空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む (集英社文庫)

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  • 集英社
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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087468823

作品紹介・あらすじ

チベットの奥地、ツアンポー川流域に「空白の五マイル」と呼ばれる秘境があった。そこに眠るのは、これまで数々の冒険家たちのチャレンジを跳ね返し続けてきた伝説の谷、ツアンポー峡谷。人跡未踏といわれる峡谷の初踏査へと旅立った著者が、命の危険も顧みずに挑んだ単独行の果てに目にした光景とは-。第8回開高健ノンフィクション賞、第42回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。

感想・レビュー・書評

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  • 心が震えた。
    著者の角幡さんに、そして同様にツアンポー川の激流に挑んだ武井さんに同じ人間とは思えない凄みを感じた。探検家とは何という生き物なのか。
    彼らは自らも知らない「業」によって突き動かされている。
    探検に挑み半ば意識的に己の命を死地に晒し、しかし全身全霊でその死に抗う。

    ツアンポー川に挑み亡くなった武井さんの口癖が強く脳裏に残った。 「ちゃんと生きてるか」

  • 【感想】
    空白の5マイルは、チベット高原を流れるツアンポー川のうち、ヒマラヤ山脈の東端に位置するナムチャバルワ(7,782メートル)と、ギャラペリ(7,294メートル)という二つの大きな山にはさまれた峡谷部に位置する。その地帯はいわゆるツアンポー峡谷と呼ばれる。巨大な峡谷部に吸い込まれ、ヒマラヤの山中にいつの間にか姿を消すツアンポー川は、古代チベットの人々から「謎の川」と呼ばれてきた。そしてその奥地――ペマコチェンと大屈曲部の頂点との間に横たわる最も険しい区間は、いまだに人類未踏破のまま残され、幻の大瀑布が存在すると言われている。

    「空白の5マイル」とはなんともロマンある響きだ。そして、この未踏破地域の攻略を試みる筆者に空前絶後の大スペクタクルが起こる……わけではない。ツアンポー峡谷の写真を見て貰えば分かるが、辺りは鬱蒼とした藪でおおわれた地味な風景だ。どこまで行っても日当たりが悪く、道はとにかくぬかるみ、草はボーボー。筆者が格闘するのは猛獣ではなくとにかく藪であり、生き物と言えばうっとうしい小さなダニや虫だ。
    何より残念なのは(と言ってしまうと大変失礼で申し訳ないが)、写真を見るだけだともの凄い「既視感」があるのだ。まるで「日本のどこかの川?」と思ってしまうような景色であり――もちろん標高も水量も高低差も日本とは段違いなのだが――とても心くすぐられる冒険がありそうにないな…..と感じてしまう。

    ――私がやっていることといえば、延々と続く急斜面で苦行のようなヤブこぎをしているだけだった。なぜ過去に多くの探家がこの場所を目指して挫折したのか私にはよく分かった。わざわざ苦労してこんな地の果てのような場所に来ても、楽しいことなど何ひとつないのだ。シャクナゲやマツの発するさわやかなはずの緑の香りが、これ以上ないほど不愉快だった。自然が人間にやさしいのは、遠くから離れて見た時だけに限られる。長期間その中に入り込んでみると、自然は情け容赦のない本質をさらけ出し、癒しやなごみ、一体感や快楽といった、多幸感とはほど遠いところにいることが分かる。

    ではこの本の面白さはどこなのかというと、それは筆者が旅に意味を見出していく過程にあるのではないだろうか。
    「極夜行」のときもそうだったが、筆者はどこに行くかを重視していない。常識外れの環境を通じて「自分の中に何が生まれるか」を旅に求めている。筆者は「空白の5マイル」に何十年も情熱を燃やしており、この地域を踏破するために会社を辞めたほどである。その純粋無垢なまなざしの中で、ツアンポー峡谷を誇張もせず矮小化もせず、ただありのままの姿を伝え、それに挑んだ自らを淡々と描いた、というのが他の冒険譚と一線を画す点ではないだろうか。

    ――どこかに行けばいいという時代はもう終わった。どんなに人が入ったことがない秘境だといっても、そこに行けば、すなわちそれが冒険になるという時代では今はない。二度にわたるツアンポー峡谷の単独行の意味合いは、私の中では異なっていた。空白の五マイルという最後の空白部を追いもとめた、血気にはやった最初の単独行とは違い、二〇〇九年の二回目の旅は、ツアンポー峡谷そのものをより深いところで理解したいという思いのほうが自分の中では強かった。濃い緑とよどんだ空気が支配する、あの不快極まりない峡谷のはたして何が、自分自身も含めた多くの探検家を惹きつけたのか。歴史の中に刻みつけられた記憶の像は、地理的な未知や空白などといった今や虚ろな響きのする言葉の中にあるのではない。自然の中に深く身を沈めた時、見えてくる何かの中にこそあるはずだ。今の時代に探検や冒険をしようと思えば、先人たちの過去に対する自分の立ち位置をしっかりと見定めて、自分の行為の意味を見極めなければ価値を見いだすことは難しい。

    筆者は一貫して「今の時代に未知など残されていない」というスタンスを取っている。そんな中で一冒険を真の冒険に変える要素は何か。それはGPS未使用、単独踏破といった強い縛りを自らに課し、なるべく自然と一体化することだ。そして自分の行動に意味を見出し、人間と自然との関わりあいに純粋な形で没入することなのだ。
    それが探検家・角幡唯介の面白さなのだと思う。

    極夜行のレビュー
    https://booklog.jp/users/suibyoalche/archives/1/416390798X

  • 2011年7月27日のブログより

    (内容)
    チベットの奥地にツアンポー峡谷とよばれる世界最大の峡谷がある。この峡谷は一八世紀から「謎の川」と呼ばれ、長い間、探検家や登山家の挑戦の対象となってきた。チベットの母なる川であるツアンポー川は、ヒマラヤ山脈の峡谷地帯で姿を消した後いったいどこに流れるのか、昔はそれが分からなかった。その謎が解かれた後もツアンポー峡谷の奥地には巨大な滝があると噂され、その伝説に魅せられた多くの探検家が、この場所に足を運んだ。

    第8回開高健ノンフィクション賞受賞作。読み始めて先ず、3世紀前にも”プラント・ハンター”なる職業があったという事実に驚いた。未開の地に咲く珍しい植物を採取したり種を自国に持ち帰り売って生計を立てる仕事だ。それだけ、先進国は昔から未知なる大陸や植物に目を付け憧れ、自然がもたらす大きな価値を知っていたということか。ドキュメンタリーには苦手意識があるが、とても読み易い文章で、最後まで飽きることなく読むことができた。開高健ノンフィクション賞に相応しい作品だと心から思う。
    彼の挑戦は学生時代の2002年と仕事を辞めて挑んだ2009年の2回。良くぞ生還できた。生命をかけてまで冒険する彼らを突き動かす原動力となるものは一体何なのか。角幡が最初にかの地に向かう数年前、日中合同で組織された探検隊の隊員であった同じ大学の人物がこのツァンポー川で遭難し、亡くなっていた。武井氏は先を漕いでいた後輩のカヌーが転覆し後を追いかけて遭難しているが、本書の中の一章にこのカヌーイスト、武井義隆氏について追悼した文章が紹介されていた。
    『あの時僕は本流に向かった君の本能的、直感的な判断に大きな感動を覚えました。そこに義隆君の勇気と偉大な人格を見たからですした。君はカヌーを通じて自然を考え、自分を見つめ、自らの人間性を高め、そうした体験の中から自然界の法則を識り人格を高めていったのですね。君の気高い精神は不滅です。あなたにとって冒険は「生きていくための新たな道を開く大きな扉」だった』。更に角幡さんは下記に続く文章を書いている。
    https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/af/0e325ff6733166b2e5f81767afab43b4.jpg
    たぶん、冒険者と呼ばれる彼らは、私たちが営む日常の生活に満足できないのだろう。普通に起きて飯を食べ会社に行き、家庭を持つような平穏な一日は、生死をかけて生きる瞬間瞬間をつないで生きた者にはぬるま湯にしか写らないのではないか。平凡な生活を長く続けるのは不可能で、生きている感覚を感じとれなくなるのではないだろうか。高見に登った人々には孤独な闘いが与えられ、それを貫く生き方を選ぶ厳しく険しい道しかないのではないかと思える。

    映像で「極夜」を観てもやはり同じ感想を持った。

    • まことさん
      しずくさん、新年明けましておめでとうございます♪

      ところで、しずくさんがいいね!をくださった私の『古本道場』のコメント欄にも、書きましたが...
      しずくさん、新年明けましておめでとうございます♪

      ところで、しずくさんがいいね!をくださった私の『古本道場』のコメント欄にも、書きましたが、やっぱり、しずくさんのタイムラインが、私のスマホのタイムラインには、載っていません。
      私も、最近、いいね!の数が通常の三分の一以下しか、こないことが、何度かあって、ブクログさんに「もしかしてフォロワーさんのタイムラインに載っていないのでは?」と、問い合わせ中で、年末年始のお休みになってしまいました。

      しずくさんのタイムラインも、もし私以外のフォロワーさんのタイムラインに載っていない様子があれば問い合わせた方がいいかと思います。
      私はしずくさんの、フォローはちゃんとチェック入っていますから。
      2024/01/03
    • しずくさん
      まことさん、今年もよろしくお願いいたします!

      タイムライン(そもそも私自身がタイムラインを理解できていない)のご心配をおかけしています...
      まことさん、今年もよろしくお願いいたします!

      タイムライン(そもそも私自身がタイムラインを理解できていない)のご心配をおかけしていますが、最近「いいね!」の数はあまり気にならなくなっております。理由は、最近レビューを書くのがしんどくなり(加齢かな?)、人様に読んでもらえるような感想を書けていないと恥じ入っていますから・・・。
      縁あって来て下さるブク友さんには感謝のしようもありません。励みになり嬉しくなるのも本当です。

      まことさんより年長の私も体調はすぐれません。
      どうぞお大事になさってくださいね。
      2024/01/04
  • 読後の脱力感が半端ない。
    一人旅が好きで、単独登山も(かつてだけど)、冬山もやっていた自分(角幡さんの足元にもおよばないが)にとっては、共感するところが多かった。
    情景だけでなく心の動きも見事に描写され、読みながらハラハラさせられた。

    最後のことばより。
    どこかに行けばいいという時代はもう終わった。どんなに人が入ったことがない秘境だといっても、そこに行けば、すなわちそれが冒険になるという時代では今はない。
    濃い緑とよどんだ空気が支配する、あの不快極まりない峡谷のはたして何が、自分自身も含めた多くの探検家を惹きつけたのか。歴史の中に刻みつけられた記憶の像は、地理的な未知や空白などといった今や虚ろな響きのする言葉の中にあるのではない。自然の中に深く身を沈めた時、見えてくる何かの中にこそあるはずだ。
    今の時代に探検や冒険をしようと思えば、先人たちの過去に対する自分の立ち位置をしっかりと見定めて、自分の行為の意味を見極めなければ価値を見いだすことは難しい。
    パソコンの画面を開きグーグル・アースをのぞきこめば、空白の五マイルといえどもリアルな3D画像となって再現される時代なのだ。そのような時代に昔と同じやり方で旅をしても意味がない。
    単独行で、衛星携帯電話といった外部と通信できる手段を放棄することが私の旅にとっては重要な要素だった。丸裸に近い状態で原初的混沌の中に身をさらさなければ、見えてこないこともある。
    極論をいえば、死ぬような思いをしなかった冒険は面白くないし、死ぬかもしれないと思わない冒険に意味はない。過剰なリスクを抱え込んだ瞬間を忘れられず、冒険者はたびたび厳しい自然に向かう。
    命の危険があるからこそ冒険には意味があるし、すべてをむき出しにしたら、冒険には危険との燃峙という要素しか残らないだろう。冒険者は成功がなかば約束されたような行為には食指を動かされない。不確定要素の強い舞台を自ら選び、そこに飛び込み、その最終的な責任を受け入れ、その代償は命をもって償わなければならないことに納得しているが、それをやりきれないことだとは考えない。
    リスクがあるからこそ、冒険という行為の中には、生きている意味を感じさせてくれる瞬間が存在している。あらゆる人間にとっての最大の関心事は、自分は何のために生きているのか、いい人生とは何かという点に収斂される。
    死が人間にとって最大のリスクなのは、人生のすべてを奪ってしまうからだ。その死のリスクを覚悟してわざわざ危険な行為をしている冒険者は、命がすり切れそうなその瞬間の中にこそ生きることの象徴的な意味があることを嗅ぎ取っている。冒険は生きることの全人類的な意味を説明しうる、極限的に単純化された図式なのではないだろうか。

    ツアンポー峡谷の旅を終えたことで、私は生きていくうえで最も大切な瞬間を永遠に失った、ともいえる。

  • ようやく読書の時間を取れるようになってきたため再開。
    二部構成、各6章-2章構成
    探検家の魂のノンフィクション自叙伝

    ・メインストーリー
    チベットのツアンポー峡谷にある、
    前人未踏の空白の五マイルを日本の探検家が単独で踏破を試みる。

    ・サブストーリー
    途中、角幡氏の回想シーンと、ツアンポー・チベットの案件にまつわる歴史的叙述のシーンがある。

    ・構成
    基本的には角幡氏の探検中のシーンがほぼありのまま語られる。

    ・特に印象的な場面など
    p.177
    当然のことだが、滝には地元の人たちから呼び習わされてきた名前があった。〜米国人が思い入れたっぷりに名付けた「ヒドゥン・フォール・オブ・ドルジェパグモ」でも、中国人たちが無機質に命名した「蔵布巴東瀑布群」でもない、「ターモルン滝」という美しい名前があったのだ。

    p.112,113
    息子はどこかに流れ着いたら、そこで修行をするんだと答えたという。そこはチベットの有名な聖地なんだ。それが2人の間に交わされた最後の会話だった。『今になって思うと、どこかに流れ着いたらというのは、死後の世界のことを言っていたのかなとも思う。今でもあの言葉の意味を考えることが多いんですが、行く前からある程度の覚悟はあったのかなと思います。』

    エピローグとあとがき全部

    ・気づき
    1.究極の追体験
    何かを追体験できる、というのが読書の魅力の一つだと思うが、そのような追体験のうち、何かしらは自分が共感できるものだったり、イメージしやすいものだったりする。
    ただ、この本はそこが全く異なっていた。
    角幡氏が体験した全ての出来事が、常軌を逸したものであり、私自身では到底真似することが不可能で、イメージさえも難しい領域にあるものだった。
    ゆえに1文1文読むのにとてつもなく体力を使ったが、その分だけ無知(未知)の世界の広がりを感じることができた。
    2.自分の行動の意味づけをすること
    彼が敢行した探検行為は、周囲からすればどういう意味があるのか疑問に感じるし、実際私も読んでる途中になぜこんな死のリスクを冒してまで冒険をしているのか…?という気分になった。
    角幡氏自身も探検途中にその意味するところを突き詰めきれてはいなかったのではないか。
    というのも、今なぜそれに取り組んでいるのか、その時々では本能的・直感的に分かってはいるものの、それを言語化するよりも先に体が行動しているからだと思う。
    言語化・意味づけをせずにやり過ごしてしまった体験は風化してしまい、せっかくの貴重な体験でさえも問答無用で錆びついてしまう。自分の血肉となるべき経験を無価値にしてしまうのは勿体無い。
    しかし、そうは言っても簡単に自分の行動の意味づけを行うことはできないようで、角幡氏もあとがきの部分で、全てを書き記すことはできていないと書いている。
    分からなければ何度も重ねて意味づけをする必要があるようだ。
    3.文の構成
    本書の内容はとんでもない出来事の連続ではあるが、割と最後の方は慣れてきて、若干単調に感じてくる。というのも、本書の位置付けが最初に提示されず、読み手が迷子になってしまうからでは?と感じた。最後の最後で本書の位置付けが明示され、その背景で書いたのね、と納得はできるが、その情報なしだと、どんな素敵な秘境があるのだろうと期待しながら読み進めるので若干面食らう。
    構成として、この冒険に何の意味があるのだろう、と疑問を抱かせる点では本書の構成がエピローグで伏線回収的になっていいのかも、と思ったりもしたが、最初に位置付け明記した方が親切とも思った。

  • 角幡青年がツアンポー峡谷にのめり込むきっかけの一つになった、キングドン・ウォードの「ツアンポー峡谷の謎」を二日前に読了して続けて読んだ。もっとも先に「空白の5マイル」を読み始め、これは先にウォードを読んどくべきと思いしばらく置いといたものである。

    そもそも題名が良い。この本を買った時点では、ツアンポー?だったが少し読み始めたら俄然引き込まれた。

    20世紀後半生まれの著者は遅れてきた冒険家で、本人も言っているように重箱の隅を突くようなことしか、世界初とか新発見みたいな事はないかもしれない。

    作者は2回(偵察を含めると3回)チベットに入っているようだが、最後のチベット行きが作品に深みを与えている。個人の熱量がすごい人なのだが、生死を分ける状況下心の中の葛藤動きが読者をも熱くささる。

    読んだのが文庫だったので、写真等が残念である。

    また、贔屓にしたい作者が増えた。

  • アドベンチャーはよくわかる。でも命がけの「冒険」がわからない。もっぱら危険が目的のように見える冒険がわからない。加藤文太郎や植村直己などの帰ってこなかった冒険者はどこに行こうとしたのだろう? ぼくが登山の本を読むのはそれが知りたいからだ。
    角幡唯介の「冒険」も、彼らの冒険に似ている。世界初にこだわり、空白にこだわる。命がけでない冒険は冒険ではないと言う。1年納豆だけで暮らすとか、スキップでフルマラソンを駆け抜けるとか、世界初でもそういうことは冒険者はやらないのだ。なぜなんだろう。
    この本にもその答えは書いてない。本人たちにもわからないのではないかと思う。危険に飛び込み、切り抜けた爽快感が、文字通り麻薬的な意味を持つのかもしれないと思う。

    ただ、読み終わってふと思った。
    子供の頃、日の暮れかかる知らない道を一人で歩いていて、もう戻ったほうがいいんだけれど、ここにはもう二度と来ないかもしれないし、あの角を曲がって向こうの景色を見ないと後悔するかもしれない、という下腹のざわざわするような気持ち。冒険者はそういう気持ちを忘れられないでいる人たちなのかもしれない。

  • 今更ながら角幡さんの初期の作品を読了。
    最近の作品に比べて粗削りさや若さも感じるけれど、既に、到達主義的な探検感から、探検の深淵のようなところへ向かって行っているのも感じられて面白かったです。
    この探検からさらに歳月が流れ、現在のツアンポー峡谷では、どのように人々の営みがあるのかも知りたくなりました。

  • 未踏地や未踏峰がほぼ無くなりつつある今の地球で、それでも冒険をするとすればどういう形が可能なのか?
    20世紀までの冒険は、功名心や功利心、あるいは知的好奇心に駆動されて、人跡未踏の地に踏み込みさえすれば冒険と見做された。とてもシンプルで、わかりやすかった。
    文明の発展とともに地図の空白地帯は消えていき、一見、わからないことなど何も無いかのようにさえ思えてしまう。だから21世紀の冒険は「今、どこに行けば冒険になるのか」「どのような旅をすれば冒険になるのか」という、冒険の定義から始まらなければならないらしい。とても、知的な作業だ。単なる命知らずの冒険野郎では、もう、本当の冒険には辿り着けないのだ。
    そういう意味で、角幡さんは「冒険とは何か?」を真摯に突き詰め続ける、求道的冒険者としてとても魅力的だと私は思う。
    次なるフロンティアを角幡さんがどこに描き出してゆくのか、とても楽しみだ。

  • チベットのツアンポー峡谷にある地図にない空間に挑む若き青年のノンフィクション・ルポ。

    新聞記者の経験もある著者なので、読ませるし、読みやすい。

    冒険・探検物が好きなら是非オススメの本です。

    ヤル・ついにはシャングリラが…。著者はたどり着けるのか⁉︎

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著者プロフィール

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)
 1976(昭和51)年北海道生まれ。早稲田大学卒業。同大探検部OB。新聞記者を経て探検家・作家に。
 チベット奥地にあるツアンポー峡谷を探検した記録『空白の五マイル』で開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞。その後、北極で全滅した英国フランクリン探検隊の足跡を追った『アグルーカの行方』や、行方不明になった沖縄のマグロ漁船を追った『漂流』など、自身の冒険旅行と取材調査を融合した作品を発表する。2018年には、太陽が昇らない北極の極夜を探検した『極夜行』でYahoo!ニュース | 本屋大賞 ノンフィクション本大賞、大佛次郎賞を受賞し話題となった。翌年、『極夜行』の準備活動をつづった『極夜行前』を刊行。2019年1月からグリーンランド最北の村シオラパルクで犬橇を開始し、毎年二カ月近くの長期旅行を継続している。

「2021年 『狩りの思考法』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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