- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087816082
作品紹介・あらすじ
大ヒット映画『ハーブ&ドロシー』の佐々木監督の17年9月公開『おクジラさま』。捕鯨問題を取材する中で映画では描き切れなかった“もうひとつ"の『おクジラさま』を描く初のノンフィクション作品。
感想・レビュー・書評
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クジラ問題については一度、双方の言い分をちゃんと聞いてみたいと思っていた。日本側の言い分は耳に入ってくるけれど、欧米の反対派の主張はちゃんと聞こえてこない。
「くじらは頭がいいから獲ってはいけない」だとしたら、牛や豚はバカだから喰ってもいい、という理屈なんだろうか。
「数が少ないから獲ってはいけない」のなら、増えたならいいんだろうか。
「残酷な殺し方をするからダメ」なら、残酷な殺し方?じゃなければOKなのだろうか。
例えばくじらが養殖ができたら、牛や豚や鶏みたいに産業動物として扱ってもお咎めなし、なんだろうか? きっとそうじゃないよね。
一方、日本側の「伝統だから」という言い分にもモヤモヤする。アメリカの奴隷制度とか、日本の嫁いびりとか、体育系サークルのイッキ飲みが「伝統だから」と正当化されてはたまったもんじゃない。
人のやっていることに口を出すな、と言われても、親に虐待されている子どもを助けるには人のやっていることに口を出すしかない。
水産国である日本が、漁について外国の言うことをへいへい聞いていたら立ち行かなくなる、というのは単なる原則論だ。クジラやイルカを食わないと飢える、というわけでもあるまいに。
そういう意味で本書に期待していた。著者はアメリカ在住の日本人でこういうテーマを扱うにはもってこい。
でも途中であれれ?となった。日本寄りなのだ。「ザ・コーヴ」の公開でえらいことになった太地町に同情しており、映画の撮影隊やシー・シェパードのやり口に憤慨するのはわかるけれど、それは「クジラ獲り是か非か」という本題とは直接の関係はない。映画の一件でマスコミ嫌いになった町の取材をするために著者はお百度を踏むけれど、その過程で「自分は町の漁師の期待している映画を撮れるだろうか」と悩む。大丈夫なんだろうか?
だが読み進めるうちになんとなく腑に落ちてきた。クジラ問題は要は感情問題で、当事者以外の視座というのものはないのだ。シー・シェパードに反発しつつも、中国で犬を食うと聞くと穏やかならぬ気持ちになる人は多いのではないだろうか? ヒンズー教圏の人がアメリカに神聖な牛食うな!と抗議に行ったら、グリーンピースはどう反応するんだろう?
クジラ問題を通して、「ふたつの正義」という矛盾が見えている。ぼくらの考えている正義は、多くの場合は立場と状況で変わる相対的な正義だ。本来なら「正義」という言葉を使うべきではないのだろう。(その一方で、絶対的な正義というものもある、とぼくは思っている。例えばお腹を減らした子どもにアンパンをあげるアンパンマン)。
問題は、それを理解したところで「クジラ問題」は解決しないということだ。
ぼく自身は、ほかにも食うものはいくらもあるんだから、何もクジラ食わなくても、と思うし、水族館で芸をするイルカやアシカを見ると後ろめたい。動物園のライオンと一緒に、故郷に帰してあげたいと思う。頼まれたら署名や寄付くらいはするかもしれない。犬やネコは食わないで欲しいし、自分ちの犬が食われたら許さん。
その一方で、牛や豚や鶏や魚は美味い。ベジタリアンになれるとは思えない。釣りはやめられない。矛盾だらけだ。
感情問題を感情抜きで議論するのは無理だし、無意味だ。でも、となると解決策がないんだよな。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
2009年、1つの映画が公開され、大きな話題を呼んだ。
"The Cove"(「ザ・コーヴ」)。
日本の太地町で行われているイルカ追い込み漁を描くドキュメンタリーである。
イルカが「残酷」に殺される漁を非難する視点から描いた本作は、アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞など、数々の賞を受賞した。
世界で大反響を呼んだ映画であったが、日本の「伝統的」な漁に対する「不当」な非難と受け止められたこともあって、日本での公開には反対論が噴出。隠し撮りや過剰な演出、事実の捻じ曲げなど、手法に対する批判の声も上がった。少数の映画館での公開時には厳重な警戒態勢が敷かれるまでになった。
この映画をきっかけに、太地町には、イルカやクジラの外国人保護運動家が押しかけた。この小さな町は、捕鯨問題という大きすぎる問題を一手に受け止める、象徴的な場所となってしまったのだ。
本書の著者はニューヨーク在住の日本人映画監督である。
"The Cove"を見て、衝撃を受ける。映画がよくできていることは認めつつ、腹立たしさと不快感があった。動物保護の立場もわかるが、漁師たちをただ暴力的かつ野蛮であるかのように描くことに強い違和感を持った。
日本で育ち、アメリカで暮らす著者ならではの、両方の視点。それを活かして「バランスの取れた映画」が作れないか、と思い立つ。
本書はその映画『おクジラさま』ができるまでを綴るノンフィクションである。
著者の前作は、ニューヨークの市民アートコレクター夫妻を描いたドキュメンタリー(『ハーブ&ドロシー』)だった。じんわりと感動を呼ぶ佳作である。どちらかと言えば単館系の地味な作品と言えるだろうが、少なくともこの作品を声高に非難する人はいないだろう。
まったく毛色の違う主題に取り組もうとする著者に、反対する友人・知人は多かった。それだけイルカ・クジラ問題は「センシティブ」な問題なのだ。
取材を始めた著者の目には、対立する2つの正義が見えた。
賛成派・反対派の意見はまるで噛み合わない。捕鯨に関する国際会議は感情論が支配する政治問題となっていた。
日本では実際にクジラを食べる人はそう多いわけでもないのに、捕鯨問題となると賛成派が過半数となる。そこには捕鯨国が不当な非難を受けているという思いがある。もはや意地の問題である。
一方の反対派がイルカ・クジラの生態に基づいて科学的に批判しているかといえばそうとも言えない。絶滅に瀕している賢い動物を残酷に殺すのは許せないというざっくりした印象で反対している人がいかに多いか。漁が許されているイルカやクジラは絶滅が危惧されている種ではない。「追い込み漁」の多くは、湾が血に染まる漁ではない。
太地町での対立も、対話に基づかぬまま深まっていた。
乗り込んでくる外国人活動家は日本語を解さないし、町民のほとんども英語が話せなかった。ただ互いに別々の方向を向いて、それぞれの主張をしているのだ。
一方には、動物保護の観点から、動物の権利を守りたいという「正義」がある。
他方には、よそから来たものが背景も知らずに上から目線でこれを正せというのはおかしいという「正義」がある。
話し合いの場を持ったらどうかと仲介する政治団体代表者や、住み込みでじっくり腰を据えて取材する外国人ジャーナリストが、わずかな風穴を開ける。
著者は彼らからもじっくり話を聞き、フィルムに収める。
著者は本書の中で、センシティブな問題に取り組む心の揺れも正直に綴っている。この映画を完成させることはいかに困難であったことか。
捕鯨問題や太地町の騒動がこの映画で解決するというものではない。映画が本当にバランスの取れたものとなったのかについても議論はあるかもしれない。
だが、世に多くある、複数の「正義」を巡る問題に関して、本書が提示する示唆は相当大きいような気がしている。 -
クジラをめぐる異なる正義の対立
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【動機】
・捕鯨にまつわる対立の歴史・概要を知りたくて
【感想・思ったこと】
・めちゃくちゃ面白い!!!!!
・クジラの話にとどまらない。
- 捕鯨にまつわる問題と対立の概要と本質が掴める
- 鯨を軸に見る、歴史・宗教・価値観・メディア論
- なぜ人は争うのか?考えさせられる
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・「強き者」は「弱き者」の、声に耳を傾ける責任がある。
・「弱き者」は「強き者」に、声をあげる責任がある。
・声を上げなければ対話は不可能。特に相手が強者の場合なおさら。
・自分の意見を相手に伝える重要性と相手の意見に耳を傾ける重要性。
・情報は発信しなければ伝わらない。
・情報発信・メディアの威力。感情を煽動する。
・「クジラ・イルカは世界の海を泳ぐため日本だけのものではない」というロジックは確かにと思った。
・対立するから、対立する。
・読中に「キリスト教思想を基盤に持ち、現在国際社会で力を持つ欧米人は、自己中心的で独善的である」というステレオタイプを、深いところで実は自分も持っていると気が付かされた。本来「⚪︎⚪︎人は△△である」という一般化はできない。一人一人多様。読中、ジェイさんが登場した時にハッとした。 -
歴史や伝統、食文化はイデオロギーやアイデンティティにも繋がる。
イデオロギーやアイデンティティの対立。ネット上で見受けられる論争、最近では『温泉むすめ』であるとか、に余りにも似ている構図。
感情は無視できないが、感情だけでは暴走してしまうこともありえる。理論と考察は欠かせない。どちらが正義か、どちらが正しいかを簡単に決めつけるのではなく、考え続けることが重要。
映画化もされ、中立的な視点と立場で和歌山県太地町の問題が書かれている。 -
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閲覧 -
クジラ漁は残酷か否か。クジラを獲ることは善か悪か。
そんな単純な話ではないわけで。 -
クジラのことを知りたかったのにほとんどでてこなかった。捕鯨問題を事実に基づき深掘りしていて、勉強になったが。