- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087815320
作品紹介・あらすじ
自然葬を推進する「葬送の自由をすすめる会」の会長を務める著者が、あっさり死ぬための「0(ゼロ)葬」を提唱。「葬式も墓も要らない」という人のための“最新"死に方入門。“死後の不安"はこれで一挙解決!
感想・レビュー・書評
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葬式不要論を唱えられている島田裕巳氏の、葬式や墓がいかに時代にそぐわなくなってきているかについて書かれた本。
『葬式は、いらない』で主張されていた内容が、さらに深く掘り下げられており、とても興味深く読んだ。仏教徒でもないのに葬式もお墓も不要だと常々思っているので、深く共感した。
剃髪もせず外車を乗り回している住職家族の寺に、僕の大好きな祖父のお墓がある。仏教ってそんなものなのか。修行してほしい。車はミラパルコ程度にしてもらいたい。税金も払ってほしい。
映画『トランセンデンス』に、遺灰を湖に撒くシーンがある。 映画の内容はあんまりなのだが、あのシーンはとても美しかった。
僕は自然葬か0葬(火葬場で遺骨を引き取らず、火葬場側に処分してもらう)ですっきり人生の幕を閉じたいと思います。
なるべく多くの方に読んでもらいたい本です。 -
人生
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時代を追って葬式の在り方について、または、死者の葬い方について考察する内容。告別式の発祥中江兆民や、葬式の発祥曹洞宗、日本各地の葬儀の在り方がそれぞれ違うこともリポート。
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高額な葬式に疑問をもっていたのがすっきりとした。
章ごとに葬式の煩わしさ。お金のかかるものになった理由。死者でなく生者の世間体。仏教式葬儀の始まりと現代におけるその必要性。
葬儀の簡略化、費用軽減へのすすめ。
できれば個人的に自然葬にしたいものだ。 -
かつて、日本人は死者とともに生きていた。家には仏壇があり、家族が集まる茶の間には祖先の写真が飾られていた。けれども、人が都会に住むようになると、そうしたことは置き去られ、死者が忘れられた生活が定着した。死者を丁重に葬ることは日本の文化だと言われてきたが、こうして死者が遠景となった時代には、「極端な言い方をすれば、もう人を葬り、弔う必要はなくなっている」。
葬送の自由をすすめる会会長である著者は、このような考えに立ち、タイトルにもなっている「0葬」を推進しようと提案する。人が亡くなると遺体は葬儀を経て火葬場へ運ばれるのが一般的だが、遺体を直接火葬場へ運び入れ、葬儀をしないのが「直葬」である。「0葬」はさらに進んで、火葬場に遺骨を引き取ってもらうことで、葬送のすべて(墓とか供養とか戒名とか)を終了させてしまおうというものだ。
今の時代、遺体は「処理」すればよく、それは、死んでいく人も残される人も「自由だということでもある」。著者のこの言葉は、これから死者が増え続けていくこの社会に向けた、はなむけであるだろう。 -
だれもが避けて通れない事なのに誰も真剣には考えないお葬式について根本から見直すきっかけとなる一冊。興味深かったです。
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散骨や樹木葬に興味があったので読んでみました。
著者は宗教学者なので、仏教と葬儀や墓との関わりも詳しく書かれています。
いろいろな考え方があるとは思いますが、選択肢の一つとして知ることができてよかったなと思いました。 -
私もしたいと、背中を押してくれる内容。
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『葬式は、要らない』のつぎの段階に進んでいる現在を、島田先生の視線でまとめたのち、その先を見ようとしている本。
葬儀や墓が「めんどうなもの」になったのは、結局は資本の論理によるものであるということ、そこにつけこまれるのは「世間体」とかいうあやふやなものにとらわれているからであるということ、仏教式の葬儀はもともと修行途中に死んだ若い雲水のために行われたものに発したのちに俗人に応用されるようになったこと、墓参りはモータリゼーション発達によるあたらしい習慣であることなどが平明に語られてゆく。そのうえで葬儀の簡略化は時代の必然であり、自然葬はますます広まるだろう、そして究極的には「火葬場で遺骨を引き取らない~0葬」へと向かうだろうと預言する。そもそも、葬儀というものは、無念を残して亡くなった人を成仏させるための儀式であって、大往生の時代にはそぐわない。寺も破産する世の中、墓に入ったとして無縁仏になる可能性もある。ならば、生まれたときと同様、なにも残さずにこの世を去るというやり方もあっさりしてよいではないかと考える人も多いだろうと。
自分としては、たいへん共感できた。夫婦のどっちかが死んだとき、残されたほうの始末をどうしようと思っていたが、そのころには「0葬」が一般化してるのかもしれない。