犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)

著者 :
  • 集英社
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087206258

作品紹介・あらすじ

福島の原発事故は、原発推進政策に潜む「犠牲」のありかを暴露し、沖縄の普天間基地問題は、日米安保体制における「犠牲」のありかを示した。もはや誰も「知らなかった」とは言えない。沖縄も福島も、中央政治の大問題となり、「国民的」規模で可視化されたのだから-。経済成長や安全保障といった共同体全体の利益のために、誰かを「犠牲」にするシステムは正当化できるのか?福島第一原発事故で警戒区域となった富岡町などで幼少期を過ごした哲学者による、緊急書き下ろし。

感想・レビュー・書評

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  • 筆者は哲学者として、現代日本の構造は「犠牲のシステム」(或る者たちの利益が、他のものたちの生活を犠牲にして生み出され、維持される)の上に成り立っていると指摘する。東京電力の原発が設置され、今回の地震と津波で多大な犠牲を強いられた(今も続いている)福島(原発は福島に限らないのだが、いわばそのシンボルとして)と、在日米軍基地の74%が置かれた沖縄が、その最も典型的なものだと述べる。この構造を容認してきた(いる)私たちには、実に辛く厳しい指摘だが、まさしくその通りだ。さて、私に何ができるだろう。

  • 543-T
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  • おもろなかった

  • 久しぶりに言葉より思いが前面に出ている文書を読んだ。国のためにスケープゴートを作らなくてはいけないシステムというのはシステムごと限界が来てるだろうな...

  • 2015.9.12〜

  • [ 内容 ]
    福島の原発事故は、原発推進政策に潜む「犠牲」のありかを暴露し、沖縄の普天間基地問題は、日米安保体制における「犠牲」のありかを示した。
    もはや誰も「知らなかった」とは言えない。
    沖縄も福島も、中央政治の大問題となり、「国民的」規模で可視化されたのだから―。
    経済成長や安全保障といった共同体全体の利益のために、誰かを「犠牲」にするシステムは正当化できるのか?
    福島第一原発事故で警戒区域となった富岡町などで幼少期を過ごした哲学者による、緊急書き下ろし。

    [ 目次 ]
    第1部 福島(原発という犠牲のシステム;犠牲のシステムとしての原発、再論;原発事故と震災の思想論)
    第2部 沖縄(「植民地」としての沖縄;沖縄に照射される福島)

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 『国家と犠牲』では靖国神社にみられる犠牲のシステムを分析しておられましたが、まったく同じシステムが福島・沖縄についても作動しているという指摘には、この国にいきるものとして、うすら寒いものをかんじざるを得ません。

    「犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている」

  • たしかに「騙される」には「騙される側の責任」もないとは言えない。しかし、補助金も何も地元にとっては「安全」が前提であって、その前提なしに原発を受け容れる住民は存在しない。大事故と補助金との「等価交換」など成り立っていないのであ
    る。(P.33)

    かつて「戦争絶滅受入法案」なるものがあった。前世紀の初めデンマークの陸軍大将フリッツ・ホルムが、各国に次のような法律があえれば、地上から戦争をなくせると考えたのだった。戦争が開始されたら10時間以内に、次の順序で最前線に一兵卒として送り込まれる。第一、国家元首。第二、その男性親族。第三、総理大臣、国務大
    臣。第四、国会議員、ただし戦争に反対した議員は除く。第五、戦争に反対しなかった宗教界の指導者。-戦争は、国家の権力者たちが己の利益のた
    めに、国民を犠牲にして起こすものだとホルムは考えた。だから、まっさきに権力者たちから犠牲になるシステムをつくれば、戦争を起こすことができなくなるだろう、というわけだ。(P.38)

    こうしたスローガンに対してナショナリズムが台頭するのではないかという懸念も表明された。私の印象を言えば、これらのスローガンをナショナリズムというのはむしろおこがましく、これらの日本ナルシシズム、あるいは日本フェティシズムといったほうが適切ではないか、と感じる。(P.151)

    ちなみに宜野湾市の普天間基地が、この旧ハンビー飛行場の11倍の広さがあるのに、雇用数はたったの173人。もし普天間基地が返還されて跡地が有効利用されれば現在の十数倍の雇用が生まれるのではないか、と大田氏は言うのである。(P.202)

    彼の言う「10人の犠牲」すなわち一割の犠牲とは誰のことなのか。そしてだれが決定するのか。さらにこのような犠牲の論理を主張し、展開する人々は、自分自身がその犠牲になることを想定しているのか、いないのか。憲法の平等原則からすれば、これらの犠牲を一部に負わせることができるものではなく、犠牲が避けられないとしたら、全国民に平等に負担すべきだという議論に道理があることは否定できないだろう。(P.214)

    誰にも犠牲を引き受ける覚悟はなく、誰かに押しつける権利もないとしたら、在日米軍基地についても原発についても、それを受け入れ、推進してきた国策そのものを見直すしかないのではないか。(P.216)

  • ポスト福島のれきしてき課題とは原発という犠牲システムをいかに適切に周縁させるかということにある。安全神話は崩壊した。
    原発事故において、大量被曝を覚悟しながら働かざるを得ない人々を英霊予備軍としてたたえることは、自分たちは安全ンな場所にいて彼らの犠牲から利益を引き出す人々の責任を見えなくしてしまう。

  • 第3章以降が著者の言いたいことの中心だった。その前は事実関係の整理で、原発事故以来、一定の時間経過があったいまとなっては、わかっていることが多い。
    震災後の「天罰」思考、また原爆投下後の「天恵論」が本質的に犠牲のシステムであることにおいて同じであるという。そして、基地問題における沖縄の犠牲と、原発事故における福島の犠牲がある部分では同質のものだとも。
    そもそもこの本を手に取ったのは、片山杜秀著「国の死に方」で、国家の存亡に関わる圧倒的な脅威の前で人間(国民)が犠牲にされるその有り様が、時代とともに変化していることが明らかにされていたからである。国家権力による犠牲のシステムの構築(最終的に戦没者が英霊としてたてまつられることとか)が謀られた時代から、犠牲のシステムに組み込まれるかどうかにもはや国家権力は効力がなく、もはや個人の「ボランティア」となってしまっているに等しいのが現代なのでは、とのことだった。ここに現れた「犠牲」というキーワードから、そういえば、というので高哲先生のこの新書を読み始めたのだった。
    読んでみると、片山氏は、どこか「犠牲(のシステム)」が存在すること自体は受け入れている。その上でその歴史的変遷を淡々とあぶり出すのに対し、高橋氏は「犠牲(のシステム)」そのものに疑義を唱える態度だった。どうしてこの人間世界に犠牲という概念ができちゃったのかを追究しているんだなと。
    片山氏が政治思想史が専門で、高橋氏が哲学が専門、というところからくるスタンスの違いなのだと思うが。

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著者プロフィール

高橋 哲哉(たかはし・てつや):1956年生まれ。東京大学教養学部教養学科フランス科卒業。同大学院哲学専攻博士課程単位取得。東京大学名誉教授。著書:『逆光のロゴス』(未來社)、『記憶のエチカ』(岩波書店)、『デリダ』『戦後責任論』(以上、講談社)ほか。訳書:デリダ『他の岬』(共訳、みすず書房)、マラブー編『デリダと肯定の思考』(共監訳、未來社)ほか。


「2024年 『沖縄について私たちが知っておきたいこと』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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