0葬 ――あっさり死ぬ

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  • / ISBN・EAN: 9784087815320

作品紹介・あらすじ

自然葬を推進する「葬送の自由をすすめる会」の会長を務める著者が、あっさり死ぬための「0(ゼロ)葬」を提唱。「葬式も墓も要らない」という人のための“最新"死に方入門。“死後の不安"はこれで一挙解決!

感想・レビュー・書評

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  • 0葬(ゼロそう)
    ~あっさり死ぬ

    著者 島田裕巳
    集英社
    2014年1月29日発行


    日本特有の「告別式」を最初にしたのは誰の葬儀だったでしょう?
    正解は、「葬式は、要らない」と近代に入って最初に公然と主張した、自由民権運動に携わった中江兆民の葬儀でした。

    仏教式の葬儀方法を編み出したのは、何宗でしょう?
    禅宗の曹洞宗が正解。経済基盤を支えるための苦肉の策から生まれた。

    東日本と西日本では、火葬場から持って帰る骨の量が違うのをご存じでしたか?東日本はすべて、西日本は3分の1~4分の1。

    東北では、通夜の後で火葬にするので、葬儀・告別式の時には遺体がないのをご存じでしたか?

    のど仏は、実はのど仏ではない!

    *  *   *

    1年前に名古屋の母が他界した際、親戚の誰にも知らせず、一番小さな規模で葬儀を行った。戒名は、本人の希望もあり、2番目に高いのにした(本当は一番高いのにしたかったが反対された)。
    自分自身の葬式は、しないで欲しいと思っている。法律に従い、死亡後24時間たったら火葬場で燃やす。故郷に墓はあるが骨を入れないでほしい。骨の処分は、どうしよう?散骨もいいけど、できれば火葬場で処分してほしい。ごみとして捨ててくれてもいいが、法律で禁止されている。

    骨って、どう処分したらいいのか?
    ずっと疑問に思っていた。
    火葬場で拾わずに処分してもらえないのだろうか?
    (この本を読んで分かったが、そういう火葬場もあるらしい)

    骨を引き取らないのを「0葬(ゼロそう)」というらしい。
    宗教的な儀式をせず、死体を火葬場に運び、火葬するだけ、というのを、「直葬」といい、それを引き受ける業者も増えているようだ。
    その上、「0葬」にすれば、お金はかからないし、私の存在が跡形もなく消せる。家族には、自由になってもらって、僅かばかり残ったお金(これから借金するかもしれないが)でせいぜい楽しんでもらいたい、と願っている。

    この本によると、普通なら、葬儀の費用を100万円に押さえるとしても、墓がないと新たに管理料を含めて数百万円で墓を作らねばならず、大変な出費だとのこと。

    そういうことに意義を見いだせない私には、頼りになる本だった。
    著者は、宗教学者としてお馴染みで、特定非営利法人「葬送の自由をすすめる会(SJS=Soso Japan Society)の会長でもある島田裕巳氏。オウム事件の時、日本女子大の教授になった途端、オウムに好意的な発言をしたとして辞職に追い込まれた人。

    (メモ)

    基本的に糸魚川静岡構造線を境に、東日本では、遺骨をすべて持ち帰る。「全骨収骨(拾骨)」で、その分骨壷はかなり大きい。それに対して西日本では、「部分収骨」で、全体の3分の1、あるいは4分の1程度しか持ち帰らない。残りは火葬場で処分される。骨壷も東日本に比べるとかなり小さい。その理由は不明で、違いに気づく人が少ない。
    私は、東日本、西日本、両方で骨を拾ったことがあるので、違いを知っていた。全骨収集する東京の火葬場で不思議な思いをしたことを覚えている。

    日本特有の「告別式」を最初にしたのは、「葬式は、要らない」と近代に入って最初に公然と主張した、自由民権運動に携わった中江兆民の葬儀だった。
    生前に親交のあった板垣退助や大石正巳といった自由民権家が、兆民を偲ぶために青山会葬場(現在の青山葬儀所)で、宗教上の儀式にとらわれない「告別式」なるものを開いている。これが、今日一般化した告別式のはじまりとされている。歴史の皮肉。

    のど仏は、実はのど仏ではない!
    西日本では、喉仏や頭蓋骨、あるいは体のそれぞれの部分を代表する骨だけを拾う。実際の喉仏は軟骨なので燃えてしまい、拾骨の際に喉仏とされて拾っているのは第二頸椎なのである。喉仏でもないものを喉仏と説明するのは、騙しているようなものだ。

    東京を中心とした関東では、墓の下にあるカロート(納骨室)は石やコンクリートでできていて、遺骨は骨壷に入れたまま墓に納める。それに対して、東北や関西ではカロートの下は土になっていて、遺骨はそこに直接置かれるか、さらしの袋などに入れられて置かれる。
    東京周辺のやり方では、骨壷のまま納骨する。墓自体が高価なので、カロートもそれほどスペースが取れるわけではない。骨壷の数が増えていけば、入りきらない。それに、骨壺のままなので、遺骨が土に還ることもない。

    仏教式の葬儀方法を編み出したのは、禅宗の曹洞宗だった。経済基盤を支えるための苦肉の策から生まれた。
    根本道場・永平寺に入った雲水たちは、早朝から夜まで一日中厳しい修行を続けているのに、曹洞宗から仏教式の葬儀が生まれるはずはない。しかし、雲水が修行に専念するためには、経済基盤が必要。修行に明け暮れていれば、他に収入を得ることはできない。曹洞宗では道元とともに二大宗祖とされる瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)は、中国の禅宗に伝わる『禅苑清規(ぜんえんしんぎ)』という書物をもとに、修行途中で亡くなった雲水の葬儀の方法を俗人の葬儀に応用する道を開いた。これによって、日本に独自な仏教式の葬儀が確立された。これは、しだいに同じ禅宗の臨済宗だけではなく、天台宗、真言宗、さらには浄土宗にも広がった。この方法を受け入れていないのは、日蓮宗と浄土真宗。

    これまで人類のなかでもっとも長生きしたのは、ジャンヌ= ルイーズ・カルマンというフランス人の女性。1875年2月21日生まれ、1997年8月4日没。122才と164日生きた。日本の暦なら、明治8年生まれ、平成9年死亡。還暦が2度めぐってくる「大還暦」を経験したことがはっきりしているのは、このフランス人女性だけ。

    世界の葬儀費用を比較した資料はほとんどない。少し古いものだが、葬祭業者のサン・ライフが1990年代前半に行なった調査では、アメリカが44万4000円、イギリスが12万3000円、ドイツが19万8000円で、韓国が37万3000円。「日本の葬儀費用、231万円」というのは、2007年に財回法人日本消費者協会が行なった調査のもので、「断トツの世界一」。

    1996年度の調査では、日本の火葬率は98.7パーセント。世界でもこれだけ高い国はない。国際火葬連合(ICF)調べ。


    最近では厚生労働省認定の「葬祭デイレクター」という資格が定められ、1級葬祭デイレクターや2級葬祭デイレクターを名乗る人たちが増えている。

    直葬について、専門の葬儀社もできた。「火葬のダビアス」(川崎市川崎区)だ。2009年2月~。生活困窮者のためだったという。
    料金は全体で17万7825円で、内訳は、棺桶、骨壼、箱、覆い、書類代行、火葬場案内といった基本料金が9万6075円、寝台車と霊柩車による搬送費用、祭壇、人件費、遺体保管料、ドライアイス、告別室使用料、火葬料といった変動費が8万1750円である。

    大阪には一心寺という浄土宗の寺があり、そこは「骨仏」で名高い。骨仏とは、納められた遺骨で阿弥陀仏を造るものである。一心寺ではこれまで13体の骨仏が造られたが、6体は戦災で焼け、今は7体が祀られている。こちらも、全骨を納めても納骨料は最高3万円である。

    1991年10月、相模湾で初めての自然葬を実施、メディアで大きな話題に。役所が自然葬を認める見解を発表した。
    ●厚生省(現在の厚生労働省) の見解。
    墓埋法について、「土葬と火葬が半々だった敗戦直後の混乱期1948年(昭和23年)にできた法律で、でたらめに土葬して伝染病が広がるようなことがあったら大変、という心配から生まれた。もともと土葬を問題にして遺灰を海や山に撒くといった自然葬は想定しておらず対象外である。だからこそ、この法律は自然葬を禁じる規定ではない」と発表。
    ●法務省の見解。
    自然葬が遺骨の損傷や遺棄を禁じた刑法190条に違犯するのではという点について、「この規定は、社会習俗としての宗教的感情を保護する目的だから、葬送のための祭祀で節度をもって行なわれる限り問題はない」と発表

    自然葬は、国内では女優の澤村貞子氏や劇作家の木下順二氏が、SJ S の会員として自然葬で自然に還っている。海外では、周恩来、アインシュタイン、ライシャワー、マリア・カラスなどの例がある。

    遺骨の処理は火葬場に任せ、それを引き取らないのが0葬。火葬場によっては、申し出があれば遺骨を引き取らなくても構わないところがある。実際、そうした申し出をする人たちがいて、火葬場に処分を任せている。その数は、どうやら近年増えているようだ。

    ヨーロッパでは、遺体と遺族が火葬場に行った段階で、遺族が帰ってしまうようなところも珍しくない。火葬した骨は火葬場で預かり、一定の期間をすぎても引き取りにこないと、火葬場の方で処分するというところもある。
    フランスでは最近、火葬が広まってきたものの、遺骨を墓に納める文化が確立されておらず、地下鉄の車内に置きっぱなしにしてしまう例が続出し、問題になっていると聞く。

    たとえばもし火葬の技術的なやり方が変わり、すべてが燃え尽きてしまい、遺骨が残らないようになれば、すぐにそれに慣れてしまうのではないだろうか。

  • 葬式不要論を唱えられている島田裕巳氏の、葬式や墓がいかに時代にそぐわなくなってきているかについて書かれた本。

    『葬式は、いらない』で主張されていた内容が、さらに深く掘り下げられており、とても興味深く読んだ。仏教徒でもないのに葬式もお墓も不要だと常々思っているので、深く共感した。

    剃髪もせず外車を乗り回している住職家族の寺に、僕の大好きな祖父のお墓がある。仏教ってそんなものなのか。修行してほしい。車はミラパルコ程度にしてもらいたい。税金も払ってほしい。

    映画『トランセンデンス』に、遺灰を湖に撒くシーンがある。 映画の内容はあんまりなのだが、あのシーンはとても美しかった。

    僕は自然葬か0葬(火葬場で遺骨を引き取らず、火葬場側に処分してもらう)ですっきり人生の幕を閉じたいと思います。

    なるべく多くの方に読んでもらいたい本です。

  • 人生

  • 時代を追って葬式の在り方について、または、死者の葬い方について考察する内容。告別式の発祥中江兆民や、葬式の発祥曹洞宗、日本各地の葬儀の在り方がそれぞれ違うこともリポート。

  • 高額な葬式に疑問をもっていたのがすっきりとした。

    章ごとに葬式の煩わしさ。お金のかかるものになった理由。死者でなく生者の世間体。仏教式葬儀の始まりと現代におけるその必要性。
    葬儀の簡略化、費用軽減へのすすめ。

    できれば個人的に自然葬にしたいものだ。

  •  かつて、日本人は死者とともに生きていた。家には仏壇があり、家族が集まる茶の間には祖先の写真が飾られていた。けれども、人が都会に住むようになると、そうしたことは置き去られ、死者が忘れられた生活が定着した。死者を丁重に葬ることは日本の文化だと言われてきたが、こうして死者が遠景となった時代には、「極端な言い方をすれば、もう人を葬り、弔う必要はなくなっている」。
     葬送の自由をすすめる会会長である著者は、このような考えに立ち、タイトルにもなっている「0葬」を推進しようと提案する。人が亡くなると遺体は葬儀を経て火葬場へ運ばれるのが一般的だが、遺体を直接火葬場へ運び入れ、葬儀をしないのが「直葬」である。「0葬」はさらに進んで、火葬場に遺骨を引き取ってもらうことで、葬送のすべて(墓とか供養とか戒名とか)を終了させてしまおうというものだ。
    今の時代、遺体は「処理」すればよく、それは、死んでいく人も残される人も「自由だということでもある」。著者のこの言葉は、これから死者が増え続けていくこの社会に向けた、はなむけであるだろう。

  • だれもが避けて通れない事なのに誰も真剣には考えないお葬式について根本から見直すきっかけとなる一冊。興味深かったです。

  • 散骨や樹木葬に興味があったので読んでみました。
    著者は宗教学者なので、仏教と葬儀や墓との関わりも詳しく書かれています。
    いろいろな考え方があるとは思いますが、選択肢の一つとして知ることができてよかったなと思いました。

  • 私もしたいと、背中を押してくれる内容。

  • 『葬式は、要らない』のつぎの段階に進んでいる現在を、島田先生の視線でまとめたのち、その先を見ようとしている本。
     葬儀や墓が「めんどうなもの」になったのは、結局は資本の論理によるものであるということ、そこにつけこまれるのは「世間体」とかいうあやふやなものにとらわれているからであるということ、仏教式の葬儀はもともと修行途中に死んだ若い雲水のために行われたものに発したのちに俗人に応用されるようになったこと、墓参りはモータリゼーション発達によるあたらしい習慣であることなどが平明に語られてゆく。そのうえで葬儀の簡略化は時代の必然であり、自然葬はますます広まるだろう、そして究極的には「火葬場で遺骨を引き取らない~0葬」へと向かうだろうと預言する。そもそも、葬儀というものは、無念を残して亡くなった人を成仏させるための儀式であって、大往生の時代にはそぐわない。寺も破産する世の中、墓に入ったとして無縁仏になる可能性もある。ならば、生まれたときと同様、なにも残さずにこの世を去るというやり方もあっさりしてよいではないかと考える人も多いだろうと。
     自分としては、たいへん共感できた。夫婦のどっちかが死んだとき、残されたほうの始末をどうしようと思っていたが、そのころには「0葬」が一般化してるのかもしれない。

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著者プロフィール

島田裕巳(しまだ・ひろみ):1953年東京生まれ。宗教学者、作家。東京大学文学部宗教学宗教史学専修課程卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任し、現在は東京女子大学非常勤講師。現代における日本、世界の宗教現象を幅広くテーマとし、盛んに著述活動を行っている。 著書に、『日本人の神道』『神も仏も大好きな日本人』『京都がなぜいちばんなのか』(ちくま新書)『戦後日本の宗教史――天皇制・祖先崇拝・新宗教』(筑摩選書)『神社崩壊』(新潮新書)『宗教にはなぜ金が集まるのか』(祥伝社新書)『教養としての世界宗教史』(宝島社)『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)等多数あり。

「2023年 『大還暦 人生に年齢の「壁」はない』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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