物語を生きる―今は昔、昔は今

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著者 : 河合隼雄
  • 小学館 (2001年12月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (269ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784093873727

物語を生きる―今は昔、昔は今の感想・レビュー・書評

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    〈所在:図書館(060200701703)〉

  • (内容)
    近代科学は「物語」の価値を著しく低下させた。しかし人間が生きていくには、それぞれの「物語」が必要である。「物語」は過去と結びつき、土地と結びつき、人間相互の結びつきを強め、各人の全体的な統合を保つ役割を果たしている。そして時には人間に「死」すら受け容れさせる力をもっている。 本書は、日本の王朝物語を現代の目で読むことによって、われわれが見失っている自分自身の「物語」をつくりあげていく知恵を学ぼうとするものである。『創造の世界』で連載したものに大幅加筆、修正したもので河合隼雄ファン待望の1冊といえる。
    (amazon.comより)

    (感想)
    "物語を生きる"は、心理学者の河合隼雄さんの作品です。
    ここで言う"物語"というのは、日本の王朝物語・・つまり、平安〜室町時代頃に作られた話のうち、貴族文化の風俗や美意識をベースに作られた物語を指します。
    大まかな章立てとしては、まず第一章で、心理学者としての観点から、「何故、日本の王朝物語を研究しようと思ったか?」が述べられ、二章〜十章で、具体的な考察が行われています。
    感想というよりも、要約になってしまいますが、以下に各章で述べられている話題を簡単に書きます。

    第一章:何故物語か?
    結論:日本の王朝物語における知恵を現代の視点から見ることは、我々が自身の物語を紡いでいく参考になると思われる。

    心理学において、「事例研究」の重要性が取り沙汰されている。
    これは従来重視されていた「科学的方法」による研究が、「研究者自身が研究対象から切り離される」ことで、普遍性を追求するのに対し、「事例研究」は、「研究者自身も研究対象との関係を維持している」からである。
    「人間関係」が重要な要素となる心理学においては、研究者とクライアントの話し合いや関係を抜きにして語れない。
    では、事例研究の本質とは何か?それは、物語を作る・・すなわち、クライアントが自分の経験したことを、自らが納得のいく形で心に収める・・納得の出来る物語にすることである。
    十人十色とはいえ、こうした物語にはある程度のパターンが存在する。
    つまり、色々な物語やそのパターンというものを知っておくことが、心理療法家として役に立つのでは・・という発想から、物語を研究対象とする。
    ただし、対象となる物語の特性として、「偶発性を持つ」ということを条件とする。
    何故なら、心理療法としてクライアントを救う契機には、偶然としか言えないような出来事が、現実起こるものだからである。
    つまり、偶発性を完全に排除した場合、それはむしろリアリティーを失ってしまい、事例としても不的確となるからである。
    以上の観点より、筆者が日本人ということもあり、(偶発性を伴う)日本の王朝物語を研究対象とする。

    第二章:消え去る美
    結論:日本人には、「この世において美と永続性は両立しないもの」という美意識がある。また外的な美しさは内面に潜む醜さも伴ったものである。

    竹取物語におけるかぐや姫は、求婚者を悉く退け、中には死に到ったものもある。
    これは、結婚という永遠を願って行われる行為を受け入れることにより、限りある美が両立出来なくなるからである。
    永遠の美を達成するためには、この世から出る必要があり、それは竹取物語においてかぐや姫が月に帰ったことや、現代の思春期における自殺(死による逃避)の一因としても見て取れる。
    また、男性の醜い関心(外面への欲望)を惹きつけるのは、美しさの内面に醜さが潜んでいるから・・と考えることも出来る。
    例えば、神話におけるイザナミ、イザナギの話は、そうした醜さを見られたことへの怒りの発露とも取れる。
    以上より、結論に到る。

    第三章:殺人なき争い
    結論:日本人には「直接的な争いを避ける」特性と「亡びの美学」がある。
    後者は、「勝つ努力をするよりは、負けた時に世間に笑われないように準備することに注力する」ことを指す。

    宇津保物語では、天皇の外戚となるべく政争が展開されるが、そこに血を見るような争いは起こらず、間接的な会話による争いが主となり、政争で敗れた場合に備え、出家の準備を行っている者もいる。
    全般的には、争いを回避しようとする動きが見え、物語中、積極的・直接的に争う人物は、悪役として描かれている。

    第四章:音の不思議
    結論:視覚によって把握出来ず、また手に取ることも出来ないが、確実に意識に響いてくる感覚(にほひ)の媒体として、王朝物語では「音」が重要視されている。

    宇津保物語では、こうした音を出すためのツールとして、琴が使われている。
    その演奏技術は日常の世界から隔絶されることで会得され、同時に、会得者はその技術を継承していかなければならない。それだけ重要なものとして扱われている。

    第五章:継子の幸福
    結論:日本人には・・・
    母性というものは、子供を包み込み守るものだが、一方で子供にアイデンティティが目覚めだすと、自由を束縛するような面も持っている。そうした母-子供の葛藤に耐えた者が幸福になれる
    という意識がある。

    落窪物語をはじめとする中世の「継子いじめの物語」の特徴として下記が挙げられる
    ・どんな物語でも、登場人物のキャラクターは類型的。
    ・1度物語中の姫君が辺鄙な場所に追い込まれるので庶民性を持っている。
    ・仏教が浸透した時代なので、神仏の加護が強調される。
    ・勧善懲悪が極端になる場合がある(継母が死に到るetc..)

    この類型的なパターンに共通する事項が結論。
    また、庶民性は、公家生活から卑しい環境に落ちて最後に貴公子に見出される・・という幸福へのプロセスと取れる。
    勧善懲悪の極端さも、幸福をより誇張する方法と言える。
    神仏の加護は、娘が女性へと成長することが如何に奇跡的な出来事かを説明するために使われている。

    第六章:冗句・定句・畳句
    結論:和歌には、常套句やジョーク、そして受け取った和歌の持つイメージへの応酬といった要素がある。
    現代日本人は、定句・畳句には富んでいるが、冗句要素が抜けている場合が多いので、王朝物語の和歌に学ぶ部分は多いと思われる。


    平中物語では常套句やジョークを織り交ぜたの和歌の応酬(歌合戦)が繰り広げられる。
    こうした(掛詞などでダブルミーニング化された)言葉、歌による応酬は、三章で述べた殺人なき争いの一形態とも言える。
    加えて和歌は心情表現の巧みさにより、イメージを喚起する力も持っている。
    そうした和歌の作り手は、定型的なヒーロー像というよりも、どんな時も和歌にジョークを織り交ぜるトリックスターと言うべき存在となっている。

    第七章:物語におけるトポス
    結論:王朝物語における日本人は・・・
    場所(土地)そのものを重要なファクターとして認識している。

    「とりかへばや物語」は、男として育った女、女として育った男が、成長した後、それぞれの性を入れ替える(役割を交換する)物語だが、この中で、都(京都)から離れた次元にある宇治・吉野という場所が重要な役割を果たしている。(世間から離れ「性の入れ替えが行われる場所」という意味づけがされている)
    こうした「特定の意味を持つ場所」=トポスの存在が明確に打ち出されている物語としては、他に浜松中納言物語が挙げられる。
    この物語においては、愛する人の魂が、唐、そして日本と海をまたいで
    転生する。つまり、転生がトポスを繋ぐ仕掛けとなっている。
    そしてトポス(唐)は、幸福になろうとする意識的努力とは無関係に、抗うことが出来ない「ものの流れ」とそこから得られる(定型的な物語では表現出来ない)「大いなる安心感」を表現する上で、俗世間から離れた場所としても機能している。

    ちなみに、転生という概念は、自己と他者の関係を深める要素と言える。そうした考え方は、他者との関係性の喪失で苦しむ現代において、納得出来る物語を作る上でも有用な考え方とも思われる。

    第八章:紫マンダラ試案
    結論:
    源氏物語では、母性と父権が織り交ざった背景下において、父権ベースの女性群像や、そこから切り離された個としての女性像を描いている

    源氏物語は、母性意識が強く、父権も芽生えていた平安時代という時期における(紫式部自身の中にある)女性群像を表現したものと言える。
    そうした女性達(母・娘・妻・娼といった立場に位置する)を描くにあたり、描きやすくするため(便利屋的)に中心に据える存在として、光源氏がいる。
    こうした女性達のうち、物語後半で描かれる女性は、徐々に光源氏との関係から離れている点が特徴的である。
    これは、紫式部が、男性との関係からではなく。個としての女性を描くことに重点を置くようになったからだと思われる。
    こうした個としての女性として、男性に関係はするが従属しない存在を描こうとしたのが宇治十帖である(それは当時の世間一般とは違う存在に位置したため、宇治という別次元のトポスで語られている)
    ここでは、妻と娼という2イメージの両立の維持も試みられている。

    第九章:「浜松中納言物語」と「更級日記」の夢
    結論:西洋近代の啓蒙主義以降、近代人は夢に意義を見出す努力を怠ってしまった。
    だが、現在の自然科学では説明出来ないものの、夢で現実に起こることを知る(予知する)といったことは、実際に有り得る。


    王朝物語が書かれた時代においては、夢は、現実と同じぐらいの重要性を認められていた。
    ただし、夢と距離を持つことも同時に認識の範疇にあり、最終的に現実での行動を確定させるのは自身の判断であった。
    夢を重視する・・ということは、多層的な現実を受け止めるということと同義であった。

    尚、そうした夢が主題となる物語では、夢も含めた「意識の流れ」がテーマに据えられていることが多い。

    第十章は、買って読んで下さい(笑)

    以下、全体を通しての感想です。
    心理学という分野を読んだのは全くの初めてでしたが、題材が王朝物語ということで、歴史好きとして楽しむことが出来ました。
    高校時代に古文の授業で扱われた物語が多数登場していたので、懐かったです。
    日本人が潜在的に持つ「美と永続が両立しない。でも両立させたいと願う」とか「亡びの美学」、「トポス」の説明辺りは、読んでいて成る程なぁ、と思いました(判官びいき、という言葉や、源義経がモンゴルに逃げた・・という伝説も、これ等と通じるものがあると思います)

    一方、不満点は、ページ数の都合からか、結論に到る考察過程が大分省略されている章があったこと。
    例えば、「消え去る美」での「外的な美と内面の醜さの関係」への言及。
    本文での説明を大雑把に言ってしまうと、「ルックスが良い女の子がいて、その子がいやらしい目(醜い目)で男に見られる。なので、女の子の内面にも、男のいやらしさと呼応するような、醜い面があるのでは・・?」なんて論理なのですが、この辺は、正直、結論に到る理由がイマイチ分かりませんでした。(多分、僕の中で、「物語」に出来ていないのだと思います(笑))

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