ニッポンの音楽 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062882965

作品紹介・あらすじ

Jポップ誕生「以前」と「以後」の45年を通覧する--

主人公の「物語=歴史」でディケイド(10年間)を解き明かす!
●70年代 はっぴいえんどの物語
●80年代 YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の物語
●90年代 渋谷系と小室系の物語
●ゼロ年代以降 中田ヤスタカの物語

一九六九年から始まる本書の物語は、「Jポップ」葬送の物語であり、ニッポンの寓話でもある。
章題記載の音楽家のほか、小沢健二、小山田圭吾、ピチカート・ファイヴ、
小室哲哉、安室奈美恵、つんく♂、Perfume、きゃりーぱみゅぱみゅ……etc.が登場。
日本のポピュラー音楽の歴史と現在を考える上で、もっとも重要な物語がこの一冊に!

<本書の内容>
第一部 Jポップ以前              
 第一章 はっぴいえんどの物語
 第二章 YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の物語

~幕間の物語(インタールード) 「Jポップ」の誕生~         

第二部 Jポップ以後              
 第三章 渋谷系と小室系の物語
 第四章 中田ヤスタカの物語

感想・レビュー・書評

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  • はっぴいえんど、YMO、渋谷系・小室系、中田ヤスタカ....と連なる40年以上の物語。
    最初のはっぴいえんどの章では、
    これまで何度もかすってきたことのある有名な
    「日本語ロック論争」のところでまたいろいろと考えることになりました。

    ロックという西洋音楽ベースの音楽形式には、
    当然のように歌詞に英語が乗っている。
    単語や文章そのもののリズム感や音、
    文章の末尾にくる音が日本語と違って一定ではないところが英語の特徴といえる。
    つまり、英語は日本語よりも不規則な音を発するもので、
    それが音楽的(西洋音楽的)だといってもいいかもしれないし、
    実際にそう言うひとはいます。

    僕は20歳過ぎくらいのときに(DTMで作曲していた頃です)、
    自分が日本語をネイティブとして育っていなかったら、
    はじめて日本語をきいたときの響きはどう聴こえるのだろう?
    ということをすごく知りたかった時期があります。
    それで、ある夜中ですが、独り暮らしの部屋の小さなテレビをつけっぱなしにしたまま、
    疲れて床にごろ寝した時、テレビから聴こえてくる日本語がその意味から切り離されて、
    音としてだけ耳に入ってきたように知覚できたことがありました。
    それは願望によって無理やりそう感じたような、
    ある種の妄想的な出来事だったのかもしれませんが、
    そのときの感想は、日本語の音って思っていたよりずっとやさしく、繊細で美しい、
    というものでした。

    ただ、それが音楽的なのかどうか。
    日本語が西洋的なポップスやロックのメロディや曲調に乗っかっておかしくはない。
    だけど、緻密で繊細なタッチで音程が上がり下がりする美点があるなかでのひとつの欠点は
    パンチが効いていないというところだと思います。
    と、まあ、ここは音としての部分であって、
    歌詞として聴いて意味に沁み入ったり、
    音符とあいまって単語が印象的に響いたり、
    そういうネイティブならではの効果って歌にはあるので、
    だからこそ、ずっと廃れずに日本語の歌が生まれ続けているんだろう、と
    結果からもわかるといってよいのではないでしょうか。
    (日本語ロック論争についていまさら意見を書くと、蛇足感がとてもあります……)

    本書では、日本語の「ロック」として、
    はっぴいえんどが嚆矢であったことから始まっていきます。
    (当時のミュージックマガジンでははっぴいえんどは断トツの評価を得ていたそうですが、
    メジャーな世界ではどれほどのものだったのかはよくわかりません)
    キーワードは「内」と「外」です。
    邦楽と洋楽といってもいいです。
    本書でメインに取り上げられた、
    はっぴいえんどやYMOのメンバー、
    そして小室哲哉、渋谷系の面々、中田ヤスタカ。
    彼らに一様なのは、とくに外のものに通じた弩級の音楽マニアであったということです。
    著者はこれを、リスナー型ミュージシャンと名付けていて、
    いわゆる歌手のように歌がうまくないけれど味わいはある、
    などの特徴を書いている。

    そういったマニアやフリークたちに切り拓かれてきたのが
    日本の軽音楽世界なのでした。
    経済の発展やテクノロジーの進歩によって、
    「内」と「外」の格差や時空間差がなくなった現在、
    この先はどうなるのか。
    そこもやはり、リスナー型ミュージシャンが
    世界を作っていくのかなあという気が僕にはしました。

  • J-POPの歴史について分析した一冊。
    はっぴぃえんど、YMO、渋谷系、小室哲哉、そして中田ヤスタカと連なる系譜について丹念に解説している。

    半面、キャロルズ、チェッカーズ、BOφWY、Xなどのバンド系は全く出てこず、若干消化不良の感が。

  • はっぴいえんど、YMO、渋谷系・小室系、中田ヤスタカと日本のポップミュージック史を4つの時代に区切って論じている本。僕自身の音楽史観と同じなので、内容には全く同意。

  • 60年代末から現在に至るまでの日本のポップスの変遷。
    よくある歌謡曲論ではない。「ロック」のありようの話。日本語はロックに載るのか?と言う論争は昔からあった。
    サザンが出てきたときには遂にこの問題にも終止符が打たれるのか!?と思ったが「何言ってるのか判らない」と言う意見も多く(谷村新司も、今何時?そうねだいたいね~、が文脈から繋がらず聴き取るのに苦労した、みたいなことをヤングタウンで言っていた)決着がつかないまま現在に至る、という処かしらん。
    勿論主題はそれだけではなく、如何にロックは日本に取り込まれてきたか?を時代ごとにアーチスト1名にスポットをあてて説明している。
    70年代の「はっぴいえんど」、80年代は「YMO」、90年代は「小室系と渋谷系」、00年代は「つんくプロデュース」、現在は「パフューム」が説明されていたけどプロデューサーは聞いたことが無い人だった、。時代を担う人物も随分小粒になってきている気がする。
    日本のロックには興味が無かったせいもありYMO以降の歌謡曲の範疇でしか動きを知らないし実感もない。世の中的には70年代は歌謡曲の時代、80年代はディスコの時代(ディスコでライディーン掛かってました)、90年代はまさしく小室の時代、00年代以降はなんだったんだろう?大きな波は無かったような気がする。
    読み物としては面白いし一つの切り口としても興味深い。「はっぴいえんど」や「大瀧詠一」はレココレでも特集してたね。「YMO」も特集してくれないかな~。

  • はっぴいえんど、YMO、渋谷系と小室系、中田ヤスタカを中心に日本のポピュラー・ミュージックの歴史をたどる。

    1970年代から2010年代にかけて、「外=洋楽=欧米」と「内=邦楽=日本」の関係がどのように変化していったのかという点に焦点が当てられている。(上記のミュージシャンはみな、まだ聴いたことのない音楽を追い求める「リスナー型ミュージシャン」であった)

    本書で引用されているインタビューにおける、「日本では音楽性よりもキャラクターで売れる」という細野晴臣の指摘は核心を突いている。

    「多くの人が、音楽ではなく歌詞の方に感情移入していることに還暦近くになって気がついた」という坂本龍一の発言に共感を覚える。

  • はっぴぃえんどとか言う聞いたこともない謎のバンドを起点にJPOPの歴史を語る一冊。これは調べてみるとはっぴぃえんど史観というらしい。音楽的な独自性の観点から見るとそういう歴史になるのだろうか。しかし明らかにより知名度のあるな演歌、歌謡曲、初期アイドルなどのテレビで語られるような曲を完全に無視しながら、ニッポンの音楽というタイトルを掲げるのはあまりにも大仰だ。(他にも雅楽とか明治大正期の作曲家とかどこに行ったんでしょう?)
    リスナー型ミュージシャン云々の話も自分と製作者の共通点を見出して悦に入っている感じもある。
    いわゆる「音楽批評」が好きな人向けの本なのだろう

  • 恐らく、それぞれの年代を代表させるのに、YMOやはっぴいえんど、ピチカート・ファイヴを持って来るのに、多くの音楽リスナーは不満を覚えるであろう。
    しかし、はっぴいえんどやYMOの項は面白く読んだ。
    が、以降、僕が興味がないのを割り引いても明らかにトーンダウンしていると思う。
    はっぴいえんどから小室哲哉へのJ-Popを貫く流れは、この本では全く触れられていないが、天才少女と持て囃され、はっぴいえんどらのメンバーらと手作り感漂う良曲を発表しつつ、いつの間にか、売れる曲、ブームになる曲しか興味が無くなった感のあるユーミンこと松任谷由実の歴史と機を一にすることが理解できた。

  • 1970年8月 はっぴいえんど「はっぴいえんど」
    1971年11月 はっぴいえんど「風街ろまん」
    1972年5月 井上陽水「断絶」
    1972年11月 大瀧詠一「大瀧詠一」
    1973年2月 はっぴいえんど「HAPPY END」
    1973年5月 細野晴臣「HOSONO HOUSE」(バック:キャラメルママ)
    1973年11月 荒井由実「ひこうき雲」(バック:キャラメルママ)
    1973年12月 井上陽水「氷の世界」
    1974 サディスティック・ミカ・バンド「黒船」
    1975年4月 シュガー・ベイブ「SONGS」(大瀧詠一プロデュース)
    1975年6月 細野晴臣「トロピカル・ダンディー」
    1975年11月 ティン・パン・アレー「キャラメルママ」
    1976年3月 「NIAGARA TRIANGLE VOL.1」(坂本龍一がアレンジャーなどとして参加)
    1976年7月 細野晴臣「泰安洋行」
    1977年9月 ティン・パン・アレー「TIN PAN ALLEY 2」
    1978年4月 細野晴臣「はらいそ」(「ファム・ファアール~妖婦」を坂本と高橋が演奏)
    1978年5月 細野晴臣、鈴木茂、山下達郎「パシフィック」(「コズミック サーフィン」を坂本と高橋が演奏)
    1978年6月 高橋幸宏「サラヴァ」
    1978年10月 坂本龍一「千のナイフ」(松武秀樹が参加)
    1978年11月 YMO「イエロー・マジック・オーケストラ」

    小室哲哉は、小学6年生の時の大阪万博で冨田勲の作品に衝撃を受け、中学生でシンセサイザーを購入。1980年にSPEEDWAYに途中参加。1984年にTM NETWORKとしてデビュー。1992年に誕生した「TK RAVE FACTORY」の略であるtrfの総合プロデュースを担当。

  • 音楽

  • とても面白かった。

     自分はそこまでマニアックに音楽を聴いているわけでは無いけれど、それなりに聴いている方ではあると思ってる。本書で取り上げられているミュージシャンも、いちおう全部聴いたことはある。
     とはいえ、それはまあ、普通、よりもちょっと多く聴いている、程度だとは思う。本書で取り上げられているミュージシャンの周縁には、何層にも分かれた円環が広がっているのだし、取り上げられなかったジャンルも沢山あることも知っている。
     そのような前提で感想を書くと、60年代から現代(のちょっと前)に至る「ニッポンの音楽」の総括として、とても良くまとまった、道標として、またマイルストーンとして秀逸な一冊に仕上がっていると感じた。

     もともと、著者のレーベルであるWETHERの(あまり優秀ではないものの)ファンでもあり、著者の音楽への審美眼というか「良い音楽を発掘する」能力は確かなものだと思っているので、そういう視点でも本書は面白かった。

     とりあえず、最近(本当に、1週間とかそれくらいフレッシュ)自分がハマったパスピエを、著者に語ってみて欲しいな、と思った。本書の感想とは離れてしまうけど、パスピエの音楽性は(現時点に於いて)本書の延長線上として語られるに相応しいと思う。ニューウェーブと演歌的歌謡曲をミックスし、オリエンタリズム(というよりジャパナイゼーション?)とディスコサウンドのエッセンスを振りかけ、小室哲哉の延長線上とも言うべき四つ打ち系ロック風味で仕上げる、みたいな。初期作品群には、よりメロディアスだったり、ノスタルジックだったりする楽曲も散見され、個人的には、そちらの路線もかなり好きなんだけど、本書の延長線上として、そういう部分について読んでみたい。

     だいぶ脱線したけど、昨今の音楽業界の潮流的に、いまが「一段落」であることはきっと間違いない気がする。そんないまだからこそ、一読する価値のある一冊かなと思った。

  •  タイトルを見ると日本の音楽史を通観した本のように思えるが、実際には扱っている範囲は1960年代末から現在まで。このタイトルは、同じ著者の『ニッポンの思想』の続編(音楽編)として構想されたがゆえのものだ。

     佐々木敦もいまや早稲田大学教授だが、『シティロード』などで彼の書くものを昔から読んできた人間にとっては、音楽(&映画)評論家というイメージが強い。
     私にはむしろ、彼が『ニッポンの思想』のような本を出すことのほうが意外だった。本書には、本来の専門分野に立ち返った印象がある。

     過去45年間の「日本のポピュラー音楽の歴史」を、「『Jポップ』という言葉が登場する『以前』と『以後』に、大きく二分割して論じ」た概説書である。

     いくらでも長大になり得るテーマを新書1冊に収めるのだから、枝葉はバサバサ切る必要がある。
     そのために著者が選んだ方法は、章ごとに一つのディケイドを扱い、各章に「主人公」にあたるアーティストを設定する、というもの。章立ては次のようになっている。

    第一部 Jポップ以前
    第一章 はっぴいえんどの物語
    第二章 YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の物語
    ~幕間の物語(インタールード) 「Jポップ」の誕生~
    第二部 Jポップ以後
    第三章 渋谷系と小室系の物語
    第四章 中田ヤスタカの物語

     ご覧のとおり、第一章は「はっぴいえんど」を主人公に1970年代を扱い、第二章はYMOを主人公に80年代を扱う……という具合になっているのだ。
     ほかのアーティストにも随時言及はされるが、「主人公」との関連の中での言及に、ほぼ限られる。

     ディケイドを象徴し得るアーティストに的を絞ることで、そのディケイドの「流れ」を浮き彫りにする、という手法を著者は選択したのだ。
     この手法は十二分に成功していると思う。総花的にいろんなアーティストを取り上げ、「こんなのもいた、あんなのもいた」とやって時代を映し出そうとするより、よっぽど気が利いている。

     「第二章 YMOの物語」はYMO論としても出色だし、中田ヤスタカについて論じた最終章も、音楽の作り方自体が昔(1970年代あたり)とは根本的に違っている「いま」を浮き彫りにして、目からウロコ。

     『J-POP進化論』(佐藤良明)など類書も多いが、管見の範囲では本書がいちばんわかりやすく、出来がよいと思う。

  • ここまで考察できる熱量に脱帽。思惑や狙いって本人でさえ分かってない場合もあるけど他者の深読みは面白い。ベクトル変えて違う文脈から語られる音楽批評も読みたくなった。

    あくまで本著は大枠で簡潔なJPOP以前/以後の歴史、はっぴいえんど〜YMO〜渋谷系(フリッパーズギター・ピチカートファイヴ)〜小室哲哉〜中田ヤスタカの話。
    例えば、小室哲哉の項ではプロデュース全盛の同時期に幅を利かせていた小林武史や奥田民生、つんく♂に関してはほぼ触れられていない。そういう意味では、時代を変えたと言える人が登場しているのかも。サザンの日本語ロックへのドロップキック他80年代アイドルや歌謡曲等には焦点が当てられていないのはそこまでの余白がなかったのだろう。全ての主要邦楽シーンをカバーして論じている猛者がいたら教えてほしい。

    印象に残ったのは、中田ヤスタカと坂本龍一の対談の一部が引用された箇所。歌詞の意味は重要視せず音の響きで詞を作る、歌詞が耳に入ってこないタイプだ、と。自分も歌詞よりメロディやリズムに入り込むから、そして歌詞の話に共感できないことに後ろめたさや疎外感を感じていたから、少し安堵した。そういう聴き方してもいいよね。

  • 20180826

  •  図書館で借りてきた本。
     大仰なタイトルだが、1969年以降、現在(2014年当時)までの日本のポップミュージックについての書物。しかも歴史叙述や概観ではなく、何組かのアーティストに絞って書かれている。取り上げられているのは「はっぴいえんど」、YMO、ピチカート・ファイヴ、小室哲哉、中田ヤスタカがメインである。
     これらのミュージシャンについて、プレイヤーであるよりもむしろコンポーザー/アレンジャー的な気質が強く、更にそれ以前に、重度の音楽ファン、レコードマニアであるという特色に基づいて語られている。この場合彼らがたくさん聴いているのは外国の音楽ということらしい。
     従って著者が本書で筋道をつけようとしているのは、海外の音楽を愛聴しそこから自分たちの音楽を、自分たちの文脈のなかで生成しようとしたミュージシャンたちの歴史、日本の「外」と「内」の物語だ。
     もちろんそのようなテーマでは、幾らピックアップ対象を絞ったとは言え、新書1冊で語り尽くすのは不可能だ。そのため本書は、ミュージシャンたちの物語をエピソード的につらねた読み物ではあっても、統一テーマを突き詰めた批評にはなっていない。
     おもうに日本文化は集合的自我としての「日本人」への帰属・主体回収が根強いため、このように「内と外」がいつまでも問題となってきている。そうであるがゆえに、その文脈の中からでは、海外で通用する作品がなかなか出てこないという症状が露わになる。ひとつには単純に言語のせいでもある。本書もそのような病症を前提として書かれているように思えた。
     この本の中では、YMO時代の細野晴臣のインタビュー中の発言が印象的だった。
    「キャラクターで売れてくる国だな、という感想を持ったことがありますね。最初は顔を隠して、匿名性を徹底してやろうと思っていた意志が崩されて、一人ひとりキャラクターとして扱われだして、どうしても顔が出ていっちゃう。」(P.119)
     この「キャラクター主義」が日本的集合自我の特徴であることは確かだ。音楽そのもの、作品そのものよりも、キャラクターによって評価され、受容される。これが日本独特のアイドル文化や、ゴシップによりマスコミが個人を一斉にたたくヒステリック状況に現れたりするのだ。

  • 図書館がおくる、「クラブ・サークル向けおすすめ図書」

    クラブ・サークル名 軽音楽部

    請求記号:K-2296 講談社現代新書
    所蔵館 2号館図書館

  • 1960年代末から現在に至るまでのJポップの大きな潮流を語った本です。ただしとりあげられているアーティストは、はっぴいえんど、YMO、シブヤ系と小室系、中田ヤスタカと非常に限られており、著者自身の観点からJポップの大きな流れをえがきだすことがめざされています。

    選択が偏っているという印象もたしかにあるのですが、Jポップの半世紀近くの歴史を現在から振り返ってそこに大きな流れのようなものを見いだそうとしたとき、著者の選択もまったく恣意的なものとはいえないのではないか、という気もします。ただ、ハロプロやPerfumeはむろん「ニッポンの音楽」であるとはいえ、アイドル史の観点から考察するべき対象で、「ニッポンの音楽」の歴史のなかではメイン・ストリームとは言い難いようにも思います。むろん、未知の音楽を追い求める「リスナー型ミュージシャン」が失敗し続ける「物語」としてJポップ史をえがこうとする著者の観点から、これらの「現象」に注目されるのも、それなりに理解はできるものではあるのですが。

  • 小林信彦の『日本の喜劇人』のような私的だけど正統的なJ-POP史。教えられること多かったです。

  • 『邦楽』から『Jポップ』へといつの間にか名前を変えたニッポンの音楽について、Jポップが生まれ落ちたメルクマールを軸にそれ以前と以後に分けて45年間を通覧するという本である。

    その手法として本書では45年間にわたる国内の音楽史を紐解くという通史的な手法は取っていない。
    主に60年代末から70年代。70年代末から80年代。80年代末から90年代。90年代末からゼロ年代、そしてテン年代とされる現在まで、それぞれの10年間(ディケイド)において、『ニッポンの音楽』に少なからぬ影響を与えたであろう『主人公の物語』として、各年代における『ニッポンの音楽』の在り様、変容を通覧するという作りとなっている。

    面白いことに、というかメルクマールとしている以上狙いもあるのだろうが、この40~45年に渡る通史の中のちょうど真ん中に『Jポップ』なるものの言葉の誕生が登場する。
    したがって『Jポップ』前の20年、その後の20年という括りで『J』なるモノが思想、文化になにをもたらしたのか?文化的条件が出そろったから『J』になったのか?そのあたりに興味があり、本書を手に取ってみたのである。

    著者は中田ヤスタカに代表される「内」と「外」をリアルタイムで同期させるオールインワン型のミュージシャンの登場をもって、リスナー型ミュージシャンの完成系、そして「内」と「外」という文化的枠組みと「過去」と「現在」という時間軸の消滅によりJポップは葬られたとする。

    ここにボクは『ニッポンの音楽』には描かれていない、日本的変容を遂げながら、時代時代を奏でている『日本の音楽』の存在を再認識せざるを得ない。
    あれだけ業界、聴衆を巻き込み、90年代に空前の音楽産業の好況を招いた『Jポップ』がその終焉を迎えたからといって、日々リリースされていく現在の日本の音楽は、ではいったいなにものなのだろうか?

    J-WAVEがそのポリシーを曲げてまで国内の音楽を内包化させるために生み出した方便である『Jポップ』も著者が定義する『ニッポンの音楽』としてのJポップは終焉を迎えたのかもしれないが、相変わらず市井に『Jポップ』という言葉は存在する。

    『Jポップ』という概念もまた、極めて日本らしい日本的変容を重ねて大衆化されてしまったからこそ、著者は終焉としたのではないだろうか。

    そういう意味では、本書の対象はボク的には非常に関心を持ち続けてきたアーティストであり、読み物としてはとても面白いが、日本の音楽における歴史観・文化批評という面では非常に偏っていると思わざるを得ない。

    本書であえて触れられていない、昭和歌謡やフォーク・ニューミュージック(ともに一部触れられてはいるが本書の本質ではない)、それに昭和のアイドル歌謡とバンドブーム。昨今のアイドルグループ全盛等々の大衆音楽の位置づけはどうなのか?

    そしてボクがなにより気になる日本語の節。
    5・7・5・7と気持ちよく詞が沁み込んでくるときの日本語の節の特徴。
    古代万葉の時代から綿々と受け継がれてきた、日本という土地と季節と風景に裏付けられた日本独自のリズムと抑揚が、どのように現在の日本の音楽に受け継がれてきたのか?
    時代時代の「外」の文化を取り入れた日本的変容がどういう形で表現されてきたのか?

    むしろ、著者が『ニッポンの音楽』の対象としていない、日本の音楽におけるメインストリームである大衆音楽のアーティストが歌い、奏でる音楽と『日本』という関係性の分析こそ、『日本の音楽』というべき文化批評足り得るのではないだろうか?

    といっても、「新書」という限られたパッケージであるので、限られた字数で特徴的なモノをまとめないと中途半端に終わってしまうというのもよくわかるのだ(笑)
    そういう意味で、前書きである意味言い訳をしてるんでしょうけど(笑)

  • 2016/1/14購入
    2016/2/1読了

  • おもしろかった。70年代からゼロ年代のそれぞれのディケイドを「はっぴいえんど」「YMO」「渋谷系・小室系」「中田ヤスタカ」の4つの物語として構成し、日本のポップミュージック史を描く。横軸に「海外と日本の音楽シーンの関係性」を据えることによって、実にわかりやすく読み応えのある「物語」を提供してくれている。

    ただ、菊地成孔もそうだけど、現代思想にも通じつつ音楽史を書く人は、歴史を「物語」であると前提にしたうえで叙述を進めていく傾向があるように思う。そのエクスキューズは、はたして必要なのだろうか。多様な音楽があるなかで、いくつかのものをピックアップして叙述する言い訳に「物語」ということばを使っているような気もする。

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著者プロフィール

佐々木 敦(ささき・あつし):1964年生まれ。思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。芸術文化の諸領域で活動を展開。著書に『増補・決定版 ニッポンの音楽』(扶桑社文庫)、『未知との遭遇【完全版】』(星海社新書)、『あなたは今、この文章を読んでいる。』(慶應義塾大学出版会)、『ゴダール原論』(新潮社)、『ニッポンの文学』(講談社)、小説『半睡』(書肆侃侃房)ほか多数。


「2024年 『「教授」と呼ばれた男』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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