- Amazon.co.jp ・本 (360ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087734898
作品紹介・あらすじ
夢の中では海を冒険し、昼は誰かに殺される気がする15歳の僕。いつか夢は現実と混ざり始め……。心の病による妄想や幻覚に翻弄される、少年の内面と成長をリアルに描く。全米図書賞受賞の青春小説!
感想・レビュー・書評
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«自分の意思は自分のもの»
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ケイダンという少年の目線を通じ、精神障害の方から見えている世界を覗いてみる
擬似体験型の冒険小説です。
ケイダンが段々現実と別世界の区別が出来なくなっていくことへの本人自身の苦しみと混乱がひしひしと伝わってきて、一旦読むのを止めてからもう一度ページを開くまでかなりの期間が空いてしまいました。
自分がどこにいるのか、誰とどんなやり取りをしているか。自分の見ているものや周りの人達を信じられないというのはこんなに不安なんだと思いました。
とても苦しく、またところどころ気持ち悪い描写も出てくるお話ですが、ケイダンと少し似た体験をした人にとっては「ケイダン」は自分だけじゃない、彼が「あちらの世界」に自分からノーと言えたように、幻聴や強迫観念に従わなくていい、自分のしたいように行動して良いんだと勇気を貰えますし、一般の人にとっては、「いつも・時々見かける変なあの人」や「クラスメイトや同僚のおかしなあの子」が自分とは違う世界を見ていることを理解する助けになるのではないかと思います。
著者ニールさんや、訳者の金原さんのあとがきも素晴らしいので、合わせて読んでみるのをおすすめしたいです。
※読んでいて気分が悪くなった時は無理せず本を閉じることをおすすめします。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
少年ケイダンの見ている世界はふたつの世界の狭間で揺れ動く――精神疾患を患う著者の息子さんの実体験をもとに描いた意欲作。
短い章を交互に読み進めていくと徐々にケイダンの置かれた状況が明らかになっていきます。高校生であり、大海原を航海する乗組員でもあるケイダン。タイトルで「世界がふたつある」と断言している通り彼の抱える不安が“航海”というかたちで巧みに表現され、現実ともう一方の現実をゆらゆらと行き来します。そして時にその境目があやふやになり、読者もまた、彼の体験を追体験している感覚に陥り途方に暮れる瞬間も。
さらに大海原へと歩みを進めるか、あるいは踏み留まるか。この作品の真理は「157」の章でしょう。良い読書体験をさせてもらいました。 -
統合失調症の少年が主人公。現実と想像の世界(妄想・幻覚)のあやふやな境界線上で生きる感覚・苦しみが描かれた物語。コーヒーに混ざっていくミルクみたいにふたつの世界が滑らかにつながっていて読み物としても面白く、シャガールの絵画のような彩に満ちた冒険も楽しめる。さらに精神疾患への理解も進む、おススメの一冊。
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精神疾患を患う少年のお話。現実と妄想が混ざりあっていく様子は、まったく理解できない世界ではない。誰でも自分の信じるものだけが現実で、それが隣の人と同じとは限らない。
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二つの世界が並行して描かれていて、最初は意味不明で退屈だった。
しかし、中盤以降、二つの世界の謎が徐々に解明されていく。
全く交わらないと思っていた二つの世界の出来事がリンクしていた。
ここからが面白く、一気に読んでしまった。
最初読んで退屈しても、中盤まで読んでみて欲しい。
一気に引き込まれる、、と信じている。
少なくとも自分は引き込まれた。 -
統合失調症の世界を大胆に描写。
主人公ケイダンは15歳。
高校生でありながら、海賊船での暮らしで海にも生きている。
潮の匂いを感じる摩訶不思議な世界はどこまでも彼の世界。
彼だけの世界に、船長、オウム、掃除夫などが行き来する。
この航海は、どこへどこまで続くのか。
映画を見ているような気になる程鮮明に映像が浮かぶ。
非現実的な登場人物たち。
これはリアルな精神疾患の世界。
この不思議な旅は同行するに値する。 -
『つまり、誰かを見るとき、その人を見ているのではなく、その人のむこうにあるものを見ているということだ。僕たちとはまったく次元がちがうものを見ている。たいていの場合、見ているのは人間じゃない』―『僕はコンパス』
全く違う世界が徐々に統合されて行く過程を「謎解き」と読むことも出来ると訳者はあとがきで書く。ああ船長というのはこの人のことで、これはMRIのことを指しているんだな、とか。海賊船の舳先のカリオペとのやり取りが妙に優しいのはそういう意味なんだな、など。けれど、それを謎解きと考える立場は精神的健常者、というか強者の立場であって、少し一方的であるとも思える。統合失調症を病むものの見る世界は決して解かれる謎という訳ではないし、それ程単純でわかり易いものではない筈だ。
『だけど人間は型にはめるのが好きだ。人生におけるあらゆるものを箱詰めにして、名前をつけたがる。けど、名前をつけることができるからって、箱の中身のことをちゃんと理解しているとはかぎらない』―『一種の宗教』
つまりはそういうことだ。人間は物事を単純化して考えたがる。二つの要素があれば、その間に相関関係があるだろうかと問いを立てたがる。複雑なものを複雑なままに受け止める事は得意ではない。
規則なんて極端に言ってしまえば「概算値」を求める為の経験知であって、どんなものにも誤差はある。その誤差の発生をまた別の規則で縛りあげようとしても誤差の誤差はどこまでも存在し続ける。その僅かな歪みを違和感として受け止めるか否か。小さな違いを大袈裟に捉えず無視できるかどうか。身体の方を着るものに合わせるような方法で現実を受け止められれば、物事は人間が決めた単純な規則従ってするすると流れてゆく。しかし合わせられなければ、小さな歪みは次第に蓄積し、大きな揺れとなって仕返しをする。
自分もその違和感に悩まされているように思う時がある。しかしうるさい小蠅のようにいつまでも目の前を飛び回っていて欲しくないから、なるべく単純な答えを用意する。間違っていることを正しいと認識し直す。いつしか黒を白という。なんだそんなことどこでも起こっていることじゃないか。二つの世界を生きているのは何も特別なことではない。それを別々の理屈で受け止められるか(ときにそれをダブルスタンダードと言うけれど)、何故同じ基準で考えないのかと悩むかの違い。
今日も何処かで、笑顔の仮面の後で舌を出す人がいる。そのことの方が余程、統合失調ではないかと思い至る。 -
外国の話ということもあり、何の話なのか私には分からなかった。いつか、分かって面白くなるかも!と思って最後まで読んでみたけど、この本は私には高度で合わない