ママ・グランデの葬儀 (集英社文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087600797

感想・レビュー・書評

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  • 今私が参加している「百年の孤独 連続読書会」の副読本として読んだ。30年ちかく前に読んでの再読だが、当時はラテンアメリカ文学を読み始めたこともあり全くわかってなかった。

    「百年の孤独」よりも前に書かれた作品集だが、後にマコンドとなる村の原型である村が舞台となっている。
    百年の孤独の感想はこちら
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4105090011
    読書会では「ガルシア・マルケスは曜日にこだわるのか?」という意見が出たのだが、たしかにこの短編集でも曜日の記載がけっこうある。
    ガルシア・マルケスでもマジックリアリズム手法の小説は、時間の流れが遅くなったり早くなったり戻ったり巡ったり同じところをぐるぐる回ったりするのだが、そんな彼にとって日々の流れを意識するのは曜日なのだろうか。

    『大佐に手紙は来ない』
    かつて国を二分した内乱から数十年経った。
    退役軍人には恩給が出ると決まってからも十五年を経ている。
    七十五歳になった大佐は、ただただ毎週金曜日に支給の手紙を待つだけの男になってしまった。
    物乞いじゃない。国のために戦ったのに。かつてアウレリャーノ・ブエンディーア大佐と一緒に戦ったというのに。
    頼りにしていた一人息子は政治的ビラを持っていたため9ヶ月前に射殺されてしまった。
    売れるものはすべて売り、手元にあるのは息子が遺した闘鶏用の軍鶏だけ。
    そして金曜日。
    大佐に手紙は来ない。
    先週も来なかった。今週も来なかった。来週こそ来ると思っているのにいつになっても手紙が来ない。
    「それまで私たち何を食べればいいの」と妻は問う。
    大佐は七十五年の歳月、その七十五年の人生の一分、一分を要してこの瞬間に達した。
    「糞でも食うさ」そう答えたとき彼はすっきりとした。すなおな揺るぎのない気持ちであった。
    ===
    この短編集では「百年の孤独」の主要人物の一人であるアウレリャーノ・ブエンディーア大佐の名前が何度か出てきます。時系列でいうと「百年の孤独」でアウレリャーノ大佐が死んだ後くらいになるのかな。
    「百年の孤独」でアウレリャーノ大佐は内乱後はなんの保証も名誉も求めず故郷マコンドで暮らしていましたが、「大佐に手紙は来ない」の大佐はただただ来ては去る金曜日を繰り返すだけの、無為の日々を積み重ねるしかない老後を送っています。
    ガルシア・マルケスが曜日を書くのは、繰り返しの単位が年だと長いし、月だと季節とかの変化がありますが、曜日というのはすぐに来るけれども気がついたらこんなに重なっていたのだというのに丁度いい単位なのかもしれません。


    『火曜日の昼寝』
    火曜日。
    日に数本しかない電車に乗って、母親と少女とがマコンドにやってきた。
    母親は昼寝中だった神父を起こし、埋葬された息子の墓に行きたいという。
    息子は数日前に、家に閉じこもって28年目のレベッカ夫人の家に忍び込もうとして射殺されたのだった。
    神父の「あなたは息子さんを正しい道に入らせようとしたことは一度もないのですか?」という問いかけに、母親は「あれはとてもいい人間でした。私はよくあの子に、食べるに必要だからといって盗むことは絶対にしないように言っていました。ボクサーで稼いだお金で食べた物は、あの子の血の味がしました」という。
    神父は、母親と少女とが泣き出そうとしていないのを一種の敬虔な驚きの気持ちで見ていたのだった。
    ===
    レベッカは、「百年の孤独」で夫の死後、50年間閉じこもった女性。
    真夏の一番熱い時間帯に訪ねてきた母と娘は、町の人達が気がついて集まってきても「私達はこれでいいんです」と焼け付くような日差しの下に出てゆく。息子が泥棒として射殺され、村人の好奇に晒されてもびくともしない女達の姿。


    『最近のある日』
    月曜日。
    歯医者の元に村長が訪ねてきて、自分を5日間苦しめている親不知を抜いてほしいというお話。
    本当にそれだけなんだけど、「抜かないと撃つぞ」「撃ち返してやる」みたいなやり取りがありごく自然に銃を持っている。
    そして歯医者は麻酔無しで親不知を抜いた後に「中尉、あんたはこの歯でわが方の二十名の死者の償いをするんだ」と、”恨みよりもむしろ苦い優しさを込めて”言った。
    彼らは国中で保守派と自由派に二分されて内乱が起きたときに、同じ村から敵味方に分かれて戦ったのだろう。
    「百年の孤独」では、主要人物の一人のアルレリャーノ・ブエンディーア大佐も過去の色々をすべて内諾して故郷のマコンドに隠遁した。
    内乱から長い年月が経ち、同郷の知人が敵になりまた同郷で暮らすようになり、恨みがあってももうそれもひっくるめて暮らしているのだろう。


    『この村に泥棒はいない』
    日曜日とその前後。
    ダマソは玉突き屋に泥棒に入ったが、そこには金目のものはまったくなく、しかし手ぶらも悔しいので赤と白の三つの珠を盗ってきただけだった。
    17歳年上の女房アナは妊娠中。
    玉突きや泥棒に関しての噂は、玉突き台ごと運び出したとか、レジの二百ペソを盗まれたんだとか、まるで犯人である自分も信じてしまいそうだ。
    そして「この村に泥棒はいない」ということから、たまたま立ち寄ったよそ者の黒人が逮捕される。
    黒人にはアリバイを証明する女がいたが、警察が「お前も共犯として逮捕してやろうか?」で片が付いた。
    だがダマソとアナは、黒人の罪を着せ、泥棒の証拠である赤と白の珠をこのまま持っていることに負担を覚えた。
    こっそり返せば、黒人が犯人ではないってわかるんじゃないだろうか?
    だが村の人達はそんなに単純ではないのだった。


    『バルタサルの素敵な午後』
    4月の第一週。(曜日は出てなかった!)
    大工のバルタサルは、ドン・ホセ・モンティエルのところのペペ坊っちゃんの依頼で鳥籠を作った。
    それは二週間かかりっきりで作ったものだった。
    バルタサルには普通の鳥籠だったが、町の人達は世界で一番美しい鳥籠だ!と持て囃す。
    モンティエルの家に届けに行ったが、実は思われているほど大金持ちでないモンティエル氏に取り消しを言い渡された。泣くペペ坊ちゃんに対して「これはプレゼントです」と言って家を出た。
    バルタサルは、見ていた町の人達から喝采で迎えられ、ビールをおごったりおごり返したり、有り金で飲見尽くしての大騒動。
    だけどとってもいい気分だったんだ。


    『モンティエルの未亡人』
    水曜日の午後2時。
    ドン・ホセ・モンティエルがベッドで死んだ。
     本当に?あの人はいつか刺されると思ったのに。そもそも本当に死んだのか?
    ホセ・モンティエルは、反政府主義者の銃殺や、大金持ちの土地の買い上げと追放で財を成した。
    だがいまでは広大な農場は寂れて負債だらけ。
    ドイツにいる息子、パリにいる二人の娘は「こっちはまるで天国。政治的理由で殺し合いをしているそんな国に戻らない。だいたい自分が戻ったら父のことで銃殺されるかもしれない」といってきた。
    それまで現実に全く触れなかった深窓の令嬢から深窓の奥様になったモンティエル未亡人は、それなら仕方がないわ、と思う。
    そしてまだ屋敷内にいるママ・グランデの幽霊に私はいつ死ぬのでしょうか?って聞いた。
    「おまえの腕がだるくなったときだよ」


    『土曜日の次の日』
    レベッカ夫人は、最近マコンドに鳥の死体が降ってきていると知った。
    悪魔を三度見たことのあるアンヘニオ・イサベル神父は、火曜日と、水曜日と、金曜日に鳥の死骸を見た。
    そしてその次の土曜日に、イサベル神父はレベッカ夫人の家の前でまだ息のある鳥を拾った。
    その土曜日の午後、マコンドには数年ぶりに旅人が訪れた。汽車に乗り遅れたその旅人の青年は、次の汽車が来る月曜日までこの名前を覚える気もしない村に留まらなければいけなくなった。
    そして土曜日の次の日の日曜日、もう百歳近い高齢と「三度悪魔を見たことがある」と言ったため村人から相手にされていないイサベル神父は、数年ぶりに自分の説教を聞くために他所から来た若者が協会に入ってくるのを見た。
    ===
    マコンドが「百年の孤独」っぽくなってきた。
    イサベル神父の、ある考えや言葉を忘れてしまったのに、頭の片隅に残り続けていて、何十年も立ってから口を付いて出てくるというその経験が分かるような不思議なような。「不思議な人」というのは、ぜんぜん違うものがあるとき突然つながるのだろう。


    『造花のバラ』
    初金曜日の聖体拝受に行きたかったのに、服を盲のおばあさんに洗濯されていけなくなったミナの愚痴と恋のお話。


    『ママ・グランデの葬儀』
    全世界の不心身な者たちよ、これは、九十二年間に渡って統治者として生き、さる九月のある火曜日、徳望を謳われて他界し、その葬儀には法王が参列したというマコンド王国の絶対君主、ママ・グランデにまつわる真実の物語である。

    マリア・デル・ロサリオ・カスタニェーダ・イ・モンテーロだった二十二歳の娘は、父の葬儀からママ・グランデとなって戻ってきた。
    かつて国を二分した内乱も収まり、マコンドのバナナ農場での虐殺も忘れ去られ、かつて共和国のために戦い戦争年金の支払いを待ち続けている老人たちがいる村に、ママ・グランデは、精神的にも、政治的にも君臨していた。
    彼女の葬儀には、サン・ホルヘの洗濯女・カーボ・デ・ベラの真珠採り・シエネガの漁師・ウレの塩田夫たちが列をなし、宝くじ台・揚げ物台・首に蛇を巻き付けた男共・丹毒の治癒・永遠の生命を保証する決定的な香油を売らんとする者たちとで賑わっていた。
    ママ・グランデの葬儀に立ち会った者たちは、自分たちが新しい時代の誕生に立ち会ったのだと理解した。
    法王や大統領に影響を与え、群衆達に君臨したママ・グランデは死んだのだ。
    ===
    ガルシア・マルケスの筆が乗っている感じ(笑)
    現実しか書いていないのだが、ガルシア・マルケスの饒舌、羅列が発揮されてなんとなく幻想文学的な雰囲気を持つ一作。

  • 中編「大佐に手紙は来ない」のほか、マルケス初期の7編の短編をおさめた作品集。
    マルケス自身が『百年の孤独』以前に書いた作品は、すべて『百年の孤独』を書くための習作だった、と言っているが、この本は彼の作風が変化していく過渡期にあたるもので、その意味でなかなか興味深い。
    「大佐に手紙は来ない」など収録作の多くはリアリズムの手法をとられ簡潔な文体描写が特徴であるが、後ろのほうに入っている「土曜日の次の日」「ママ・グランデの葬儀」などは『百年の孤独』を彷彿とさせるいわゆる魔術的リアリズムの萌芽がみられる。

    どの短編にも共通していえるのは、彼の短編には、必ず一人(あるいは二人)印象的な人物が登場し、その人物を実に生き生きとじっくり描いている点で、それが彼の小説に圧倒的な「本当らしさ」を付け加えていると思う。振り返ってみると、どんな話だったか覚えているものはあまりなかったりするのだが、にもかかわらず読んでいる最中は不思議と小説世界に引き込まれてしまうのは、登場人物がもつ圧倒的な現実性に由来すると思う。

    やっぱりマルケスは上手いなあ、と思い知らされてしまった。『百年の孤独』と併読すると面白さが増すと思う。

  • マルケスの魔術的リアリズムの都「マコンド」を舞台にした短編集。
    その後のマルケス作品の特徴でもある幻想性や魔術的手法はほとんど目立たたない。
    徹底的なリアリズム視点で、
    20世紀南米の「貧しさ」「政治の腐敗」が極めて端的に語られる。
    ただし、人々の生活をリアルに描けば描くほど、
    むしろ日常がどこかねじれた滑稽なものとして浮かび上がる。
    『大佐に手紙は来ない』
    『火曜日の昼寝』が特に印象深い。
    「貧しさ」は大抵正直者(いささかの皮肉も込めて)に押し付けられ、
    往々にして賭け事や犯罪と隣り合わせで、
    いつの時代も「政治」によって生み出される。

    何十年も前に政府からもらえると言われたはずの恩給の通知がいつか来るはずだと信じ続ける大佐。
    信じる大佐がおろかなのか、政変を理由に「無かったこと」にする政治が悪いのか。

    「そんなのんきなことではいけませんよ、大佐」先生が言った。「われわれはもう救世主を待っていられるほど若くはないんですから」

    年金問題を考えると、地球の裏側、半世紀前の話と笑ってもいられない。

  • 孤独の積算で歴史は織り成されるということ。

    虚構と現実の等しく絡むるの地・マコンドを舞台にした短編からなる本書は、各編に様々な実験的手法が用いられて肌ざわりが異なる素材ではあるものの、時間軸をなくした一葉の群像劇であるかのような印象を受ける。

    主人公たちは一様に死と密接に関わりながら、穏やかな自殺をするかのようにそれぞれの孤独を味わっている。どの物語もささやかな着地を試みながら、その果てのない、あてどもない行く末を匂わせている。

    リアリズムと幻想文学の蜜月を感じさせてくれる珠玉の一冊。私は古書として巡り合ったが、鮮やかな表紙にとりつかれる想いがした。

  • ふと立ち寄った古本屋で、絶版文庫を発見。160円ほどで買えてほくほく。ウキウキしながらページを繰ったのだけれど、読んでいるうちに、救いのなさにだんだん元気がなくなってくる(苦笑)。

    短編集ですがすべて「百年の孤独」と同じ架空の町マコンド周辺を舞台にしており、テーマも手法も百年の孤独とは違うけれど、スピンオフ的な感覚で読むとまた印象が違うかも。

    自殺する鳥と100歳近い神父さんの奇妙な言動がいちばん“ガルシア・マルケスっぽい”気がする「土曜日の次の日」と、百年の孤独のテイストに近い気がする表題作「ママ・グランデの葬儀」、リアリズムなんだけど、お腹の中にきのこが・・・とか考えちゃう大佐がやっぱりラテンアメリカ的(※個人のイメージです)だと思ってしまう「大佐に手紙は来ない」が好きでした。

    ※収録作品
    「大佐に手紙は来ない」「火曜日の昼寝」「最近のある日」「この村に泥棒はいない」「バルタサルの素敵な午後」「モンティエルの未亡人」「土曜日の次の日」「造花のバラ」「ママ・グランデの葬儀」

  • 表題作を含む9つの短篇を収録する。物語の舞台はいずれもマコンドとその周縁であり、その意味でも『百年の孤独』との親縁性は大きい。私は、荒唐無稽な(これもまた、ガルシア・マルケスの特質の一つではあるのだが)「ママ・グランデの葬儀」よりも、作家が極貧の中で11回も書きなおしたという巻頭の「大佐に手紙は来ない」のリアリズム系列の方を取る。ここにあるのは15年間も諦めない執拗さと、それとは矛盾するようだが、願望が実現しないことを知っている諦念とが共存する。そして、その底流にあるのは「ここではないどこか」への想いだ。

  • 『百年の孤独』のマコンド関連の短編集。アウレリャーノ・ブエンディアという名前にも聞き覚えが。文体がだいぶ違うけれど、そこはかとない悲しさが漂っていてよいと思う。表題作『ママ・グランデの葬儀』がいちばん好きかな。

  • ノーベル賞作家、ガルシアマルケスの絶版文庫。実家より拝借。今回は短編集。実は他の作品はいくつか読んでるのに、『百年の孤独』未読なのだけれど、この短編集の舞台は『百年の孤独』と同じ町らしいのです。早く『百年の孤独』読まんとなー。人に聞くところによると、同じ名前の人が出てきてややこしいとかなんとかで、なかなか手がでない。

  • (1983.01.05読了)(1982.12.25購入)
    *解説目録より*
    灼熱の大地にくり広げられる飢えと孤独、暴力と革命! いかなることも起こりうる架空の地マコンドの地母神ともいうべきママ・グランデの葬儀を奇想に満ちた文体で描く表題作。

  • どの話でも、登場人物は誰にも助けてもらえない。ひとりで穴に落ち込んで、そこから出られない。太陽は暑すぎるし雨はやまない。なんでこんなに非情な世界ばっかり書くんだろう。自分の日常が甘ったるくてウソみたいに感じるくらいだ。

    「ママ・グランデの葬儀」以外は、ひらひらのないくっきりした文体で、読んでいて気持ち良い。女の人の芯が強いのもいい感じ。

    「大佐に手紙は来ない」の「出る家を間違える幽霊」のエピソードが、にやりとさせられて妙に心に残った。

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