- Amazon.co.jp ・本 (360ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087604528
作品紹介・あらすじ
静かな辺境の町に、二十数年ものあいだ民政官を勤めてきた初老の男「私」がいる。暇なときには町はずれの遺跡を発掘している。そこへ首都から、帝国の「寝ずの番」を任ずる第三局のジョル大佐がやってくる。彼がもたらしたのは、夷狄(野蛮人)が攻めてくるという噂と、凄惨な拷問であった。「私」は拷問を受けて両足が捻れた夷狄の少女に魅入られ身辺に置くが、やがて「私」も夷狄と通じていると疑いをかけられ拷問に…。
感想・レビュー・書評
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帝国の辺境の町に、首都から治安警察の大佐がやって来たことで暮らしが一変する。
夷狄が攻めてくる、夷狄を捕らえろ。女だろうと、敵とみなして拷問する。
だけど夷狄の脅威を本当に感じたことはあるのだろうか。実態の分からないものを理由にして、暴力を振るっているだけなのでは。
物語では、拷問された夷狄の少女を介抱した民政官が、そのことで夷狄と通じている疑いをかけられてしまう。
彼はその町に長年暮らし、夷狄が自ら攻撃してくることはないと感じているのだが、治安警察にはそんな考えは通用しない。
それとも、どちらであっても構わないのだろうか。権力者はやると決めたらやるだけなのか。
固有の地名は出てこないし架空の世界の話ではあるけれど、解説を読むと、南アフリカの歴史が下地にあるらしい。
それを知らなくても、地球上のどこかでこんな歴史があっただろうなと思わせるような話だ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
人間は集まり力を持つと暴力性を帯びる。歴史は人間という集団の暴力の物語であり、これまでそしてこれからもそうなのだろうと思う。家族から国家まで、どの規模の共同体でも争いが起きる。民政官の夷狄に対する考え方は平和的で道徳的にも正しく聞こえるが、暴力の前に屈してしまう。そして誰も彼を助けない。「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。沈黙は、暴力の陰に隠れた同罪者である」とはキング牧師の言葉。 表紙のエルンストが好き。
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蛮族との紛争が予期される辺境の地で執政官を務める男性が主人公…と聞いて、『タタール人の砂漠』のように、結局蛮族は攻めてこない系の話かと思っていたけれど、蛮族全てを「敵」と見做すのでなく、法と正義を遵守するべきと考えた男が、軍部との対立から厳しい弾圧や拷問にかけられていく話だった。
蛮族の娘を助けたことに対し、男に下心が決してなかったとは言えないはずだが、全体主義という環境の下や、同調圧力強い環境の中で、自分は自分の正義を貫けるのか?という視点から読むと非常に重たい内容だったと思う。 -
南ア旅行中に読んだので、南ア、アパルトヘイトに近づけて読んでいた。これが初期の作品なのか、なるほどクッツェーが描き続けるテーマは共通している。ディストピアの荒廃と暴力、虐げるものと虐げられるもの。
仮想的な敵として夷狄を追い回し痛めつけ、市民の思想も縛ろうとする帝国の狂気が、不毛の土地で空転する。辺境の地の描写、特に娘を連れた旅の過酷さや夷狄の集団を繋ぐやり方の残酷さなど、鮮烈なイメージを残す。
しかしバーバリアン=夷狄という訳は分かりにくくないか? -
根拠のない理由で「帝国」の「軍隊」が先住民の「夷狄」を敵視して横暴を働く。その地で長年、民政員として先住民との共存を模索する主人公。
作者の経歴から察するにおそらくモデルとなる地は南アフリカ、東ケープ州だが、舞台を特定されるような固有名詞が出てこないことによって普遍的な物語として構築されている。この本が(原書で)出版されたのは1980年だが、おそらく今の時代に読むわたしたちには、この「帝国」は、大量破壊兵器を見つけられないままイラク戦争を続けた米国の姿に重なるかもしれない。さらにその昔、ヨーロッパの白人がアメリカの先住民をそうしたかのように。2003年にクッツェーがノーベル文学賞を受賞したのはこの意味合いが強いのかと想像。文明が洗練されてくると未開人をインテレクチュアルに理解しようとするのがヨーロッパ中心主義からの反省か。 -
「帝国」の端にある砂漠のオアシスで、周囲を城壁に囲まれた都市の民政官を務める初老の男「わたし」。大事ないまま過ぎようとしていたその任期の終わり近くに、「夷狄」と呼ばれる遊牧民たちの脅威を払うためとして、首都からジョル大佐が派遣されてくる。帝国の愚行が招き寄せる大きな災厄を示しているような捕虜の拷問につよい嫌悪感を抱く一方、「わたし」は拷問によって視力を失った夷狄の女になぜかのめりこんでいく…
きわめて抑制的な「わたし」の語り口が、むしろこれからやってくる大きな暴力の波を予感させて、なかなか先に読み進めなかった。その恐ろしさは、部分的には、語り手があきらかに民政官として帝国の方針に反対しているためなのだが、実際のところ、スケープゴートにされるのは彼自身ではない。ジョル大佐が「義人のつもりか」と嘲笑うように、実際のところ、自分は帝国の権力がもつ穏やかな側の面にすぎないのだと、語り手は悟ることになるのである。
夷狄の女の身体に対する語り手の耽溺(通常の性的意味でなく)もまた、拷問やレイプと対極にあるように見えながら、帝国による凌辱の別の側面にすぎないということなのだろうか。ここで思い出されるのが、語り手がひそかな趣味としている、過去の遺跡の発掘であり、夷狄の女の身体の表面をさすりながら忘我の眠りに引き込まれるありさまは、支配する対象の過去の文化を愛でる知的植民地支配と似通うものであるのかもしれない。
遠征者たちを砂漠に引き込み全滅させながらもついに最後まで夷狄は姿を現さない。災厄の気配は前面化しつつもなお恐ろしい予感のままにとどまり、と同時にここには生々しい、傷つけることも触れ愛おしむこともできる肉体の手触りがあるのだ。 -
夷狄が来るという噂の辺境の町。初老の民政官が反抗・内通を疑われて拷問される。
疑われるのは本人のせいもあると思うが・・ -
【G1000/28冊目】夷狄とは野蛮人的な表現で文化の埒外にいる部族を一般的には指す。よって帝国から見れば敵ですらなく、人ですらない。民政官はその夷狄の女に不思議な魅力を覚えるが、それは性的なようでありそうでもなく、人としての根源的な交わりであったのかも知れない。しかし、夷狄は帝国にとって帝国を帝国たらしめる存在であり、帝国であるために夷狄を弑虐するのである。つまり、夷狄は夷狄というだけで弑虐される。ここに人種差別とは、ただ文化的な暮らしをする者から見て、文化の埒外にあると判断されただけのことなのである。