道徳教育論 (講談社学術文庫)

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制作 : 麻生 誠  山村 健 
  • 講談社 (2010年5月12日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (480ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062919920

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道徳教育論 (講談社学術文庫)の感想・レビュー・書評

  • [メモ]当時のフランスにとって、宗教と道徳は混じり合っているために、道徳の世俗化を実行する際には、道徳をただ宗教から分離すればよいというだけの話ではなかった。宗教に代わる土台が必要であって、それこそが「科学」だとデュルケムは述べている。(道徳を科学的に分析すれば、そこから“社会”という実体をもち、人々を外在的に操作する複雑な集合表象に辿り着く) 道徳を科学的に(物のように)分析すれば、そこから「規律の精神」「社会集団への愛着」「意志の自立性(道徳を理解する知性)」という主要な要素が導き出される。これらが道徳教育の基礎に据えられることを強調する。また教育の手法としては、教師の権威を拠り所としつつ、罰・学校の共同生活・科学教育・歴史教育によって子どもたちに道徳を植え付け、理解させ、自律的に行動させる。

     文中においてデュルケムは「いじめ」に関して、それは子供たちの中にある道徳がいまだに未熟であるから、ということを言っていた。が、ここで「教室」のことを再び考えるつもりもなく。とにかく思ったのは、道徳は集団生命存続のための理法の一つなんだろうが、一方で社会集団の内部に多層に織り込まれた差別・排除(いじめとかも)もまたその理法の一つだということ。内心としては高尚な道徳を子どもたちに理解させることによっても排除の動きを相殺することはできないだろうと思う。だがしかし、それでもなお道徳の可能性を信じ、未来の人間教育への指針を示そうとする本著作は、デュルケムの情熱が溢れ古典の名にふさわしいと思った。

  • 教育学の古典としても読めるが、個人的にはカント『実践理性批判』の第二部、純粋実践理性の方法論で語られていたことの補完として読んだ。
    また、その前提となる「道徳」についての概念分析が非常に面白く、個人的にはそちらのほうが気になった。
    解説によれば、デュルケムのまとまった「道徳論」はこれであり、作成中だったものは死によって完成することはなかったという。(解説459頁)
    その「道徳」については、非常にカントに依る部分が多いのではないか。まず分析の方法論は「われわれが道徳の名で呼ぶところのものの総体は何か、それはいかなる性格をもつか、(中略)道徳を一つの事実として観察することから出発」(73頁)している。これはカントの「道徳形而上学原論」における帰納的方法に近似している。
    そして道徳の一つの要素として「行為を前もって決定しているところの規則体系」(74頁)であるとし、この規則は「行動の単なる週間ではなく、個人の勝手な修正を受け付けない行動の規範」だという。そしてこの規則概念は、権威の概念を有しており、「われわれに優越するものとして認められる一切の道徳力をわれわれの上に振るうところの支配力」(82頁)として立ち現れる。また、この規則、すなわち道徳律への尊敬は「行動のいっさいの結果を別にして、われわれは従わねばならぬがゆえに従い、服せねばならぬがゆえに服する」(84頁)ことを要求する。このように道徳律は命令として、その事実のために従われることになる。
    この道徳律は「内部の衝動に駆られて欲望のおもむくままに振る舞うことではなく、努力をもって行動することをわれわれに教え」、更に「ある種の傾向を制限することを含まぬ行為は、道徳的行為ではない」とする。これはカントが傾向性と適法性が一致しても、それを道徳的行為とは言えないとすることに通ずるものがあるのではないか。
    この後も道徳的内在主義を否定し、道徳は個人の内面ではなく非個人的・超個人的な部分=社会(と同時に自発的に従おうとする姿勢も必要である)にこそあるとしているなど、相似点をあげるのには暇がない。
    もっとも、そのような読み方(デュルケム理解もカント理解も未熟な人間の)に何の意味があるかはわからないが、デュルケムがカントの影響を受けていたことは間違いないようだ。(解説454頁)
    カントは方法論の中で「純粋実践理性の法則を、どのようにして心の格率に取り入れるか」というのを検討していたが、文量的にも内容的にも不十分という印象を受けた。もちろんそれはカントの仕事ではないと言われればそれまでだし、そのことによって断罪するつもりは全くないが、このデュルケムがその補完的役割に留まらない大きな知見を与えてくれたと感じた。

  • 新書・文庫 371.6||デユ

  •  1902〜03年、ソルボンヌで行われたデュルケームの道徳教育講義。
     当時背景として、宗教からは独立したものとしての道徳観が求められ、そのスタンスでの道徳教育を論じなければならなかったようだ。
     この本は第2部として学校教育(どうやら小学校でのそれのようだ)における道徳教育の手法が論じられているが、私は教師ではないし、むしろ前半、第1部の道徳そのものについて論じた部分に興味をひかれた。
     デュルケームは「社会」をそれ自体ひとつの(人格的な!)実在として前提し、道徳の源泉をそこに置いている。
     彼によると道徳性の主要素は「規律」「社会集団への愛着」「道徳を理解する知性」の3つが挙げられる。道徳は命令、あるいは「禁止の体系」であるが、この「規律」なるものは社会構造の秩序と同一視されている。
    「変化と多様性を好むあまり、あらゆる画一的なものを嫌悪する者は、道徳的欠陥者になるおそれが多分にある。」(p.88)
     このようなものの見方は、少なくとも20世紀後半以降の世界には通用しなかったはずだ。
     デュルケームの「社会」は、一個の実体として文法上の主語になりうる存在者であるが、価値観が多様化し「社会」が疲弊したこんにち、社会はなるほど1個のゲシュタルトとして今なお成立しているとは言え、それは多角的パースペクティヴにあってはいとも容易に崩壊してしまう。
    「秩序」はあまりにも複雑化してしまったため、それが首尾一貫したものであるとは、もはや誰にも思えない。「社会」はすでに、ひとつの存在者というよりも、ひとびとの頭上にある、さまざまな情報やニュアンスが渦巻く、得体の知れない何かである。
     こう考えると、デュルケームの「道徳」は現在もなお生き残りうるかというと、厳しいものがあるだろう。
     それに、テレビの普及時にマーシャル・マクルーハンが指摘したように、いまや子どもたちを教育している主な存在は、学校の教師ではなく、メディアである。ルソーは外界を完璧に遮断した特殊な密室の中で、理想的な教育を営むことができるだろうと夢想したが、夢のまた夢という感じだ。
     今なお、「教育論」は可能なのだろうか?

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道徳教育論 (講談社学術文庫)の作品紹介

宗教に依拠せず、自律した個人を確立する道徳教育とは-。『自殺論』『社会分業論』で実証的社会学を創設したデュルケムは、「規律の精神」と「社会集団への愛着」こそが道徳性の主要な要素であると説く。学級と教師の役割、体罰の禁止、科学教育の必要性など、現在の「教育問題」になお力強い方向性を与える、二十世紀初頭のソルボンヌでの講義録。

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