- Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087206852
作品紹介・あらすじ
専門知・実践知重視の時代にあって、人間の根幹となる総合知としての「教養」像を考える一冊。長年にわたり東京大学の教養学部で教鞭をとった著者が考える、教養の身につけ方とは?
感想・レビュー・書評
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学は深まるけど教養は高まるっていうのはいいですね。学はあるはずの学者でも教養のない奴はいこのごろは「パンキョー」って言わないんですかね?本書でも紹介されているとおり、旧制一高の生徒が愛読した書の一冊に倉田百三『愛と認識の出発』がありますが、その角川文庫版の解説は紅野敏郎先生なんですね。四半世紀前、紅野先生に教わった「パンキョー」としての大正時代の文学についての講義は楽しかったな。本書は、それこそ教養として読むにはいいけど、「教養の意味を問い直し・・・」というのは集英社編集部の宣伝が行き過ぎのような感もあり。結論的には、情報リテラシーを授けるとともに古典を読む能力を高めることが大事だって。
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英文学者による教養論。P.99で著者がいうように「一般書・新書文体を使」って書かれたものである。著者自身の経験から得られた知見が述べられている。
逆に、先行研究のレビューが少なく、巻末の参考文献を見る限り、猪木武徳、村上陽一郎、西山雄二のそれぞれの論には触れられていない。ちなみに、この中には駒場関係者も含まれる。サブタイトルに「東大駒場」という言葉が使用されたり、黄色い帯に「東大には、なぜ「教養」学部が残ったのか?」といった、個人的に購買意欲がそそられる表示・体裁となっている。こうしたことから、ある程度組織的コンセンサスが織り込まれているのではと思い込んで読み進めた。だが、新書・啓蒙書の部類だからか、最初にいったとおり、ある「一事例の紹介」という印象が強く残った。
とはいえ、大学教育における「教養」の概念を考えていく上で、必要な視座を再確認できた。例えば、①主な日英の辞書からの教養の定義を列挙、②修養、教養主義のレビュー③教養教育の成否≒基礎知識・学力の定着度という点である。
また新時代の教養の柱、すなわち「知的技術」「センス・オブ・プロポーション」「人格」の提示にも共感できた。これらについても、多くの場面で論じられる機会が多いが、コンパクトに著者なりの整理がなされている。
本書の最後で、「全人教育としての教養教育が充実し、より多くの教養人が生まれれば、それだけ社会の秩序は整っていくはずである。」(P.171)という言説で結論づけている。全く否定のしようがない意見だ。現在、多くの国公私立大学・中高で教育理念の中で全人教育を標榜していることからも明らかである。個人的には、全人教育の概念の出自を意識しつつ、その用例が一般化・普遍化した現状を素直に受け入れたい。
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私が修論で書こうとしていることは、古くからある仮説を新しいデータで実証することでもあると気づいた。 -
私の中で教養って雑学に近いイメージだった
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東京大学の教養学部で長く英語教育に携わってきた著者が、教養の復権を説いた本です。
倉田百三の『愛と認識の出発』や阿部次郎の『三太郎の日記』などに代表される大正教養主義について、文化史的な観点から考察をおこなった本も多く刊行されていますが、本書で展開されているのは、歴史的な観点から旧制高校的な教養を相対化するような議論ではありません。もっともそのこと自体は、本書のテーマからはずれるということもあり、かならずしも本書の欠陥といえないでしょう。
ただ、「教養」と「修養」の差異についてあまり検討をおこなうことなく、両者をひとつながりのものとしてあつかっている点は、すこし気になりました。これは本書が、教養が軽んじられる現代から教養主義を仰ぎ見るような立場に立っていることによるのではないかと思われます。このため、唐木順三の教養主義批判に代表されるような、大正教養主義をそれに先立つ時代から相対化するような視座が欠けており、どこか「学問の置き所悪し」の印象があります。 -
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信頼できる学術的な文献にアプローチできること。マニアックにではなくメタレベルで考えること。を重要とし自身の専門が英語学であるにもかかわらず、英語や第二外国語の必要性は現在の学ばれ方においては少ないとしている。外国語について読むことの重要性を説いている人はこの人だけではないので、読むこと重視がなぜ避けられてきたのか気になるところではある。
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斎藤兆史氏による教養論.
読みながら「東大云々」というタイトルは要らないんじゃないかなと思ったが,「新時代の教養」での提言を読むと,このレベルを要求出来るのは東大とその他一握りの大学でしかないなと感じるようになった.
本音をいえば,いいたいことには共感はするが,教養の復権と言うのはなかなか難しいだろうなと思う.もはや教養は趣味の問題でしかなくなっているような気もする. -
[ 内容 ]
一九九〇年代、大学から「教養」の名を冠した学部が次々に姿を消した。
それに呼応する形で専門知・実用知の優位性が喧伝されると、いまや「教養」はかつてのエリート達による懐古趣味のようなカビ臭い存在になってしまった感がある。
しかし、本来の教養は、行き過ぎた専門知の追究に対して物事を多角的に捉える視点を与えるものでもあった。
本書では、そうした意義に加え、人格的な豊かさを体現するためにも不可欠な教養の意味を問い直し、今の時代にも活きる新しい形を提示する。
東大教養学部で長年教えた著者が授ける教養の力。
[ 目次 ]
第1章 「教養」は変質しているか(教養人をイメージしてみる;「なんとか教養」の謎 ほか)
第2章 学問/知識としての教養(ヨーロッパにおけるリベラル・アーツの起源;中国から輸入した教養 ほか)
第3章 教え授ける/修得する行為としての教養(教養は誰がどのように授けるものか;高校の授業の余談における教養教育 ほか)
第4章 身につくものとしての教養(知識;知的技術 ほか)
第5章 新時代の教養(情報処理の今、昔;情報選別の基準その一―情報提供源の信頼性 ほか)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
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