雪国 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
3.44
  • (396)
  • (630)
  • (1273)
  • (205)
  • (44)
本棚登録 : 8327
感想 : 813
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101001012

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • さすが川端康成文学。左手の人差し指!

  • 川端康成を読むのはこれで二作品目。冒頭の夜汽車に揺られる一連の描写が、どことなく芥川の『蜜柑』にも似て、たいしたことを描写しているわけでもないのだけれど、物憂げな心持ちにさせる。

    銀白の雪国、閉ざされた世界、島村のいうように「徒労」でしかないのかもしれない駒子の、その無垢さを象徴するかのように、それはいつも白い。窓越しの駒子の赤い頬との対比が、まるで美人画のようで、たおやかなれど官能的でさえある。

    おわりは突然やってくる。以前に読んだ『みずうみ』もそうだが、彼の物語は唐突にはじまり、唐突におわる。まるで登場人物たちの人生を適当な尺で切り出してきたかのように、まったくもって完成しない。着地点がわからないから戸惑うのだけれど、現実の日常にもそれがないのと同じで、彼の語り口はどことなく真に迫るものがある。わたしには永遠に訪れることのできない雪国が異次元に存在して、彼はそこに出入りができるかのようだ。

    架空の世界が現実を肉迫する。寂しくなったら、慰めがほしくなる。そんなときは彼が切り出した別の人生の一コマをまたのぞいてみたいと思う。

  • ストーリー云々よりも、ただただ雪国の美しい情景が目に浮かぶ…
    小説というより、芸術作品だと思いました。

  • 言わずと知れた名作であるため、一読しようと本書を手にとった。本書は、主人公の島村がトンネルを越えて雪国に赴き、美の追求に臨む物語である。著者が本書に込めた思いを汲み取るのは難しかった。物語の内容が読者の想像に委ねられるところが多く、それ故に難解な作品になっていると感じた。非日常が演出されていることが理想である雪国で、島村がその理想の維持のために恋愛など一切の日常を寄せ付けまいとする姿は印象的だった。本来は「徒労」が本作の題になる予定であったこともあり、島村を愛する芸者の駒子の様々な行動が徒労に帰する様子は読んでいてとても寂しい。読了後には、なんとも言えない虚しさが残った。

  • 文字が織りなす作品世界、私は他の作品以上にこの点を強く感じた。

    一言一言、
    一文字一文字がすべて意味をなし、
    無駄なものが一切無く読者に情景を想起させる。
    彼のこの作品を体験することで改めて日本語の持つ表現の幅広さを感じることが出来たと思っている。

    表現という観点から作品を見た時に頂点に君臨するのが
    川端康成の「雪国」であることは私の中では疑いようのない事実である。

  • 文章は美しいがまともな職に就いていない上に妻を置いて逗留先で不倫している主人公に対して最後まで感情移入出来ないままだった。

  • やはり冒頭の有名な一文に心惹かれて、絶対読みたいと思っていた作品。大学生の頃買って、なかなか読み進められず眠っていたけれど、やっと読み終えることができた。

    雪国の美しい景色や空気感、季節の移ろいを作者が丁寧に描写しているのが素晴らしい。
    駒子の激しい感情や態度の起伏、島村の冷静な態度や心情描写から、二人の関係性の虚しさ、切実さなどが伝わってくる。しんしんと降る雪のようない物語。



    個人的には、現代では雪国の人は色白で美人というイメージがあるが、話の中では温泉場のある雪国とは山中の田舎、雪焼けで底黒い女性が描かれ、島村も「ここの芸者ってみんなあんなのかね。」と語っているのが面白かった。

  • 先週雪が降ったからというわけでもないけど、ふと手に取って読んでみた。
    確かに美しい日本語、美しい世界。しかしよくわからない。ただ、わからないなりにも何か惹かれるものがあるという不思議な作品。
    若いころは「美しい日本の私」的なことを嫌悪していた。「あいまいな日本の私」の大江健三郎の方に共感していた。したがって川端作品を全然読んでいない。でもこの年になって、英語を勉強し始めたこともあって、逆にどんな日本語なのかと興味が湧いてきた。日本文学の美しい日本語を味わってみたくなった(←ネイティブの特権)。

    わたしの所有しているのはものすごく古い、昭和52年78刷の新潮文庫(表紙が平山郁夫)で、解説が伊藤整。
    まず『雪国』は『枕草子』の系譜にあると述べられる。
    「『枕草子』にある区別と分析と抒情との微妙な混淆を、どこの国にもとめることができよう。『雪国』はその道を歩いている。『枕草子』の脈は、私は俳諧に来ていると思う。それは和歌の曲線を不正確として避けた芭蕉、いなそれよりももっと蕪村に近いあたりをとおり、現代の新傾向の俳句の多くにつながる美の精神である。そして、突然泉鏡花において散文にほとばしり、それ以後散文精神という仮装をして現れた物語文学に押しのけられ、押しつぶされて消えそうになりながら消えず、文学の疲労と倦怠の隙間ごとに明滅していたが、川端康成において、新しい現代人の中に、虹のように完成して中空にかかった。」
    『雪国』について、具体的には、
    「島村のまわりに作られる世界は、現実の描写が、雪や家屋や風俗や虫などでかこまれていながら、ほとんど抽象に近くなっている。人間の中から、激しい思念や、きびしい呼声や、もっとも細かな真心からの願いなどのみを取り、外の無意味な具体性を棄ててしまう。」「島村はその感覚する『美』の一点においてしか生活していない。」
    そして最後はこんな文章で締められる。
    「生きることに切羽つまっている女と、その切羽詰りかたの美しさに触れて戦いている島村の感覚との対立が、次第に悲劇的な結末をこの作品の進行過程に生んで行く。そしてその過程が美の抽出に耐えられない暗さになる前でこの作品は終らねばならぬ運命を持っているのである。」

    「枕草子」~「俳諧」~「俳句」の系譜にあるというのは面白いなあ。
    確かに感覚的というか詩的というか、ストーリー性のあるお話ではないから納得する部分もあり、でもよくわからないとこもあり…かなあ。

    ちなみに駒子のセリフが、映画『山の音』の原節子の言葉遣いとそっくりだった(時代…しかも同じ作者…)。駒子のセリフを読みながら、原節子の口調が頭の中で蘇るのだった。

  • 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」に始まり、「国境の山を北から登って、長いトンネルを通り抜けてみると、冬の午後の薄光りはその地中の闇へ吸い取られてしまったかのように、また古ぼけた汽車は明るい殻をトンネルに脱ぎ落としてきたかのように、もう峰と峰との間から暮色の立ちはじめる山峡を下っていくのだった。こちら側にはまだ雪がなかった。」で帰京。
    主人公の島村も芸者の駒子もお互いに成就しない恋と分かっている関係が素直な行動や離別を選択させない。しかし、最後の葉子のシーンで現実に引き戻され、やはり一緒になれない事を強く思い出させる。
    美しくて具体的な表現にあたかも自分が追体験しているような、そして淡い恋心がよみがえる。
    川端康成は2・3歳で父と母、7歳で祖母、15歳までに姉と祖父を亡くしている。68年にノーベル文学賞を受賞、当時三島由紀夫と共に候補者だった。その後、彼を追うように72年に自殺。
    作品の美しさや透明感と裏腹に悲しい人生だ。いや、悲しい人生ゆえに生み出された純粋な文学と言える。

  • 雪のシンシンとした美しい情景が目に浮かんだ。

全813件中 11 - 20件を表示

著者プロフィール

一八九九(明治三十二)年、大阪生まれ。幼くして父母を失い、十五歳で祖父も失って孤児となり、叔父に引き取られる。東京帝国大学国文学科卒業。東大在学中に同人誌「新思潮」の第六次を発刊し、菊池寛らの好評を得て文壇に登場する。一九二六(大正十五・昭和元)年に発表した『伊豆の踊子』以来、昭和文壇の第一人者として『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』などを発表。六八(昭和四十三)年、日本人初のノーベル文学賞を受賞。七二(昭和四十七)年四月、自殺。

「2022年 『川端康成異相短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

川端康成の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×