- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062901284
作品紹介・あらすじ
独自の文化の基層をもつ美ら国・沖縄。また、戦争・占領・基地に、今なお翻弄される沖縄の心を鮮烈に描出する秀作短篇十。
感想・レビュー・書評
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1972年5月15日は沖縄にとって特別な日である。27年におよぶアメリカの統治が終結し、沖縄県が日本に復帰した日なのだ。琉球、日本、アメリカと歴史の波に翻弄され続けた沖縄の歴史を象徴する日だと言える。以来、沖縄では毎年この日に記念式典が行われている。
それから40年。幾度かの沖縄ブームを経て、沖縄は国内でも有数の観光地として大きな脚光を浴びるようになり、陰惨な戦争の記憶は表面上は完全に払拭されたかのように見える。しかし沖縄県民の心の中に刻み込まれたあの「記憶」は消え去ってはいない。
今年沖縄タイムスと朝日新聞が共同で行った世論調査によると、『沖縄の米軍基地が減らないのは本土による沖縄への差別だと思う』と答えた人が、沖縄では50%に上ったそうだ。
これについては沖縄県内でも様々な意見があったに違いない。未だに被害者意識を持っているのか、そんな事言ってないで次のステップに歩み出すべきだ。想像だが、そんな意見もあるに違いない。当然だろう。
しかし個人的には、基地問題が「沖縄の問題」と認識されている以上は差別だと見なせると思う。沖縄県民は日本国民なのだ(40年前に日本に復帰したのだから)。しかも米軍基地は国防上の案件なのだ。だから基地問題は日本の問題なのである。
そんな事を考えがちな5月の時期に、『現代沖縄文学作品選』を読了した。文学を通して沖縄という地を見つめ直す事ができるかも知れない。収録作品は下記の通り。
「鱶に曳きずられて沖へ」(安達征一郎)、「K共同墓地死亡者名簿」(大城貞俊)、「棒兵隊」(大城立裕)、「ダバオ巡礼」(崎山麻夫)、「見えないマチからションカネーが」(崎山多美)、「伊佐浜心中」(長堂英吉)、「カーニバル闘牛大会」(又吉栄喜)、「軍鶏(タウチー)」(目取真俊)、「鬼火」(山入端信子)、「野宿」(山之口貘)
以上10編が収められている(収録順)。娯楽度の高い小説はなく、いわゆる「文学」として完成度の高い作品が選ばれている。幻想的なものから圧迫的な現実を描いた作品まで様々だ。
今年32歳になる僕でも、それぞれの作品に戦争や米軍統治など沖縄が経験してきた歴史の痕跡を見出す事は容易だ。しかしそれを掘り下げるには壮絶な運命の転換を目撃してきた沖縄の先人たちの心象に思いを馳せなくてはいけないし、それは「復帰」後に生まれた我々には容易なことではない。
だから、巻末に付された編者による解説は沖縄文学に対する理解を深める上で欠かせないものだ。沖縄文学とは何か、という根源的な問いから出発する解説である。
曰く『琉球語や琉球文学の伝承を否定するところから、沖縄の近代文学は始まった』としつつも、『つまり、沖縄の近代小説とは、表面的には日本語、日本的なものに服属しながら、自分たちの“沖縄”性を断ち切れないところに、危うく成立するものにほかならなかった』としている。この示唆は大きな意味を持つものだろう。沖縄が自らの存在意義についてすら問い直すようなものだと思われる。
非常に興味深い解説であるが、紙幅の関係か全体的に駆け足気味なのは少し残念ではある。
実は編者は同文庫で『現代アイヌ文学作品選』も編んでいる。北と南の辺境文学というのを比較するのも面白い試みかも知れない。
ところでまったくもって個人的な余談なのだけど、この本の最初に収録されている安達征一郎が、あの「少年探偵ハヤトとケン」シリーズの安達征一郎だと知ってものすごくびっくりした。子供のころ夢中になって読んだシリーズである。その作者がこんな作品を書いていたとは、不勉強でまったく知らなかった。こういう驚きも得られたのは違う角度で貴重だった。
まあそれは置いといて、そんな訳で沖縄の人たちは今も自分たちの在り方について思い悩んでいる。それは他の都道府県の人たちが抱える自己存在認識の問題とはまた違った悩みなのだろう。自分たちは「日本人」なのか「沖縄人」なのか、それとも……。明確な答えが出せないまま40年が経った。沖縄文学はそんな沖縄が書き綴った記録であり、沖縄自身の自伝でもあるのだろう。だとしたら……我々が自らのアイデンティティを探る上で文学はとても重要なものなのかも知れない。文字という媒体を通じて鮮烈に描かれる沖縄史は、沖縄の人には自己を見つめ直すきっかけを提供し、それ以外の人たちには表現し難いほどの独特な風土の文学を突き付けるだろう。どう感じるかは人それぞれである。
収録作品はみな多少なりとも沖縄の方言(琉球語)を取り入れているが、沖縄女性の口語体で書かれ、注釈すら無い崎山多美の作品などは、沖縄県外の人には読む事さえ一苦労なのではないだろうか。沖縄の人ならすらすら読める非常に読みやすい文体なのだが(舞台の脚本を読んでいるようである)。ちなみにこの作品、最後に驚きの展開があるので気が抜けない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
迫力のある作品が多く載録されている。
特に「K共同墓地死亡者名簿」「軍鶏」には引き込まれずにはいられなかった。 -
【琉球大学附属図書館OPACリンク】
https://opac.lib.u-ryukyu.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB0620236X -
編:川村湊、解説:川村湊、守屋貴嗣
鱶に曳きずられて沖へ(安達征一郎)◆K共同墓地死亡者名簿(大城貞俊)◆棒兵隊(大城立裕)◆ダバオ巡礼(崎山麻夫)◆見えないマチからションカネーが(崎山多美)◆伊佐浜心中(長堂英吉)◆カーニバル闘牛大会(又吉栄喜)◆軍鶏(目取真俊)◆鬼火(山入端信子)◆野宿(山之口貘) -
沖縄県の歴史を調べると、日本史でも学ぶ機会は多いが、まず江戸時代よりも長く続いた琉球王国が存在し、独自の統治を行っていた。当然言語も異なっている。その後日本による侵攻が進み、沖縄県へと名を変え、教育を施され、言語が変わった。戦争が始まり、戦場と化し、挙句には統治がアメリカに変わる。27年を経て日本へと帰属することになる。そして現在はその45年後となる訳だが、様々な文化が入り乱れ、落ち着く事を知らなかった近代。ここ10年の間でもアメリカ軍基地の移転問題がどっちつかずから、やっと最近になり強制的に調査が入った。他にも中国漁船が領海へ侵攻、更には珊瑚の密猟などが話題に登っていた時期もあった。
歴史や政治的な観点から見ると穏やかな時期は少ない様に見える。一部ではデモの動きから左翼が多いなどとも耳にする。人々の生活は、仕事が少なく昔と呼ばれる時代ほどでは無いが出稼ぎや単身赴任などが少なくないと沖縄出身の方から話しを聞いたことがある。
さて、そんな現在に至るまでの戦中・戦後の時代をピックアップした文学と呼ばれる短編小説集が本書である。
収録作品は、他の方も載せてられている通り、
安達征一郎「鱶に曳きずられて沖へ」
大城貞俊「K共同墓地死亡者名簿」
大城立裕「棒兵隊」
崎山麻夫「ダバオ巡礼」
崎山多美「見えないマチからションカネーが」
長堂英吉「伊佐浜心中」
又吉栄喜「カーニバル闘牛大会」
目取真俊「軍鶏」
山入端信子「鬼火」
山之口貘「野宿」 (収録順)
以上十人の作家による十の話となっている。
本書の編集者が短めではあるがそれぞれに解説もしているため、自分が読んで印象に残ったものだけ取り上げることにします。
安達征一郎「鱶に曳きずられて沖へ」
文学作品と呼ぶのかは少しどうなんだろうと感じたものの、短い中で勢いと最後の静寂までの展開は息を飲む展開でした。ちなみにタイトルにある鱶(ふか)とは大きなサメの俗称です。
大城貞俊「K共同墓地死亡者名簿」
個人で、沖縄の戦争で亡くなった人の情報を集め、亡くなった方を遺族のためにと墓地を管理し続け、親からその作業を引き継ぐと共にどこから話しを聞いたのか、遺族が訪ねてくる。死と向き合うために動き、周囲からの人からは共感は得られなかったものの、遺族からしたら、形があるだけありがたい。東日本大震災の津波で未だに遺体が見つからず探すという報道を目にする時、この話しを今後も自分は連想すると思います。
山入端信子「鬼火」
子供を身ごもった母親が水死した事を自覚しながら、お腹の子供と会話し、死ぬまでの回想を行う。日本らしい妖怪や民話と似たベクトルの幻想小説だと感じました。
北海道に長らく住み、沖縄の地は一度も踏んだことが無く、行ったことがある人や暮らしていた人から現在やかつての話しを聞く程度にしか知らないため、本書を読み、観光名所が多く、最近は異国の生物が入り込み生態系が乱れているとの話しも聞きますが、機会があれば、重たい歴史も直に見つめてみたいという思いを抱き、また同じ編集者が「現代アイヌ文学作品選」というものも関わっているとのことで、機会があれば是非読んでみたいものである。 -
沖縄作家の作品がまとまっていて読み応えあった。