母性のディストピア

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  • 集英社
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  • Amazon.co.jp ・本 (512ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087711196

感想・レビュー・書評

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  • 戦後日本が背負った”悪い場所”性を「母性のディストピア」と形容し、それに対しアニメ作家の巨匠たちが挑んだ臨界点を提示することで、来るべき「拡張現実の時代」「ネットワークの世紀」へいかにして「映像の世紀」で得た遺産を相続するか、それを問うた浩瀚な評論。

    まずはなんと言っても、宮崎駿・富野由悠季・押井守という日本アニメを代表するアニメ作家への、批判の切れ味の鮮やかさと深さ。愛あってのゆえだと思うけれど、ここまで痛烈に書き切るひとをわたしは知らない。作品をすべて追えているわけではないので、作家たちがどこまで「母性のディストピア」の重力に引かれたのか、それは分からないけれど、その刃の鋭さとまとめ上げる強靭さに惚れ惚れした。

    とりわけ、あとがきでも畏敬の念を伝えている富野由悠季の章はアニメ批評のなかでも画期なのではないか。宮崎・押井が映画批評の文脈で評論されることはあっても、富野はぼぼTVアニメ作品のため(そして付言すればアニメ商業誌における否定的な語り口の難しさのため)、肯定的に語られることがあっても批評されることが、言いかえれば「可能性の中心」が論じられることはなかったと思う。宇野はここで「ニュータイプ」の2つの道を示し、ララァ的なものの隘路から脱し、アムロが示した拡張家族的な「ニュータイプ」の可能性をアップデートすべきと説く(強引な要約なので詳細は本書を読まれたい)。

    それらを経て第6章では「ネットワークの世紀」に映像文化はいかに個人と世界を接続できるのか、ということが問われる。いっけん前向きに見えるこの問いは、そして何度も宇野が肯定的な言葉ー「……である」ことを語る意義を繰り返すことーと裏腹に、映像文化への断念から出発していることを忘れてはならない。

    ****
    恐らく20世紀的な「映像」文化がかつてのような社会的機能を取り戻すことはないだろう。私たちは、マスメディアが社会を構成する時代に、その王者として君臨していた映像分野がもっとも果敢に時代の感性を代表し、世代の共通体験となる神話を生んできた時代に「たまたま」生きてきた。しかし、その時代はいま、終わろうとしている。それは(個人的にはすこし寂しいことだが)、一つの表現のジャンルが成熟し、社会の変化に応じてその役割を変貌させたにすぎない。
    ***
    p419(第6章 7)

    では新たな時代の申し子/仮想敵は何かといえば、「Ingress」「ポケモンGO」というGoogle(=ジョン・ハンケ)が生み出したゲームたちだ。ゲームを介して(結果的に)個人が能動的に世界と歴史に接続する可能性を拓いたこと。それを映像において実現可能かが論じられる。

    そのもっとも漸近した作品が、宇野が手放しで絶賛はしないけれど(宇野は何度も「これはアイロニーだ」と注釈を入れている)、庵野秀明「シン・ゴジラ」なのだろう。本章では「シン・ゴジラ」をどうアップデートすべきなのかを、吉本隆明(『共同幻想論』『ハイ・イメージ論』「大衆の原像」等)の批判的読解を中心に、加藤典洋・浅田彰・大塚英志・宮台真司・東浩紀ら批評家たちの言説を一気呵成に論じて、可能性を探っていく。

    この議論は多岐にわたるので、その行き着いた先については本書を読んでほしいけれど、おそらく本書の「具体的な」回答は本書外に、つまり今後の宇野の活動の中で示していくのだろうと思う。

    購入時はこの厚さにうろたえたが、本書で紹介される作品をAmazonプライムで流しながら(映像の世紀の果て!)進めていたら、熱量にほだされて一気に読んでしまった。楽しい、でも大変な読書体験だった。



  • 宇野さん新著『母性のディストピア』をようやく読了。宮崎駿・富野由悠季・押井守、日本アニメーションの三巨頭の作品群を辿りながら、戦後日本から現在に至る、日本の現実と虚構を暴く。世界と個人、公と私、政治と文学、まさに『考えることを考える』を教えてくれる一冊。

    世界と個人、公と私、政治と文学を結ぶもの。いや、近代日本という未完のプロジェクトにおいては常に結ばれたふりをすることでしかなかったのだが、このいびつな演技のために彼ら(村上春樹と江藤淳?)が必要としたものは「母」的な存在だったのだ。
    妻を「母」と錯誤するこの母子相姦的想像力は、配偶者という社会的な契約を、母子関係という非社会的(家族的)に閉じた関係性と同致することで成り立っている。
    本書では、この母子相姦的な構造を「母性のディストピア」と表現したい。p33

    20世紀の、特に「虚構の時代」を生きた世代(私もそうだ)は、個人的な体験の断片から世界の全体性を把握できるようになることが社会化であり、成熟と考えていた。このとき個人の体験という断片から本来記述不可能な世界の全体性への蝶番になってくれる抽象化装置として虚構が機能していた。
    しかし、社会の情報化はこの前提を破壊した。現代において世界の全体性というのは非物質的なデータベースとして存在していて、そこにいかにアクセスするかという個人の能動性だけが問われるようになった。そのことに世界中の人々が戸惑いながら試行錯誤し、新しい蝶番を生み出そうとしているのが現代という時代だ。p84

    多文化主義という政治的なアプローチが破綻し、カリフォルニアン・イデオロギーという市場的なアプローチが最初につまづきを見せた2016年を経たいま、文化的なアプローチでこのアフター・ブレグジットの、アフター・トランプの世界について、本書でこれまで論じてきた戦後サブカルチャーの思考を応用してとらえ直してみたい。p476

    Googleは「映像の世紀」の物語(劇映画)的アプローチとは異なる方法(データベ-スの整備とゲーミフィケーション)でゲーム的にー「大きな物語」ではなく「大きなゲーム」でー世界と個人、公と私、政治と文学との接続を試みているのだ。p486

  • 【配架場所、貸出状況はこちらから確認できます】
    https://libipu.iwate-pu.ac.jp/opac/volume/568694

  • 脳天気にアニメを楽しんできてすいません。そうか、創作する人というのはそこまで考えているのか、本当にすいません、な気持ちでした。 ここまでこのボリュームいるかなと何度も本を閉じようとするたび、不思議な吸引力で完読しました。 中間の必要性、佐藤優さんとかもいってましたっけ。内容はちょっと違うかな。

  • ジェンダー

  • 2018.06.19 宇野常寛氏のツイートで著書を見つけた。宮崎駿氏は母性のユートピアを描き、富野由悠季氏は母性のディストピアを描いたということなのだろうか。母性はポジネガ両面ある。母性のネガティブな面は、子育てにマイナス作用を及ぼす。教育ママ、ヒステリー、溺愛、虐待など。

  • 対象を批評という串で刺すのではなく、宇野という串にあうように対象をねつ造・誤読して批評ごっこをするだけの芸風を堪能できる。

  • かなりの量を割いて、3人のアニメ監督の作品がどのような背景か、何を伝えているのかを宇野さんの視点で分析して論じている。たしかに10時間くらい読んでたかも…

  • 難しいことも、同じ話を本文中で何度もしてくれているので、意外と読みやすかったです。

  • アニメーションの巨匠達が、何を描き、何に絶望したか。幼稚園年長の頃に再放送でZZ、小1にリアルタイムでVを観始め、ひたすらガンダムにはまっていった身としては、揺さぶられるものが多々あった。社会への批判力を持つ作品を描くというのは、99%の諦観と、1%の祈りの間で魂を絞り出す様なものなのかと思うと、切なく感じながらも、ますます魅入られてしまう。

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著者プロフィール

1978年生まれ。評論家。批評誌「PLANETS」「モノノメ」編集長。主著に『ゼロ年代の想像力』『母性のディストピア』(早川書房刊)、『リトル・ピープルの時代』『遅いインターネット』『水曜日は働かない』『砂漠と異人たち』。

「2023年 『2020年代のまちづくり』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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