教育の力 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062882545

作品紹介・あらすじ

「ゆとり」か「詰め込み」か、「平等」か「競争」かなど、教育を巡る議論ほどに対立と齟齬が起こっている問題はないと言っても過言ではありません。しかしそれらは、論者の個人的な感想や、思い込みによる独りよがりである場合がほとんどです。みんなが善意と熱意を持って教育を論じるのだけれど、ある種、独りよがりな「思い入れ」や「思い込み」が先走ってしまい、不毛な対立が至るところで引き起こされてしまっている・・・それが、教育を巡る言説の現実ではないでしょうか。しかし、この種の「対立」は、冷静に考えてみれば錯覚であることが少なくありません。「ゆとり」か「詰め込み」か、と二項対立で問われると、人はつい、どちらかの立場に与してしまいます。しかし実は、それは「問い方のマジック」に陥っているだけなのです。こういった、偽の問題による不毛な対立を避けた、本当に意義のある教育を巡る議論が、いまこそ必要とされているのではないでしょうか。こうした混乱に終止符を打つためには、教育、とりわけ公教育はそもそも何のために必要なのかを、まず定義しなければなりません。著者の考えによるなら、それは一人一人の子供が近代社会のルールを身につけ、その中でより自由に生きられるようになること、ということになります。個々の子供の自由の感度こそが社会に対する信頼の土台となり、みんなでよりよい社会を作るという、真の意味での市民参加型の民主主義社会の礎となるのです。では、どうすればそのような教育を作ることができるのでしょうか。著者の提案は様々ですが、その一つは、一方的に教師の授業を聞くという受け身の授業を改め、子供たちがある一つのテーマに関して自ら調べ、お互いに教え合う、授業の「プロジェクト化」です。日本ではあまりなじみのない方法ですが、すでにフィンランドやオランダなどでは成果を上げたメソッドです。競争よりも協力の方がそれぞれの子供の学力を上げることは、すでに様々なデータで証明されています。教育をつくるためには学校の物理的な「構造」はどうなっているのがいいのか?教育を行うための教師の資質とは何か?そしてその実現のための社会とは?本書は、義務教育を中心に、どのような教育が本当にと言えるのか、それはどのようにすれば実現できるのかを原理的に解明し、その上でその実現への筋道を具体的に示してゆくものです。

感想・レビュー・書評

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  • 人間がもとめる「自由」というものをぐっと深く考えた末に得られる社会の根本原理から立ちあげた教育論でした。そもそも教育はどうして必要なのか。それは各人の自由を担保するためなのだと著者は論じます。

    古代、農業の勃興によって蓄財が生まれたのち、人々はそれを奪い合うようになります。そのような争い、戦争は、「生きたいように生きたい」という種類の「自由」によって起きている、と二百数十年前の哲学者たちは見抜きました。つまり「自由」への欲望が、争いを生んでいるのだ、と。そこで考えられたのが公教育でした。ヘーゲルのよると、「自由」でありたければ、お互いの「自由」を認めあわなければならない。これを「自由の相互承認」といいますが、公教育によって「自由の相互承認」をできる人々を育て上げようとしたのが、公教育のもともとのはじめなのだというところに、その目的は行き着くのでした。要するに、現代の「自由」というものは、やりたい放題わがまま放題することではなく、自分の「自由」のためには他者の「自由」を認める必要があるという自覚のはっきりある「自由」なのだと定義されていました。そういった現代的な自由、そして争いを回避する自由のために教育があるのだというのが教育の根本原理なのでした。

    しかしながら、日本では明治期に公教育がスタートするなかでこの根本原理の上から「自由の相互承認」がきちんと目指されたことはありませんでした。富国強兵、つまり国家のための教育からはじまり、戦後になっても労働にかなう人物を作り上げるための教育という面が強かった。ただ、労働のための教育という考え方は、子どもが大人になって自由を得るためにはまず労働できることだとなります。社会のための教育か、子どものための教育か、という論争は尽きないそうですが、こうして考えていくと、そのどちらにも当てはまることであることがわかっていきます。教育は、個人の「自由」のためそして「自由の相互承認」の感度をあげるためであり、他方、「自由の相互承認」によって、社会を豊かかつ平和にしていくためである、と。

    これらは序論のところで述べられているものです。まだ一般福祉についてや、平等と競争についての考察があるのですが、こうして序論のところだけでもしっかり押さえておくだけで教育に対する視点がかなりクリアになるのです。そのクリアになった視点のまま読み続けることで、この先展開され積み上がっていく著者の教育論の妥当性がよりわかるようになります。

    現代は知識基盤社会と呼ばれ、生涯ずっと学び続けなければいけないような社会になりました。ここを踏まえて、著者は、これからの教育を「学びの個別化」「学びの協同化」「学びのプロジェクト化」の三つに分けて解説し、その融合による教育を説いていきます。「学びの個別化」は、それぞれの性格や性質にあわせて学習を進めていこう、というもの。「学びの協同化」は、わからないところを教え合うなど、学び合える学習の有り方。「学びのプロジェクト化」は、洋服を作るだとか宇宙の成り立ちを知るだとか、ひとつの目標のためにみんなで力を合わせながら、いわば学び方を学ぶような体裁で自主的かつ自律的に行う学習の有り方。このなかでは、100年以上前にアメリカでデューイが提唱した「新教育」の見直しがありました。幾度と批判を受けながら、それでもなお良いところの多い「新教育」を、ICT技術のある現代でこそ考え直す。そういった考え方で、さまざまな「新教育」由来の教育方法を紹介していました。

    また、人間関係の流動化をはかるために校舎の建築様式・デザインを考える必要性も述べられています。ここのところで、短いながらも解説されていた「群生秩序」というものが、子どもの頃から嫌悪していたマインドでした。「この、くそったれ!」と言いたくなるくらいに、です。

    「群生秩序」は、狭く閉じた世界での窮屈な人間関係のなかで生まれる秩序だと言えると思います。善悪の判断が恣意的で、その場のノリや空気で決まるものです。「弱いくせに賢いからあんたは悪だ」というように。ここでは「同質性」が深くかかわっている。「同質性」を予定調和できないものは悪、というようなマインドは、残念ながらどこにでもあるし、それこそ蔓延しているでしょう。現代においてミルフィーユ状に何層もの階層があって棲み分けがなされていて、そのひとつひとつの層に「同質性」が求められる。「同質性」を作り上げている基盤には、「不安」や不安を元とした「強迫観念」があると思います。「不安」を抱えるなんてことはしょうがないことなのですけれども、その不安の解消の仕方をどうするかなんです。「同質性」で「不安」解消するのは不健全。でもどうしたらいいかわからない、モデルがない、というマインドがそこにはあります。

    この「同質性」をうまく回避するやり方をも、これからの教育では子どもたち自らが考えていけるようになればいいです。そして、そのあたりも視野に入れた教育の改革を、著者たち教育学者の理論をもとにしたりなどして、この先30年くらいのスパンで、少しずつじっくりと進められていくのでしょう。よりよく学べて、心の安定のケアもなされる教育が少しずつ実現の方向へと歩んでいっています。未来を生きる人たちがより豊かな生を生きられるようになるためには、現代にある障壁や苦悩というネガティブなものが問題提起となって役立つのです。そう考えていくと、社会や人生にいろいろなことが起こっても、ちょっとポジティブにいられると思いませんか。

    本書は2014年発行のもので、さらに著者は僕よりも年下でしたが、ものごとを人の欲望や関心にまで遡って考えるところなど、今の僕の考え方に近いところがあり、びっくりしました。なんだか、いきなり言い当てられたみたいに。

    丁寧な言葉で論理を解きほぐしながら進んでいく内容ですし、読み易いタイプの論説本でした。おもしろかったです。

  • デューイの系統を受け継いだ新教育と伝統的な教育を、必要や状況に応じて組み合わせて提供することを20〜30年かけて実現するという、革新の情熱と客観的視座による冷静さを合わせ持った主張と理解した。

    賛同する点として大きく二つ挙げたい。
    第一に、教育が進むべき姿を表す3つのキーワードのはじめに「個別化」を置いている点だ。第二のキーワードの「協同化」は、それだけを見ると、一斉授業にグループ学習を時々入れ込むことをしている教員が「自分の授業はすでに協同型の学びになっている」と勘違いさせてしまう恐れがある。「みんな」で意見を出し合っていれば、学び合っていると考えるのだろう。しかし、「協同型の学び」は、あくまでも個が主体として動くという前提に立っている点で、伝統的な一斉授業とグループ学習の組み合わせとは、異なる。
    まずは、個別化がなされて、そこに協同化が織り交ぜられていく。
    そこに向かって教員に求められるのは、「一人ひとりの学びを支え導くとともに、学びの協同化をファシリテートする」力だと著者は言う。ここに大きく共感する。

    第二に、著者が哲学から導いた教育のあるべき姿を具体化する個別化&協同化、そしてプロジェクト化というキーワードを挙げる一方で、必ずしもみんなが最強のファシリテーターである必要はなく、いろんな教員がいていい、要はそれらの教員の協同だという点である。
    自分が属する初等教育の場においても、様々な教員がいるが、個別化、協同化しない教員が全否定されるべきではないと考える。伝統的な教育のあり方であっても、二十年、三十年というキャリアはそれ自体尊重されるべきであり、実際、引き出しは多い。協同相手に学ぼうとする姿勢が互いにある限り、多様な経験は歓迎されるべきである。私から問題提起すれば、経験のことなる人々が互いの実践に学びあい、児童がその恩恵を得るためには、どの程度の協同がなされる必要があるにだろう。
    現在の自分が属する革新が目指されている文脈では、プランニングの共有レベルでは十分ではない。十分ではないという意味は、革新的な素人と伝統的なエキスパートが分かれてクラスを持つと、後者が前者と比較されて保護者に批判されてしまう。プランニング以上の更なる協同のためには、初等教育上望ましくないかもしれないが、教科で責任をわけて同じ集団に両方が関わるというあり方も必要になってくると考えられる。しかし、いわゆるティームティーチングは、流れだけでなく、形成的評価を共有しようとすると、両者が同じ人間になることを目指すようのものになり、事前に時間がかかる。既に確立されている実践を変えて行きたいと願う場合、考えなければならない事由だろう。

    自分としては検討が必要と感じた点を一つ。最近見させてもらった実践と一緒だったが、グループ学習をしていて、学びが成立しているt時は教員はなるべく関与しないという点がなるほどと思いつつ、引っかかった。ファシリテーターというより、いつも一緒という訳にはいかないが、協同参加者という立場で、教員がともに話し合い、考え合うことにはどんなデメリットがあると想定されているのだろうか。この辺りを考え、実践したいと思った。

    最後に、何度もデューイに端を発する新教育やオープンプランのことが述べられ、奈良女や伊那の学校が挙げられているのに対して、個人的なことで申し訳ないが、日本初のオープンプランスクールを謳い、開校前に職員がデューイスクールにも見学に行ったはずの前職が全く例としてあがってこないことを勤めていた人間としても不甲斐なく思わずにはいられない。そして、現在勤める学校がこのような主張を支える一例として挙げられるよう進むことを祈っている。

  • この本は、では今、教育をどうするかを考えるのにとても良い。誰でも語れる教育論に疑問を抱いたことのある人や、教育に絶望した人、諦めてしまった人には一度読んでいただきたい。

    苫野先生の声や言葉の選び方が本当に好きで、もはやファン。

  • 古い著作ではあるが、ハッとさせられる内容だった。特に、人材の流動性についてと、同質性を求められる空気感についてのくだり。大人もいっしょ。

  • まずは自分の力を信じること。とりあえず根拠はなくてもいい。まず、自己を承認できなければ、他者を承認することなどできない。ルサンチマンだけになってしまう。他者を承認することで、他者からも承認されるようになる。自己承認できる人に育てるには、親が子を信頼しなければいけない。心配ではあるだろうが、信頼して成長を見守ってあげないといけない。何度も裏切られるかもしれない。それでも、信じていれば、いつかきっと期待に応えてくれるはず。期待し過ぎは良くないけれど、期待して待ってあげてほしい。自分が最近考えていることにひきつけて読んでしまっているので、著者が言いたいことから離れているかもしれない。ひとりよがりな読み方は良くないのだろうが、まあこういう受けとめ方をした人がいるということでお許し願いたい。私の教育理念は「一生学び続ける人を育てる」ということ。そのために、小中学生の間に一生ものの「学び方」を学んでほしい。学ぶこと自体を楽しいと感じてほしい。楽しいことは続けられるから、学び続けられるようになると思う。そんな思いで、30年以上働いてきた。「個別化」「協同化」「プロジェクト化」という部分では、いまのところほとんどあてはまることはしていない。けれど、総合学習であったり、探究でやっていたりするようなことを自分もしてみたいとは思っている。定年退職後、偏差値から離れた世界で何ができるかを考えていきたい。それから、超ディベート、これも楽しそうである。「問い方のマジック」に陥らないようにして、共通了解を得られるようにもっていく。これって、ドラマ「女神の教室」でやっていた民事裁判における示談と同じことだろうか。落としどころを見つけ出す。「子どもたちに民主主義を教えよう」で言っていたことでもある。それぞれに、いろいろな思惑があって、いろいろと意見が出るわけだけれど、それぞれの考えをよく聞き、熟議し、なるべくみんなが納得いくより良い解を見つけていく。民主主義の基本なわけで、これが著者がいつも言っている「自由の相互承認」ということでもあるのだろう。本書はTwitterで見つけて、電子書籍ならちょっと安くなっているということで、少し古くはあるが購入してスマホで読んでみた。最近、ずっと苫野さんのVoicyでの解説も聴いているので、読んだことだか聴いたことだかわからない部分はあるのだが、だいたい上のようなことを感じている。以前は自分より若い人の書いたものを読むことは少なかったのだが、自分も歳をとってそんなことは言っていられなくなった。自分の書いているブクログのカテゴリに入れている著者名としては、池谷裕二、中島岳志、國分功一郎、伊藤亜紗、苫野一徳あたりが自分より若い人たちだ。だれの言っていることを自分の中に受け入れていくか、誰を信用するか、その嗅覚のようなものを育てることも教育の中では重要な位置を占めるのではないかと思う。以前は森毅だったし、いまの一番は養老孟司、それから内田樹というところ。自分ですべての一次資料に目を通して、自分なりの考えを持つということは難しい。だからこそ、信頼に値する人を見つけておかないといけない。そんなことを、6年生の最後の授業で語った。みんな、意味わかってくれたかな。

  • 教育という袋小路になってしまいがちな論にひとつの回答を示していてすごい。内容自体には賛成できるところもありつつ全肯定はできないような。

    教育心理学や教育原理などの基本的な知識をもとに論じられているので入門書としても良い。教育万能説、教師万能説への言及もあって、ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思った。

  • 2016年12冊目?「教育の力」読了。

    かなり前に読み終わっていたんだけれど、かなり付箋を貼ったので書くのが今になった。

    この業界で働いていてモンモンと言葉で説明できなかったことが何とも綺麗に表現されているのが良い。さらには他の教育学者や、教職原理や教育心理で習った名前や名称もチラホラでてきて、理論と実際がすっきりと解説されている。

    図書館から借りている本だが、自分でも購入して、一冊手元に置いておこうと思う。

  • 教育の力、一体これが何を指すのか。
    「学び続ける力」
    これを全ての子どもにつけることができるかもしれないという場としての学校の在り方。
    そのように解釈した。

    教育について、学力について、授業について、そして未来について丁寧に書かれている。

    おそらく、5年前の自分なら、「こんなの理想論すぎて、実際の学校ではできるわけない」と思っていただろう。
    でも、今は違う。
    というか、実現したいと思っている。

    具体的なレベルまで掘り下げて行くのは、現場の人間だと思う。しかし、この本はとても心強い。視野を明るく照らすものになっていると感じた。

  •  どこかで聞いた話をつなげてまとめました、という本。大学生の卒論を、ですます調にした感じ。でも経営者から学者まで、教育本ってどれも似たようなものだから、驚きはしないが。

     たとえば序章で教育の目的を「教育は、<自由の相互承認>の感度を育むことを土台にして、すべての子どもが<自由>になるための<教養=力能>を育むためのものです。」(P.31)と言うんだけど、こんなの言い古されていることなんだけどなあ。だから「生きる力」だの「キャリア教育」だの「総合的な学習の時間」だのがでてきてるわけで。今の教育現場はもう一歩先へ行っているのだ。「効率と公正」とかね(これあんまり好きじゃないけど)。

     他にも例をあげると、学びの個別化だの多様化だのというけれど、そんなのはみんな分かってるんだよ。「ゆとり教育」だって、もとはそこでしょ。だいたい、できない生徒をケアしつつ頭のいい子には知的欲求を満たすような授業をしたいって、どの教師だって考えるよ。でも、それがなかなか難しいんだよ。それに予算も人手も足りないから、家庭教師みたいにできるわけないしね。学校では自学自習を基本にすればいいとかいうけれど(P.93)、やらない子は本当に何もやらないよ。反転授業の最大の問題点だって、本人の性格や家庭環境によっては全然自宅学習をしてこない生徒がいることだよ。こんなの教員やってれば誰でも気がつくことなんだけどね。嘘だと思うなら実際に教師をやってみなよ。

     そう、いつも思うんだけど、学校教育についての本を書きたいなら、5年でもいいから教師をやってみればいいのにねえ。免許さえあれば、非常勤講師の枠なら結構あるし、けっして出来ないことではないよ。教師に社会経験を求めるなら、学者にだって教員経験を必須にしてほしいな。

  • <よい>教育とは何か?について、それは自由と自由の相互承認の原理を社会において実質化するための一手段である、という著者の歴史観・社会観を述べ、今後の公教育のあるべき制度・具体策の提案を行っている本。

    1992年以降徐々に諸々の価値観や社会の原理が変化しているため、新しい教育原理が求められている現代日本において、その改革の必要性、新しい教育の方向性、具体的な改革案やマイルストーンを分かりやすく提示し、新書で出版されたという点については非常に高く評価したい。

    学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」という柱の内容も、その実現においては力となるものであり、特に「既存の教育システムを大きく立て直すことなく可能な改革」というコンセプトは、私も現在練っている特に社会人へ向けた新たな教育構想を立てる上でも大きな示唆となった。

    しかし個別の議論についてはいくつか気になる点もあった。

    例えば著者は、「そもそも何のための教育か?」という共通了解の無いまま進む、昨今の「ゆとり教育是か非か?」などの二項対立的な議論を批判する。
    そのうえで人間社会の歴史を紐解き、人間には本質的に「自由」への欲求があるがための相互闘争状態を解決するためにヘーゲルが到達した「自由の相互承認」を社会の原理である、と規定した。
    この原理を実現するために「法」があり、それを運用していくために必要な力=教養を育む場として「公教育」が必要である、という主張。

    ここにおいて、「自由」という概念を何の検討もなく使用していることに違和感があった。
    一般人向けのため検討を割愛している可能性もあるが、そもそも人間は自由な存在なのか?という発想、特にスキナーのような行動分析学の分野などでは強くあるのは周知の通りだ。
    またここ十数年で脳科学、生物学や心理学の分野で「意思」についての遺伝子プログラムという観点からの統合が進んでおり、現時点で安易に「自由」を議論の原理に据えることは危険であろうと考えている。

    まだロジックを詰め切れていないが、私は社会(環境)に適応し生存を確かなものにするための生物的「欲求」として学問を捉えたいと考えている面があり、そのためにはその適応すべき社会(環境)が一体どのようなものであるかをできるだけ正確に「認識」する(させる)必要があると考える。

    そのうえで根本的に認め合うのは自由ではなく遺伝的素質(身体的、文化的)の多様性であり、そこを出発点として生物としての人間がどう共生していけるのか、を問える立場をこそ学んでいくべきではないか。

    ただ、既に歴史的・文化的に優生であるとして現在の世界に君臨する一部勢力が、既にその遺伝的優位を決定づけるための諸施策(食物添加物や薬品など)を通じて行っているという比較的有力な噂もあり、この視点からの議論は即座に閉塞する危険も伴う。

    しかし現実の人間社会というものの発展性を現実に即して見つめるためには必要な作業ではないだろうか。


    主な参考文献:
    自己が心にやってくる アントニオ・R・ダマシオ
    新・学問のすすめ 阿部謹也、日高敏隆
    遺伝子の不都合な真実 安藤寿康
    99%の人が知らないこの世界の秘密 内海聡

    ※書評に対する建設的なFeedbackをお待ちしています!
    ※新しい教育を検討している理由は、既に現在社会人となっている人々にこれからの社会に不足している要素と方法論を導くためです。勉強会の情報などありましたら是非お待ちしております。
    連絡先:yiwamotoy@gmail.com

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著者プロフィール

哲学者・教育学者。1980年生まれ。熊本大学大学院教育学研究科准教授。博士(教育学)。早稲田大学教育学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程修了。専攻は哲学・教育学。経済産業省「産業構造審議会」委員、熊本市教育委員のほか、全国の多くの自治体・学校等のアドバイザーを歴任。著書に『学問としての教育学』(日本評論社)、『「自由」はいかに可能か』(NHK出版)、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)、『勉強するのは何のため?』(日本評論社)、『はじめての哲学的思考』(ちくまプリマ―新書)、『「学校」をつくり直す』(河出新書)、『教育の力』(講談社現代新書)、『子どもの頃から哲学者』(大和書房)など多数。

「2022年 『子どもたちに民主主義を教えよう』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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