- Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087202694
作品紹介・あらすじ
日本の歴史学に新たな視点を取り入れ、中世の意味を大きく転換させた偉大な歴史学者・網野善彦が逝った。数多くの追悼文が書かれたが、本書の著者ほどその任にふさわしい者はいない。なぜなら網野が中沢の叔父(父の妹の夫)であり、このふたりは著者の幼い頃から濃密な時間を共有してきたからだ。それは学問であり人生であり、ついには友情でもあった。切ないほどの愛を込めて綴る「僕と叔父さん」の物語。
感想・レビュー・書評
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この「極私的網野論」は中沢新一の最高傑作ではないだろうか。
恐らく、彼が書いたというよりは何かに書かされた、それは今は亡き登場人物たちであろう。
網野善彦論としても彼の本論がわかりやすくそしてダイナミックに語られており、「網野史観」を理解するためのサブテキストとしても十分機能を果たしている。但し、網野善彦の入門書ではなく、出門書である。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
歴史家の網野善彦について、義理の甥にあたる宗教学者の中沢新一が、思い出とともにその研究の根底にある問題意識を明らかにしている本です。
網野は、著者の父であり後に『つぶて』(法政大学出版局)を著すことになる中沢厚との会話のなかで、権力者に「つぶて」を飛ばす「民衆」の存在の重要性に気づいたと、著者は証言しています。「民衆」は、国家が成立する以前の「自然」を体現する、かぎりなく神に近い存在であり、土地や社会関係などが生み出す「縁」から離れた人びとだとされていました。
従来の歴史学では、近代的な権力と、それと同じ地平で対峙する民衆との闘争という図式にもとづく理解がなされていました。しかしそうした民衆の理解は、近代の人間観の「底」を突き抜けていないと著者は批判します。そして、網野のたどりついた新しい「民衆」の概念は、そうした近代人よりも深いところに根ざしている「大地的概念」だったと述べられます。このような地平に降り立ったところに、網野史学の意義があると著者は考えています。
また、網野の『異形の王権』と、それを追いかけるかたちで書かれた著者の『悪党的思考』の「コラボレーション」についても触れられており、大胆すぎる思考の冒険と見られがちな中沢の思想の背景に、民俗学・歴史学的な資料がどのように利用されていたのかをうかがうことができます。 -
一番好きな場面は、幼少期の中沢新一と網野善彦が対話している場面。それはまるで豊かで深くやわらかい土壌に飛び込んだ種のような中沢少年が目を輝かせ好奇心の芽を出し、ぐんぐんと成長せんとしているのがハッキリと伝わってくるような、美しい光景。なんてキラキラしてるんだろう、うらやましい、と思いながら読んだ。
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叔父さんとの思い出を綴ってある本。なのに、思考の種まきをしている気分になる。登場する本や論文に興味がわいてしょうがない。学生の頃読んだときにはよくわからなかった部分がいま読むと本当に面白い。民俗学や人類学が好きな人にはおすすめする。
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・・・・・・書きかけ・・・・・
この本、いつでも読めるようにすぐそばに置いてあります。中沢新一に網野善彦というと、奇しくも私はお二人とも大好きで、ご両人の著作をほとんどすべて読んでいるのにもかかわらず、うかつにも7年前にこの本を読むまで、お互い親戚関係におられたなどということをまったく知りませんでした。読むたびに、いいなあといつもうらやましがることしきりなのですけれど、それは四方田犬彦の『ハイスクール1968』や『先生とわたし』を読んだ時もそうでしたが、身近に才能あふれる人物や飽くなき探求心を持つ人がいるという、そのまぶしいばかりの恵まれた知的環境に、嫉妬で悶え苦しんでしまいそうでした。 -
網野善彦と中沢新一(とその家族)の知の交感の姿。なんというか、中沢新一は中沢新一だし、網野善彦は網野善彦だった。感応するのも宜なるかな。そして血脈としての中沢家にも興味を持った。
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この本が、網野善彦さんに興味を持つきかっけでした。網野さんのようなおじさんが近くにいらした中沢新一さんがうらやましいです!
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宗教史学者・中沢新一さんが叔父であった歴史学者・網野善彦について語った本。
追悼文として、叔父・網野善彦との出会いから別れまでが書かれています。
網野善彦との濃密な交流の中で網野の学説「網野史観」が形作られていく状況が書かれており、網野史観の入門書として読むこともできます。 -
たしか、フォローしている「とくさん」のツイートで気になって図書館で借りたのだと思う。リンク先のツイートとは違うものだと思うのだけど、見つからない。
興味深い本だった。が、深すぎて自分には感想が書けないな。。 -
高校なんかでは教えてくれない全く異なる歴史観を垣間見れて面白かった