A3 上 (集英社文庫)

著者 :
  • 集英社
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  • Amazon.co.jp ・本 (360ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087450156

作品紹介・あらすじ

判決の日、東京地裁で初めて完全に「壊れている」麻原を見た著者は愕然とする。明らかに異常な裁判に、誰も声をあげようとしない。麻原彰晃とその側近たちを死刑にすることで、すべてを忘れようとしているかのようだ-戦後最凶最悪と言われたオウム事件によって変わってしまった日本。麻原とオウムを探り、日本社会の深層を浮き彫りにする。第33回講談社ノンフィクション賞受賞作。

感想・レビュー・書評

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  • オウム信者と、信者側から見た周りの人々を描いたドキュメンタリー映画『A』、『A2』を撮った森達也のオウムに関する著作。それまでの「A」は、撮影対象者の荒木広報部長やオウム真理教のイニシャルだったかもしれないが、この『A3』は麻原彰晃のイニシャルだという。公判で見た麻原彰晃の姿と、それに対する周りの反応とのギャップに愕然としたことが本書の執筆の出発点となっている。その上で、あの地下鉄サリン事件にまで至ったオウム事件の意味を月刊誌への連載という形で問い続ける。真実の追求をすることなく、迅速な審理(死刑判決)に傾く裁判に対して反発する。あの事件についてはその動機も、事件に至ったメカニズムも明らかになっていないのだと焦る。その焦りにも関わらず、審理は閉じられ、麻原への今後の接見も行われることなく死刑判決は確定され、早晩処刑される身となっている。そして、この本も売れず、忘却にさらされていくのは耐えられないという著者の焦りが伝わってくる。

    著者が麻原彰晃の審理を初めて傍聴したのは、2004年2月、一審の東京地裁の判決が出されるときであった。そのときに、正常とは思えない挙動不審な麻原の様子に対して、メディアでは一様に卑劣な詐病や不遜な態度であったと報じ、死刑を強く求める論調に終始したことに著者は違和感を思えた。さらには、日常的に失禁をし、接見時に自慰行為まで行っているという話を聞きおよぶ。明らかにおかしい。何故一度治療をした上で裁判をやれないのか。そもそもリムジンでの謀議というストーリーも、あまりにも単純で矛盾が多すぎる。この大事件に対して、司法とメディアはその役割を放棄しているのではないか。著者のその思いの表出は、実際のところ多くの批判を受けることとなるのだが。

    著者は、連載の期間中に、麻原の故郷八代市にも行って取材を重ねる。そこでは、一種報道においてタブーにもなっているチッソによる水俣病の原因ともなった水銀汚染の視覚障害への影響についても言及する。早川、新実、中川、井上といった側近にも直接取材しているし、麻原の次女にも接見時の様子を語らせている。神仙の会の時代の麻原についても当時の関係者を取材し、薬事法違反で逮捕されたときに取調べを行った刑事にも取材を重ねる。その上で出てくる主張にはしっかりと受け止めないといけないと思うのだ。

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    本書において提示された問題は大きく三つあると言える。
    一つ目はオウム事件を起こした組織共同体の問題。ここには問題を麻原個人の資質に帰するべきではないという問題提起が含まれている。二つ目が司法の問題。特に裁判における精神鑑定の問題が挙げられる。三つ目は、メディアの問題。この事件を境にメディアが変質してしまったとでもいう主張に全面的ではないにせよ頷ける。著者からすると、メディアに携わる一人として特にここには忸怩たる思いがあるのだろう。

    著者は、ナチスのホロコーストを主導したアイヒマンについて本文で一度、文庫本で追加された最終章の中でさらにもう一度触れている。その意図は、オウム事件をどうしようもない悪人が世間に対する悪意をもって起こした事件であるとしてはいけないというメッセージである。検察が裁判用に描くような、極悪人たちがリムジンの中で計画した謀議だったとしてしまうことは許されない。その思いの底には、オウム信者に誰よりも多く取材を行ってきたジャーナリストとしての矜持もあるだろう。

    著者は、保坂正康の『あの戦争は何だったのか』を引きながら、こう書く。

    「最悪の事態はこうして起きる。何度も書いてきたように、かつての日本だけでなく。ヒトラーのナチスドイツにしても毛沢東の文革にしてもスターリンの大粛清にしてもポル・ポトのクメール・ルージュにしても、幹部や側近がトップの意向を過剰に忖度しながら暴走するという組織共同体の負のダイナミズムは、まったく珍しいことではない。
    オウムの場合はこの構造に死と生とを転化する宗教のダイナミズムが加わり、さらにはトップの位置にあった麻原がほとんど盲目で、おまけに最終解脱者を自称していたとの要素が相乗する」

    著者の結論はこうだ。「麻原と側近たちは互いにレセプターであり、互いにニューロンだ。危機意識という神経伝達物質のやり取りを続けながら、互いに互いを刺激し続けてきた。そして同時に麻原は、側近たちにとっては唯一のマーケットであり、側近たちは麻原にとってかけがえのないメディアだった。」ー 「過剰な忖度」という言葉が著者が事件の本質を示すキーワードとして何度も出てくる。官僚的組織共同体における側近の過剰な忖度とそれによる組織としての暴走、ということであれば誰しもいくつか心当たりも出てくるであろう。

    アイヒマン裁判への言及からは、著者が麻原の裁判に期待するところがどういうものなのかが見える。
    「この判決(アイヒマンの死刑判決)が意味を持つためには、アイヒマンと(おそらくはヒトラーも含めての)ほかのナチス幹部たちのほとんどが凡庸な存在であることを、多くの人が認識することが前提だ。彼らは悪ではない。行為が悪だったのだ。そして彼らは自分たちでもある。その認識を持ったうえで歯を食いしばりながら、有罪を宣告せねばならないのだ。」

    しかし、現実の裁判はまったくそのような方向に向かうことはない。
    本書の記述を見る限りにおいて、麻原は心神喪失状態にあると言っていいように思う。顔や体を引き攣らせて、失禁や脱糞を日常的に行う人間に対して、それを否定することはできない。少なくとも早期段階にて正式な精神鑑定を受ける必要があっただろう。それがなされなかった背景には、心神喪失状態と判断されることにより免罪されてしまうことや、少なくとも結審までの時間が伸びることを恐れたことがあったのだろうか。サリン事件が起きたことは事実であり、オウムが実行犯であることも動かしがたい事実だ。そうであれば、現状の司法の即して死刑求刑に値することには疑いはない。裁判を罪に対する懲罰を決する場とする立場であれば、なぜにこんな茶番のような裁判に時間とお金を使うのかということになる。しかし、著者はこういった意見とは立場を大いに異にする。殊に、これだけの事態を結果として社会が起こしてしまったことに対して、真実と論理を明確にすることが必要だと訴えるのだ。そのために麻原の治療が必要であれば、その時間と手間をなぜに惜しむのか、という主張だ。麻原や側近を単に死刑にして、それ自体で何かの益があるわけではない。社会に対して抑止になるわけでもない。ここで長期的に犠牲になるのは、社会システムと司法システムだ。永遠に失われてしまう事実について、それを急いで失う理由がない。

    司法システムに関する問題提起の中でも大きなものは精神鑑定にかかわる部分となる。明らかに訴訟遂行能力に強い疑義がある中でも裁判を押し進めることは、司法における精神鑑定の意義を揺るがせにしてしまった恐れがある。特に精神鑑定の結果に検察や裁判所の意図が色濃く反映されてしまうことを結果として是認することは長期的に見て瑕疵を残すこととなるのではないか。司法であっても、法ではなく組織や空気によって動いてしまう前例を作ることは、後に暗黙的にも影響を与えることになるのではないか。組織共同体の中での過剰な忖度、ということではオウムという組織だけでなく、司法の組織の中にも存在していることを皮肉にも示していさえするのではないだろうか。

    そして、過剰な忖度については、メディアという組織にも図らずも浸透することとなった。
    著者は、麻原彰晃の「圧倒的な質量」という表現をするが、メディアは彼を絶対悪として名指しし、それに反する言論を自制する空間が醸成された。そこには「空気」に寄り添うという意味での忖度も含まれる。自分はそのような時間軸上での断層があったと判断することはできないが、著者はオウム以降、マスコミ、特にテレビ、の報道の論理が変質したという。そうであるなら、その変化は社会に与える影響において実は大きなものなのかもしれない。オウム裁判の終了は、これらの変化への省察の機会を奪うものだと。著者はオウム事件を機会にモザイクが躊躇なく多用されるようになったという。技術面での機能向上という条件もあったと思うが、過剰な忖度による事なかれ主義の敷衍という事実に他ならない。

    もちろん著者が他の著作でも繰り返すように、メディアは受け取り手である消費者のミラーでもある。メディアが変わるためには、まずは受け手たる消費者が変わる必要がある。逆ではないのだ。

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    日本は、麻原を世紀の極悪人に仕上げることで矮小化したのではないか。そして熱病のような祭りの後の「圧倒的な無関心」によりオウムの問題をねじれた形で黙殺した。果たしてそれでいいのだろうか、というのが著者による、もはやどこにも届きそうもない問いである。

    自分もそのことには同意するのだが、著者は本書の中でも何度も繰り返すように、本書はもっと世間に影響を与えることができてしかるべき本だというように考えている。しかし一方で同時に著者は、世間からの無関心により黙殺されることについても正しく予想している。

    上九一色村にサティアンの痕跡はもうないという。悲劇の現場は後世のために残しておくべきではないのか。すでに事件の翌年からサティアンの取り壊しが始まっており、執筆時点で何もなくなったかつてのサティアン跡を見て、この裁判と同じではないか、なかったことにしたい、自分とは異質なものがやったことだということにして安心したい、という心理が検察・マスコミそして一般市民に広がっていることの証ではないのかと著者は問う。自分がその立場にあったかもしれないという責念があれば、その建物を保存しておくべきではないかと思うのではないだろうかと。忘れたい、という圧力にあらがうことが必要だ - それが著者の根本における姿勢になっている。「悪夢の記憶なら抹消すべきでない」。

  •  数年前に一度読んだのですが、「忖度」という言葉が流行語となった昨年辺りから気になり、教祖の死刑執行を機に再読することにしました。

     下巻の最後は以下の言葉で締めくくられていました ── “いずれにせよ麻原は、おそらく数年以内に処刑される。〔中略〕そのときに自分が何を思うのかはわからない。でもこの社会がどのような反応をするかはわかる。それはきっと、圧倒的なまでの無関心だ。”
     「数年以内に処刑される」という部分はちょっと外れましたが、「圧倒的なまでの無関心」ということについては本当にそのとおりでした。

     著者の主張は概ね次のとおりです。
    ① 目が見えず側近からの報告以外に情報源を持ち得ない麻原とその意向を過度に忖度し偏った情報を提供する側近とが相互に作用しあって、教団が暴走してしまった。
    ② 事件に不安を持った大衆は分かりやすい情報を求め、メディアは大衆の求める単純なストーリーに合致した情報のみを報道した。この結果、オウムは絶対悪であるとの世論が形成された。
    ③ 麻原が訴訟能力を失っていたにもかかわらず、世論に圧された裁判所が拙速に死刑を確定したことで、真相を解明する機会が失われてしまった。

     これらの中でも特に②には注意すべきだと思います。情報を求めた大衆と、大衆の意向を忖度して恣意的な情報を与えたメディアとの関係は、ちょうど教祖と側近の間の構図と同じです。我々が自分と異質な何かに対して不安を感じ、ポピュリズムがそれを一押しすれば、その「異質な何か」が「悪であり敵である」と我々は簡単に信じ、攻撃さえします。つまり、我々だって「オウム化」し得るのです。

     国民の圧倒的多数がオウムをひたすら憎悪することで思考停止していた時期に、多くの取材に基づいてオウム事件を異なる角度から捉えようとした著者の姿勢は貴重だと思います。事件発生から20年以上が経過し、当時の記憶は人々の間で薄れて行くでしょうが、一方で事件を冷静・客観的に見ることができるようになってきているはずです。そのような中で本書を読み、事件についてもう一度考えてみることは意味があると思います。

  • 渾身の一作。
    これ、おかしくね??
    が詰まっている。

    地下鉄サリン事件が起きた当時、私はまだ小学校に入ったばかりで、麻原彰晃が逮捕されたとき、学校から帰ると母親がテレビにかじりついていたことをよく覚えている。
    ショーコーショーコーショコショコショーコーアサハラショコー♪の歌を無自覚に歌って親に怒られたりしていた。
    とにかくとっても悪くてひどいことをしたひとたち。ということだけが私の中には残って、その後特に自分の頭で考えることをしてこなかった。
    野田秀樹のキャラクターを見たときに、少し興味がわいたけど、それもそんな捉え方ができるのかっていうようなレベル。
    先日森達也さんの別著書を読んで、このA3が気になって初めて自分の中でこんなにオウムの一連の事件に向き合う時間を得た。

    結論から言うと、読んですごくよかったし、向き合ったのはオウムではなくて、今の私たちのような気がした。
    こんな国に住みたくないなと思った。
    人を、ことを、感情の赴くままに裁いて、無かったことにでもできると思っているのだろうか。
    結局私たちはみんなで忘れる、復讐をするっていうことに、裁判を使ってしまったのではないだろうか。
    誤解を恐れずに言えば、私は麻原彰晃になんの感慨もない。
    自分はあの事件の時、子どもだったし、母親がテレビにかじりつくようなことなんだっていう変な興奮があっただけだ。
    それもなんか、すごい映画の中で起きてるようなハラハラするようなことが起きていて、それは成功しないといけないんだっていうようなこと(上九一色村の突入)。
    だから恐怖をリアルには知らない。
    その私がこの森さんからの報告を見ると、単純にこの一連の犯人とされていた人たちの人権ってどうなってるんだろうと思った。
    本当に色々な人生があって、そのどれも誰にも分かりえないようなもので、それなのにそれを分かったかのように、あるいは分かろうとしないで人の命を勝手に裁くことが人間にしていいことなんだろうか。
    普通に、こわくね?
    と思う。

  • 今話題になっている、愛知県主催の「トリエンナーレ」のシンポジウムに森氏の名前を発見して、どんな立場で討論していたのかが気になりました。
    本書は、宗教団体という名をかりた殺戮集団、オウムには何をしても許されるという社会的風潮が蔓延する中、ほとんど孤軍奮闘ともいえるジャーナリスト魂を発揮して真相に迫ろうとした力作です。
    文庫本上下巻にわたる内容は、月刊プレイボーイに2004年から毎月連載された内容を加筆修正したものですが、物語は2004年2月に麻原に死刑判決がでた裁判を傍聴した時の麻原の当事者能力の有無への疑問から始まります。
    今読み返してみても、ナンパな雑誌、月刊プレイボーイがよくぞこれを連載させていたなあという驚きと敬意です。
    そして当然、毎月のリポートであるが故の臨場感と当時の雰囲気が伝わってきて、読みごたえがあります。

    オウムが殺人集団に至る教義として、チベット密教にあるタントラヴァジラヤーナ(煩悩からの完全な解放)をわざと変質させたのが真相だというのが世間の解釈ですが、確かに信者の事故死を隠蔽するために不法な処理を行い、その不法な処理を隠蔽するために新たな殺人を犯し、その殺人を正当化するために教義を利用したという話の流れは理解しやすい。
    その上で、作者はこう指摘する。
    浄土真宗本願派の戦時中の布告、キリスト教の十字軍遠征や異端審問、イスラム過激派の自爆テロなど、宗教全般に死への不安や恐怖を軽減する機能が属性として存在しているが、それを実践するかしないかという違いは大きい。世俗化の過程は、この危険性を薄衣で幾重にも覆うことである。ただし、消えてはいない、保持はしている。だからこそすべての宗教は、戦争や虐殺と親和性が強い。(下巻P67)

    麻原を含む教団関係者7名の死刑執行は2018年7月6日に行われ、指導者の口から事件の真相を聞き出すことは不可能となりました。
    一読した私の大雑把な感想は、麻原は俗物であったが宗教者としては優秀であった(でなければ、これだけの信者を集めるのは不可能)、問題は宗教団体として上位階級にあがろうとする一部の側近が勝手に教義を曲解し暴走をし始めたが、ハルマゲドンと世界制覇を夢見ていた麻原はそれを止めずに追認したというのが真相ではなかろうか。
    もう1つの疑問は、なぜ麻原の当事者責任能力が疑われる状況で死刑宣告を早めたのかという点だが、これは推測の域をでないものの、警察はサリン事件の発生を事前に知りながら止められなかったという事実の隠蔽のために審議を尽くさない方が得策だと早めの事件収束にこだわったからという説もあるようだ。
    今回の犯罪は、サリン事件とその他の殺人にかかわった連中の処分だけであったが、マスコミで「ああいえば上祐」といわれた教団のスポークスマンは、3年の懲役後、アーレフから今はひかりの輪代表として活動しています。
    まだ、オウムの遺伝子は存在しています・・まあ、こういう言い方をすると犯罪を犯していない人物への中傷だ、人権侵害だといわれそうですが、サリン事件を起こした中心にいた人物たちが当然背負うべき十字架だと思います。
    あともう1点は、当時麻原の空中浮遊などを面白おかしく報道して教団の宣伝をしていたマスコミ(特にTBSは放送前のビデオをオウム幹部にみせたため坂本弁護士は殺害された)などは、大した反省もなくいまだにノーテンキな無責任体質ですので、同様の事件が起こってしまう構造はそのままというのも気になります。
    1995年のはじめに起こった阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件、自然災害と人災という違いはあれど、今後とも起こりえる事件を記憶の中で風化させないためにも一読をお勧めします。

  • 下巻に感想

  • 単行本時に既に2回読んでいるのに、再度読み返している今もまた衝撃を受ける。文庫になったことでより多くの人が読んでくれることを願う。

  • とりあえず下巻も読んでみましょう。

    おかしいよね、と発信する場がなぜプレイボーイなんだろうなー、と思っている。

  • 【第33回講談社ノンフィクション賞受賞作】
    東京地裁で初めて、完全に壊れている麻原彰晃を見た著者。
    マスコミも、誰も、声をあげようとしない異常な裁判。
    麻原彰晃と、事件を起こした側近たちを死刑にすることで、すべてを終わらせ、忘れようとしているかのように思えます。
    オウム真理教事件によって、大きく変わってしまった日本社会の深層を浮き彫りにする、ドキュメント作品です。

    あの時期はそれほどに、日本国民のほとんどが、オウムや麻原を「絶対的な悪」として認知していた。過去形ではない。今だって数量的にはそう見なす人のほうが圧倒的に多いはずだ。だからあらためて書く。「人を殺すならばそれは宗教ではない」とのレトリックはあまりに浅い。歴史の縦軸を見ても世界の横軸を見ても、信仰が戦争や虐殺と親和性が高いことは、小学生にだってわかるほどに自明なのだ。 ー 155ページ

  • まどろっこしいね

  • もっと、読まれるべきではないかと思う。
    あの頃、法廷での麻原彰晃の様子を伝えるワイドショーを見て、「へー、おかしくなったふりをしてるんだ、ひきょうだな」と簡単に思った。
    その後の教団の報道を目にして、「あんな事件を起こした教団にまだ居続けるなんて意味が分からない。」と思いその意味を考えようともしなかった。
    知ることは大事だ。

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著者プロフィール

森 達也(もり・たつや)
1956年、広島県呉市生まれ。映画監督、作家。テレビ番組制作会社を経て独立。98年、オウム真理教を描いたドキュメンタリー映画『A』を公開。2001年、続編『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。佐村河内守のゴーストライター問題を追った16年の映画『FAKE』、東京新聞の記者・望月衣塑子を密着取材した19年の映画『i-新聞記者ドキュメント-』が話題に。10年に刊行した『A3』で講談社ノンフィクション賞。著書に、『放送禁止歌』(光文社知恵の森文庫)、『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』『職業欄はエスパー』(角川文庫)、『A2』(現代書館)、『ご臨終メディア』(集英社)、『死刑』(朝日出版社)、『東京スタンピード』(毎日新聞社)、『マジョガリガリ』(エフエム東京)、『神さまってなに?』(河出書房新社)、『虐殺のスイッチ』(出版芸術社)、『フェイクニュースがあふれる世界に生きる君たちへ』(ミツイパブリッシング)、『U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面』(講談社現代新書)、『千代田区一番一号のラビリンス』(現代書館)、『増補版 悪役レスラーは笑う』(岩波現代文庫)など多数。

「2023年 『あの公園のベンチには、なぜ仕切りがあるのか?』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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