真田昌幸: 徳川、北条、上杉、羽柴と渡り合い大名にのぼりつめた戦略の全貌
- 小学館 (2015年11月16日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784096263266
作品紹介・あらすじ
大河「真田丸」時代考証者による真田昌幸論
戦国大名研究でつとに知られ、2016年NHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証も務める歴史学者・黒田基樹氏が、信濃国小県郡の国衆(小領主)に過ぎなかった真田昌幸がいかにして上杉・北条・徳川といった戦国大名たちと渡り合い、大名へとのぼりつめていったのかを、膨大な史料で明らかにしていく、渾身の真田昌幸論。
長兄・次兄の死により家督を継いだ昌幸は、北条氏と熾烈な抗争を繰り広げながら、上杉景勝、徳川家康、羽柴秀吉と次々と主君を乗り換え、最後は豊臣大名へとのしあがる。その陰にあった細かな調略の数々を、著者は丹念に読み解いていく。そこから浮かび上がってくるのは、存続をかけて智略を尽くす、大名と国衆のリアルな姿である。
<著者プロフィール>
黒田基樹(くろだ・もとき) 1965年生まれ。駿河台大学教授。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。膨大な史料を博捜し、戦国史の実相を明らかにする研究に精力を注いでいる。2016年大河ドラマ「真田丸」の時代考証を務める。著書に『百姓から見た戦国大名』ほか多数。
【編集担当からのおすすめ情報】
本書は、リアルな戦国の姿──戦国大名の外縁部では国衆たちが昨日の敵は今日の友といった抗争を繰り広げていた──を明らかにすることを、大きな目的としていますが、その中でもっとも目を引くのは、真田昌幸をはじめとする国衆・大名たちの、「頭脳戦」ともいうべき「調略」の数々でしょう。
武田氏、織田氏、上杉氏、北条氏、徳川氏、羽柴氏。昌幸が次々と乗り換えてきた主君たちです。
これぞリアルな戦国時代。膨大な史料に基づく学術書ではありますが、昌幸と北条氏の沼田領をめぐる抗争が、北条氏滅亡にまでつながっていくなど、戦国史の見えない糸をたぐっていくようなおもしろさがつまっています。
感想・レビュー・書評
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[評価]
★★★★★ 星5つ
[感想]
真田昌幸という人物がいかに大名よして独立を果たしたのかが書かれている。
しかし、単に真田昌幸の人物史というわけではなく、真田氏がどのような経緯で武田氏に仕え、どのような役割を与えられていたのか。武田氏滅亡後にどのように行動したのかがよく理解することができた。
意外だったのは昌幸が秀吉から討伐令が出されていたことは知らなかった。てっきり上杉氏が秀吉に出仕した際に一緒に出仕しているものと思っていたよ。
また、昌幸、信幸のそれぞれに領地が与えられたことは知っていたけど、信繁にも領地が与えられていたのは知らなかったな、三人合計で八万四千石で徳川、上杉、北条、かつての武田には遠く及ばない石高だけど、国衆から大名になったことを考えると充分に凄いことだと思ったよ。
中々に面白いなと思ったのが昌幸の通称「安房守」が上野で対立していた北条氏邦の通称なのは驚いた。官位としてはほぼ意味がなくなっていたと思うけど、願掛けと決意が含まれているんだなと思ったよ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
武田氏滅亡から小田原合戦までの真田氏の動きを史料で検証する。
昌幸は、北条、上杉、徳川間を裏切りを伴いつつ立ち回ったわけだけど、この時代の小領主は皆んな同じだった。真田家が生き残ったので(嫡男;信之のおかげだ)、資料が散逸せず真田氏の活躍が注目されやすいのだろう。
タイトルでは戦略の全貌としてるけど、昌幸の行動につき、時代を読んでのものではなくその場しのぎの出たとこ勝負でしかないとする著者の意見に、とっても同意。 -
大河ドラマ「真田丸」の時代考証者が書き下ろす知恵者の戦国サバイバル。北は上杉、南は徳川、東は北条に囲まれた、戦国の草刈り場・信濃の国衆から、主君を次々と乗り換えて、ついに豊臣大名にまでのしあがった昌幸の調略。(2015年刊)
・はじめに
・第一章 「国衆」から「大名」へ
・第二章 真田昌幸の沼田領経略
・第三章 天正壬午の乱における真田昌幸
・第四章 秀吉・家康の対立のなかの真田昌幸
・第五章 秀吉への従属と「沼田領問題」の展開
・第六章 「沼田領問題」の帰結と小田原合戦
・終 章 豊臣大名となった真田氏
・参考文献
・おわりに
・巻末付録 真田氏発給文書
平山先生の真田が、信濃からみた真田とすれば、黒田先生のは、上野からみた真田という感じがする。黒田先生ならではの視点も盛り込まれおり読んで損はない。
二人の安房守p13では、沼田領支配を巡って争っていた北条氏邦を昌幸の真のライバルとして、対抗心から昌幸が同じ通称をあえて名乗ったとしている。
昌幸が結果として、羽柴秀吉に直属する「小名」の立場を確立したことは、決して順調な過程であったわけではなく、むしろかなり際どいものであったとし、八万四千石にのぼる領国の確保を果たしたのは、本質的には偶然の産物といわざるをえないp244との指摘は、歴史の見方として重要である。