- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087200850
作品紹介・あらすじ
「わからない」ことが「恥」だった二十世紀は過ぎ去った!小説から編み物の本、古典の現代語訳から劇作・演出まで、ありとあらゆるジャンルで活躍する著者が、「なぜあなたはそんなにもいろんなことに手をだすのか?」という問いに対し、ついに答えた、「だってわからないから」。-かくして思考のダイナモは超高速で回転を始める。「自分は、どう、わからないか」「わかる、とは、どういうことなのか」…。そしてここに、「わからない」をあえて方法にする、目のくらむような知的冒険クルーズの本が成立したのである。
感想・レビュー・書評
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作者の言いたいことは、僕なりに砕くとこういうことになると思う。
あらゆる方向に「わからない」が散乱してしまった時、人は身動きが取れなくなる。これが「壁にぶちあたる」とか「挫折」の意味だろう。
この「わからない」が起っているのはすべて「自分の頭」の中のことである。じゃあ次には、「どうわからないのか?」を考えてみる必要がある。
「自分はどうわからないのか?」を考えた時に、向かうべき方向だけは分かる。それが羅針盤の役割を果たす。
そうしたらあとは簡単。その羅針盤だけを頼りに「カラダを動かす」。
つまり「わからない」「自分の頭」は放って「カラダを動かす」のである。
誰もがただ一つの正解を求めた二十世紀は終わりを告げ、今度は誰もが「わからない」の地平から出発する時代がやってきた。
たぶん、作者の言いたいことはひどく単純なのだ。そのくせ本書で述べているように、作者の書き方は確かに「くどい」。
けどそれはひとつには作者のような、何も「わからない」読者に書かれているためであり、
もうひとつは、上で述べたとおり誰にとっても「わかりやすい」「正解」などというものは存在しないためである。
作者は一段高いところに立って、「物を教える」立場にいるのではない。
むしろ作者は何も「わからない」読者とおなじ目線に立って、「わからない」から「わかる」までの道のりを一緒に歩こうとしているのだろう。
それはまさに裏表紙にあるような「知的冒険クルーズ」という名の体験である。作者は率先してそのクルーズのガイドとなろうとしている。
もっと意地悪い見方をすればこの「くどい」文章がそのまま、「正解」ばかりを求めてそこに至るまでの道筋を気にしない二十世紀型思考人間への批判でもあるのだろう。
だから冒頭で「僕なりに噛み砕くと」なんて書いたけれども、本書にとっては「各要素」とか「あらすじ」などといったものをいくら抜き出したところで全く用をなさない。
むしろ各部分にバラせない(=手軽さがない)事にこそ、この本の真価があるのだと思う。
<memo>
作者の文章を読んでいたら高橋源一郎の文章読本と手触りが似ているなと思った。おそらく何にも「わからない」対象に向けて書かれているのが共通しているのじゃないかしら。
本書は文章読本的な要素もあってタメになる
この本は「○○すれば××できる」風のハウツー本ではないが、ハウツー本のヘリや周辺に位置すると思う。
誰にでも当てはまる「○○すれば」的正解はないが、その上でどうやったら自分なりの正解を導けるかを考える本である。
勝手に「ハウツーのヘリ本」と呼ぶことにするが、このジャンルはおもしろい本多い気がする。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「わからない」を方法にしてしまう、という考え方は衝撃的だった。恥や失敗を恐れず、「わからない」という手段で新たな可能性に挑む姿は前向きで明るい。21世紀をどう生きるべきか考えさせられる。新しい視点を得られる内容だが、全体的に話が冗長だと感じた。
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予想どおりウロボロス的で字がみっちりでぎっしりの微に入り細を穿つ描写で読むのに時間はかかった。ただ、私が「わからない」状態にあるので五里霧中。これを読む集中力を持続させることはフルマラソンを走る苦しいけどやると決めたから走る。ゴールする、という行為にも似ていた。
最終章で身体性について書かれているけどこれがまた説得力があった。
途中、様々に話は脱線してるかにみせ、「わからない」ということの実践の説明であったことにちゃんと戻る。納得させてくれる。読了後はなんだか憑き物が落ちた感さえあった。
途中、壁の話が出てきて「お、バカの壁か?」と思ったり、いきなりサーカスが例に出てきて「え?ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん???」と思ったりしながら、歯に衣着せず表現する人々が行きつく答えはある種、共通しているのかもしれない。
「自分の無能を認めて許せよ」-なんだか清々しくてホッとした。 -
20世紀は、どこかに「正解」があるのが当然であり、「わからない」というのは「正解」を知らない、恥ずかしいことだという理解が蔓延していたと著者はいいます。しかし、最初から「正解」がきまっているということが成り立たなくなったいま、「わからない」ということをスタート地点にして考える時代がやってきたと著者は考えます。
本書で著者は、「わからない」という方法にもとづいてこれまでおこなってきたさまざまな仕事振り返っています。『男の編み物―橋本治の手トリ足トリ』(河出書房新社)から、テレビ番組のために執筆されたドラマ・シナリオ「パリ物語―1920's 青春のエコール・ド・パリ」、そして『桃尻誤訳枕草子』の仕事の回想を通じて、「わからない」というスタート地点からはじめて、経験を通して身体が理解することをめざす著者の方法が語られています。
橋本治の発想術ないし仕事術といった趣の本です。自著解説のようなところもあるので、著者の仕事に興味のあるひとには、おもしろく読めるのではないかと思います。 -
橋本治は並みじゃない。
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内容は割と共感。
イライラしながらも何故か読み進めてしまうなぞの体験。
居酒屋でつまらん話を延々と聞かされたような読後感。
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再読。
読むものがない時のつなぎでパラパラ読んでいたが、
間をどれだけ開けても、スッと入ってくる橋本さんの言葉がすごい。
ものごとを知る、分かっていく、作っていく、その過程を
橋本さん流のわかりやすいくどい言葉で追っていく。
何かを生み出すことに近道はなく、ひらめいたものを確かなものにするために、あとはただ進むだけ。
作品を作り上げるという大きな話だけでなく、
日常の中にある「わからないもの」を分かるようにするための筋道は同じものだ。
身体を信じている橋本さんの言葉は、しごくまっとうで、誰にでも届く。
わかりやすく、のためにえんえんと言葉を重ねる誠実さ。
橋本治の本は、もっと読まれないといけないよな、といつも思う。 -
「わからない」イコール「恥」だった世紀は過ぎ去った。
橋本治的「方法論序説」 -
橋本治(1948~2019年)氏は、東大在学中に、「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」という東大駒場祭のポスターで注目され、その後イラストレーターを経て、文筆業に転じ、様々なメディアでも活躍した小説家、評論家、随筆家。
本書は、「わかる」ために、セーターの編み物の本まで書いてしまった著者が、「わからない」が全ての出発点である、ということについて、繰り返し、著者独特の(くねくねした)文体で書き綴ったものである。2001年出版。
著者も述べているように、方法論を書いたハウツー本ではない。
なるほど!と思った点をいくつか引用すると、以下である。
◆「「わからない」をスタート地点とすれば、「わかった」はゴールである。スタート地点とゴール地点を結ぶと、「道筋」が見える。「わかる」とは、実のところ、「わからない」と「わかった」の間を結ぶ道筋を、地図に描くことなのである。」
◆「二十世紀は理論の時代で、「自分の知らない正解がどこかにあるはず」と多くの人は思い込んだが、これは「二十世紀病」と言われてしかるべきものだろう。・・・よく考えてみればわかることだが、「なんでもかんでも一挙に解決してくれる便利な“正解”」などというものは、そもそも幻想の中にしか存在しないものである。「二十世紀が終わると同時に、幻滅もやって来た」と思う人は多いが、これもまた二十世紀病の一種である。二十世紀が終わると同時にやって来たのは、「幻滅」ではなく、ただの「現実」なのだ。・・・二十一世紀は、人類の前に再び訪れた、「わからない」をスタート地点とする、いとも当たり前の時代なのである。」
◆「この本で私が繰り返し言うことは、「なんでも簡単に“そうか、わかった”と言えるような便利な“正解”はもうない」である。・・・私が言いたいのは、「便利な正解の時代」が終わってしまったら、「わからない」という前提に立って自分なりの方法を模索するしかないという、ただそれだけのことである。・・・私は「新しい方法」を提唱しているのではなく、「人の言う方法に頼るべき時代は終わった」と言っているだけなのである。」
こうして見ると、20世紀末から、時代がモダンからポストモダンに移行しつつある中で、我々はものごとを如何に捉え、如何に解決していくべきなのかを、噛み砕いて示しているのだ。そして、これは、松岡正剛氏が『知の編集術』等で「21世紀は、20世紀に列挙した「主題」を解決する、「方法」の時代である」と表現していることと同じであろう。
21世紀に入り既に20年が経つが、閉塞感の打破できない今、再読する価値のある一冊と思う。
(2006年3月了) -
橋本治の本を読んだのは3冊目である。
1冊目は『知性の転覆』、2冊目は『上司は思いつきでものを言う』で、この2冊で橋本治のファンになった。
橋本治は面白い。
面白さの一つは「等身大」である。
橋本治は等身大でものを言う。背伸びをしていないから合点がいく。それは本書では「身体性」である。
二つ目は「地を這う」である。
ものの言い方には「帰納」と「演繹」の2種類がある。「帰納」=「地を這う」で、「演繹」=「天を行く」に対応するのだが、橋本治の書き方は極めて帰納的である。
なるほど、ここまで書いてみてようやく分かった。
橋本治の文章は帰納的であり身体的なのだ。
「分かる」には、
①作業を通して言葉を掴む=学ぶ
②作業を通して感覚を掴む=慣れる
③作業をせずに言葉を掴む=暗記
④作業をせずに感覚を掴む=天才
の4種類があり、③は不毛で④は一部の人間しかできないことであるから、普通は①と②で行くしかない。
その行き方は、
(a)天を行く=教え手と共に天を行く
(b)地を這う=自分だけで地を這う
の2つがあるが、(a)にしても事前か事後か、身体性を補完する必要がある。
要は、経験を通して身体で掴んだものは強いのだ。頭脳だけで抽象的に掴んだものは「分かった」とは言い難い。経験を通して掴んだものは、いつか役立つかもしれない。役立たないかもしれない。役立たないかもしれないから、さっさと忘れて構わない。
しかし、そのときが来たら思い出せるものなのだ。
①言語化
学びを自分なりの言葉にせよ
②身体性
たくさんの作業をしてコツを掴め