神楽坂にある高層マンション「Maison Liberte」を舞台にした10本の短編集。
『空を分ける』・・・・・
19階1917号室で男性とルームシェアをしている20代後半の女性。梨花は結婚式の直前に婚約者と別れて3年になる。
女性とルームシェアしていることを、彼女に責められたことをきっかけに分かれたことを博人が話しているときの描写が心に残る。
「僕はひとりの人をそんなに深く愛せるような人間じゃない。一生ひとりの女性に忠誠を誓えるような立派な男じゃない。ぼくは愛とか本当は苦手なんだ。愛なんていったいなんだろうと思うよ」
梨花の心は半々に裂けていた。愛が苦手だと口にする博人は確かに正直で誠実そうだ。同時に一面からしか恋愛を考えられない根の浅い男にも思えた。
梨花から告白をするが、博人は受け取らなかった。
「明日からは、ほんとうにただのルームメイトにもどるのだ」とあるが、戻れるのだろうか…という余韻をのこして終わる。
『魔法の寝室』・・・・・
25階に暮らす専業主婦。光本麻耶と業界中位の印刷会社に勤める三歳年上の夫、真治の話。
マンションはローンの10年分を早稲田鶴巻町に住む麻耶の父が負担してくれた。
結婚して6年になる夫とのセックスはあるが、その描写を都電荒川線になぞらえるのが面白い。
いつもと変わらない手順で進むセックスは、終点の三ノ輪に到着することなく、遊園地前や町屋二丁目あたりで、真治が一人で先に終了してしまう。
それが寝室の壁紙を変えることで、麻耶も心も身体も開いていった。
「夜明けの空の部屋」は青ガラスのような夜明けの空に、純白の月が沈もうとしている壁紙の部屋。
その後その部屋を中心にまわる、二人のセックスの描写が素晴らしい。
「麻耶は頭から大波にのまれ、渦の中できりきりと回転しながら、はるかな高みへと連れていかれた。下腹部に小さな太陽が生まれたようだった。目がくらむような白熱の光が何度も収縮を繰り返している。
(略)
このまま何度か試していけば、また別の見たことのない光りが見えるだろう。自分自身のなかに輝きだす真夜中の太陽だ。」
二人のセックスが良くなって2週間、夫真治は自らの浮気を告白した。
『いばらの城』・・・・・
母親の影響で、自己肯定ができない35歳美広が、612号室を購入する話。
内覧に一緒に行った2年付き合っている1歳年上の彼茂人から一人暮らしになる1LDKのマンションを買うのを待って、自分と結婚しないかとプロポーズを受けたが、美広は断る。
「きっと幼いころから傷つけられてきた自分を守る、コンクリートの城が自分は欲しいのだろう。あまりに豪勢だったり、明るかったりしてはいけないのだ。すこし棘のあるいばらで囲まれたくらいが、自分にはちょうどいいのだろう。
今日は初めて自分の城と、その城に似合いの少しくたびれた王子を手に入れた記念日なのだ。」
プロポーズを断られても、寄り添う彼が現代的だと感じる。
『ホームシアター』・・・・・
17歳で高校を中退したひとりっこの長男との父子関係を描いた作品。
家族はマンションの8階に住んでいた。
マンションも望んで購入したわけではなく、都心の社宅が無くなることになって、老後資金として貯めていた資金をもとに購入した。
3LDKはそれぞれ夫婦の寝室、長男優樹の部屋、AVルームになっていた。
優樹は4年前から引きこもりのような状況になっていて、
ある日「優美」という名前の女性宛ての手紙が届いたことで、父親は息子に向き合うことになる。
AVルームで『スター・ウォーズ』を見ながら父子の思いを吐露する。
現実を受け入れ、そのままの自分で良いと思える作品。
『落ち葉焚き』・・・・・
63歳になる佐々木静子は、7年前に夫正明を亡くす。
持ち家だった場所が道路の拡幅工事のために取り壊されることをきっかけに、代替え候補として挙がったのが神楽坂の高層マンションの19階。
未亡人の集まりの中にたまたま合流した二宮雄介と付き合いうことになったのだが、雄介の娘が「父親と別れてほしい」とマンションに乗り込んでくる。
子供世代からみたら、還暦を過ぎた老人の恋愛は気持ち悪いのかもしれないが、自分がその年に近いと苦しくなる。。。
『本のある部屋』・・・・・
マンションの12階。47歳の長沼洋介は赤坂のクラブでホステスとして働いていた尚美を自分の蔵書を朗読させるために住まわせていた。
14畳ほどある部屋には、ダイニングセットと本棚しかなく、壁一面を埋める造りつけの本棚は、家具と同じ濃茶色の樫の素材。
洋介は結婚していたが、同時に十年来の愛人がいて、その愛人が尚美が暮らすマンションに乗り込んできた。
尚美は肉体関係のない愛人。
そのことを乗り込んできた女は理解できず、悪意を尚美に向ける。最後はステンレスの灰皿の中の灰を尚美に振りかけて帰っていった。
尚美は心の中で朗読を続けていた。
女の嫉妬は怖すぎる・・・一番ダメなのは洋介なのにね。
『夢の中の男』・・・・・
マンションの27階に住む緒方純子は子供のいない専業主婦。夫の忠志は虎ノ門にある外資系の証券会社勤務。
暇を持て余した純子が出会い系で男性と逢い、ひと時を楽しむのだが、その関係さえ空虚さを感じる作品。
『十七ヵ月』・・・・・
翻訳の仕事をしている主人公の真紀は、34歳の時大手家電メーカーのSEの誠二と結婚した。
共働きだったので、倍率6倍の抽選を勝ち抜いて購入した30階のマンションも自分たちだけで返済していた。
30代後半で授かった命は、未熟児として生まれた。
子供は3人は欲しいと思っていたが「不妊治療によって排卵日から強制された5日間連続の行為が傷になって、性が本来持っていた豊かさやたのしさが、永久に抜け落ちてしまった」二人はセックスレスになっていた。
子供がいればすべてがうまくいく激しく願ったが、子供がいることで、思うように仕事が進まない。
ジレンマの中で、真紀は自分らしく子供も愛し、仕事も続けることを考え続けることを心に決める。
子供のいる働く女性なら感じたことのある感情が描かれている。
『指の楽園』・・・・・
中堅建築会社インテリアコーディネーターとして勤務している”うらら”の楽しみは、自宅マンションから徒歩5分の場所にあるマッサージハウスでの施術。
担当の渉はうららより15歳年下の25歳。
1時間に満たない時間の施術だが、月に2万円ほどマッサージ代に使っている。
「仕事と結婚のストレスと肉体疲労の解消、それに加えて異性へのほのかな欲望まで満たしてくれるのだ」
広い寝室に二つ置いたベッドで別々に寝るうらら夫婦はセックスレスだった。
「若い男に身体を触れられるのは、性的な意味あいなどなくても、なぜか心の浮き立つものだった」と何度か言い訳めいた文章があるところに、うららの心情の揺らめきが表現されていて、石田衣良の表現の妙を感じる。
ある日彼女に振られた渉が、以前からうららに話をしていたラブホテルへ誘う。
軽くはない、声やの震えや指の力に現れる真剣な様子の告白に好感が持てるが、あれ?人妻を誘ってる???自然すぎてびっくりした。
「(略)渉君に会って秘密の話をたくさんして、マッサージをしてもらう。それが最近のわたしの生きがいなんだ。もしその関係になったら、絶対に今みたいな自然な雰囲気はなくなっちゃうと思う。
男と女って、最後までいくと、急にむずかしくなる。だから、そうはならないけど、でも色っぽいボーイフレンドっていうのが貴重なの。セックスなんて、簡単にできるものね」
(夫)晋一郎の顔を思いだして、うららは自分のことを笑った。セックスは夫婦間以外でなら、容易なものだ。もしかしたら、晋一郎とはもう一生そういうことはないのかもしれない。
「仕事も結婚もストレスだらけだって、いったでしょう。ここにこないわけがないじゃない。渉くんにも会えるし、マッサージも必要なんだもの」
そうなのだ、せっかく見つけた指の楽園なのだ。しかも会社からも、自宅からもほんの五分で通える究極のリゾートである。
他の作品を含め、日常にときめきを絡ませて、主人公の心の動きを文字で表現するのが絶妙で良いなとしみじみ感じる。
『愛がいない部屋』・・・・・
メゾン・リベルテ神楽坂 は33階建て。
最上階はゲストルーム。
パーティールームと展望室、来客用の宿泊施設がある。
1階のエントランスには、カフェ、コンビニ、本屋、花屋などがあった。
主人公の須藤愛子は35歳で、夫の英之と小2の由梨絵とともに3年前から暮らしている。
自分の人生は完全に失敗してしまったと考えていた愛子は、由梨絵を学校へ見送ってから、自宅に帰るのも嫌で、1階にあるカフェの屋外用テーブルでコーヒーを眺めていた。
ある日サングラスをかけて由梨絵を送り出した愛子に、老女が声をかけた。
女性は32階に住んでいる山之辺咲。70歳だった。
マンションの地権者の一人だったので、実質最上階に住んでいた。
愛子がサングラスをしていた理由は、夫からの暴力で、それは以前から続いていた。
そして咲も夫の暴力に苦しみ、35歳の時に離婚していた。
「ねぇ、愛子さん。あなたは終わったと思っているけど、まだなにも終わっちゃいないのよ。だって、あなたは自分のことをかわいそうに思っているだけで、なにも自分で始めていないんだから。私は今年で七十になる。離婚した年の倍になっちゃった。でも、最初の35年よりも、後半の35年のほうが、苦労もあったけど、ずっと楽しかったねえ。なにより自分の力で生きてきていた。女にはみんなその力があると思うんだけどね」
朝から昼食をはさんで午後二時を過ぎるまで、二人は話をして、愛子は涙腺が壊れてしまったように泣いた。
最低の気分だった朝から、愛子の気持ちは驚くほど変化していた。
由梨絵をロビーで出迎えた愛子は、咲のことを「咲ばあ」と呼ぶ由梨絵が、以前から両親のことを咲に話していたことを知る。
「由梨絵はこれからなにがあっても、ママといっしょにいてくれる」
8歳の女の子はすました顔でいった。
「なにいってるの。わたしがいなくちゃ、ママはダメじゃん」
声をあげるのはなんとか抑えることができたが、涙は止まらなかった。愛子はひざまずいたまま、しっかりと娘を抱き締めた。先が愛子の肩をやさしくたたいた。
愛子は(略)秋の日ざしのなか手を振る咲に右手をあげた。もうなにかを隠す必要などなかった。サングラスをはずして、周囲を見わたす。いつものロビーがまぶしい光りにあふれていた。この光りが自分にはずっと見えなかったのだ。きっと光りは世界にではなく、人の心にあるのだろう。
前に向ける気持ちの良い話だった。
(一日だけでそんなに前向きになれる???とも思ったけど)