醜悪な在り方なのではないか。
また瀬木氏についても、裁判官という基本的にはお堅くてつまらない人間、無趣味で仕事ばかりを生き甲斐にしている人間たちの中にさえ醜悪なイヴァン・イリイチの影を、即ちいびつな自己愛を感じ取ったがために「絶望」に至ったのではないのだろうか。
もちろん、裁判官には没個性さがある程度は要請される面もあるし、他の人よりも多くの時間を仕事に割くのであるから、イヴァン・イリイチを超える本当の人間性を培うことは非常に難しい。結果としてイヴァン・イリイチに落ち着き、自身をひたすら慰撫する人間が出来上がってもそれを非難するのは酷である。他の知的エリートについても概ね同様だろう。
しかし若かりし頃の瀬木氏や今の私のように、自分自身がイヴァン・イリイチであることに我慢がならないナイーヴな人間にとってそれは絶望に他ならない。そしてその絶望からの恢復を果たし、今なお旺盛な執筆活動を続ける瀬木氏は私のような人間にとって尊敬すべき先達といえる。
ここまで穿った読み方をする人はそうそういないだろうが、少なくとも私は、瀬木比呂志という1人の人間の半生を通して、自分自身の人生を生きることの大変さ、それでも気高く生きたいと思える格好良さまでをも教えられた気がした。瀬木氏の他の著書もちかぢか読んでみようと思う。もちろん『イヴァン・イリイチの死』も。 -
裁判所に絶望して退官された本裁判官。
いろいろ日本に司法の絶望について書かれた本はあるが、著者の属性は貴重であろう。
結果的に内容がちょっとウザくなっても
いずれにしろ、日本の裁判が、ヒラメ裁判官による、組織優先の状況になっていることは間違いなさそうだし、そもそも、学生上がりで世間を何も知らないバカが、試験に合格して至高感のまま任官される組織が、人を判断できるわけもないのはその通りだろう。
しかも、法に基づくわけでもないのだから。
滅入るな。
検察も酷いし。
そういう、司法による救済が期待出来ない世界に生きているわけだ。
じゃあ対抗出来るのは、権力と暴力しかないよね。
その取り合いが色んなことを歪めてるんだろうなあ、と思った次第。