- Amazon.co.jp ・マンガ (168ページ)
- / ISBN・EAN: 9784091275257
作品紹介・あらすじ
漫画は終われども、君達のネジの物語は続く
君の求める答えを与えることはできない。
でも、君が考える手助けはできる。
考えても考えても答えにはたどり着かないかもしれない。
それでも、僕らは胸を張って言える。
「頭のネジを回し続けよう」
その先にきっと君が今までに見たこともない世界が
見えるはずだから。
『ねじの人々』、最終巻。
感想・レビュー・書評
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【考えるということ】
不安→答え→自由→不安。
考えることと変わりつづけることは同義なのかな、と感じました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
全巻読了しました。
うーん……。
かつて大学で哲学を勉強した身としては、実感としてものすごくよく分かる話だらけでした。どこまで行っても先が見えない。「これだ!」と思った次の瞬間にはもうそれは答えではなくなっている。そして、それでも「もうやめだやめだ!」とならないで、また歩きだしている。まだ歩いている。というよりむしろ、頭より先に身体の方が自然と歩むのを止めないで歩もうとしている。
「哲学は山登りだ」と誰かが言っていたように思いますが、この漫画はまさしく哲学者の求道というものを見事に描き出しているように感じました。その点、私は読んでいて、あぁこれはいい作品だなぁ、と思います。
ただ、「瞑想と内省を求める仏教から、いつの間にか南無阿弥陀仏と唱えれば救われる仏教になった」のは「人間は考えるのが嫌いだから」(p.157-158)というのには、ちょっと賛同しかねます。
まず、細かいことですが、「唱える」ではなく「称える」ですからね。簡潔に申せば、ただ口に出して終わりじゃなく、口に出したということの意味を、一人で考えるのでなく他者と共にですが、自分自身に対して尋ねていく歩みがあって、その先に救いが実証される。だから、ちょっと乱暴な説明かなと。
ただ、何より言いたいことは、「南無阿弥陀仏と口にすれば救われますよ」って、それで納得するほうが人間には難しいですよ。だから、「考えるのが嫌いなのが人間だ」というより、「嫌い嫌いと言いつつやっぱり(自分で)考えてしまうのが人間だ」という人間観の方が私にはしっくりきますね。
みんなそれぞれの仕方で山を登っている、登り続けているのだと思います。答えが分かったと言っているような人であってもそう。なぜか。答えを反証するような現実に必ずぶち当たって悩むからです。だから、「とことん考える人は少ない」というのは半分当たってて半分違う。
「迷わないでとことん考え続けられる人」、これは少ないと思いますねぇ。考えてもやっぱり迷いますから。考えない人が多いんじゃなくて、考えても迷う人、迷った挙句「答え」とは言えないものを「答え」にして妥協する人が、多いんですね。
「考えることは、答えを見つけるために
あるんじゃない
考えることは、答えをぶち壊すために
あるんだと」(p.174)
本当にその通りだと思います。「答え」なるものがいかに脆いかを磨くセンスを、哲学は嫌というほど鍛えてくれます。ただ、ではなぜ、どんなに賢い人が編み出したものであっても、人が生み出す「答え」は脆いのか。そして、それでも人として、答えを、本物の答えを探さずにおれなくしているものは何なのか。また、考えていきたいと思います。