- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101001074
作品紹介・あらすじ
舞台の夢をあきらめた過去の舞姫波子と、まだプリマドンナにならない未来の舞姫品子の母子。もとは妻の家庭教師であり、妻にたかって生きてきた無気力なエゴイストの夫矢木と両親に否定的な息子高男。たがいに嫌悪から結びついているような家族の中に、敗戦後、徐々に崩壊過程をたどる日本の"家"と、無気力な現代人の悲劇とを描きだして異様な現実感をもつ作品。
感想・レビュー・書評
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敬愛する川端康成、唯一この作品だけは自分にハマらなかった。
説明を省いたシンプルな文体は相変わらずだが、この作品からはテンポも省かれているのか掴み所が無い。
古風な日本人家族、そしてそこから広がらない閉塞的な舞台が要因なのかと推察。
景色や人の機微の美しさをもう少し感じたかった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
まず舞姫というタイトルが良い。物語は、舞台の夢を諦めた波子とその娘の品子を中心に描かれているが、時に冷たく、時に切なく、様々な苦悩が入り混じった読み応えのある作品だと思う。
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個人的には、「雪国」よりこの作品が好きです。(「伊豆の踊り子」は別格)
なぜなら、太宰の「斜陽」に似た、静かな崩壊系が大好きなテーマだからです。
この作品は、静かに壊れていく様子を冷静につづっているのです。
ストーリーは、戦後、お嬢様バレリーナだったお母さんと、バレリーナの夢を託される娘、お金ないダメな大学教授のだんなさん、間に挟まれる息子。
お母さんは、つまり、精神的に浮気しております。
でもそれは決定的でない。プラトニックだからね。
だけど、周囲はだんだん気がつき始めます。
でも別に、お母さんの恋が原因で、家族のなんとなーくの不協和がはじまったんでもないの。
何が理由かみんなわからないのだけれど、違和感があるんですよ。
どうしてかしらねえ、、、、、
で、お話終わり、みたいな。
恋愛も結婚生活の終わりも、なんだって、終わりは、なんとなくやってくると思うのです。
そこに、理由なんて無い。
ただ、崩壊に向かうだけ。
淋しくも悲しくも無い。
そんな感じ。「斜陽」よりもあっさりと、崩壊を描いていて、好きです。 -
戦後日本の家庭の物語。登場人物それぞれが無力感を抱え、悩みながら生きている。最終的に各人の苦しみが解消される場面は描かれず、この先どうなったのか気になる終わり方。戦後日本の価値観、男女の葛藤、経済的転落が描かれる。
波子さんは綺麗な人なんだろうな。矢木は嫌な感じのする男だが、その背景には結婚生活での彼なりの葛藤があったのだろう。 -
解説が三島由紀夫で、思わず解説に飛びついて一気読みしてしまった。
淡々と現象を書いている小説で、登場人物の心理を推し量ることが必要だが、それが想像力を刺激し魅力となっているのだと思った。
川端康成の美とは、解説まで読んで欲しい。 -
この作品に登場する人達は皆、強い虚無感を感じていて誰一人、幸せそうではない。矢木、妻の波子、娘の品子、息子の高男の一家は今にも崩壊しそうな家族であり、彼等を結び付けているのは嫌悪という情だけ。波子の愛人である竹原も何処か虚ろだ。惰性で繋がっている関係であるのに積極的にそれを断ち切れない悲しさや弱さが人間らしいとも言える。全体的に陰鬱な、索漠とした作品。川端康成の骨董趣味が垣間見得るのも面白い。三島由紀夫の解説も良かった。
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戦後の日本では貴族(華族)制度が撤廃されたため
かつての貴族たちは、世襲財産保護の特権を失うことになった
中でも、芸術などに夢を見て
まともな生活能力を身につけなかった者たちは
贅沢に慣れた身ゆえ、浪費をあらためることもできず
とりあえずは家財道具を売り払って食っていくしかなかった
こういう没落貴族を題材にした小説には
太宰治の「斜陽」や、三島由紀夫の初期作品のほかに
この、川端康成の「舞姫」などがあげられるだろう
芸術評論家の矢木元夫と、舞踏家の矢木波子は夫婦である
しかし戦争が終わってからというもの、その関係は冷え込む一方だった
上流家庭に生まれ、贅沢が当たり前になってる妻と
もともと書生あがりの入り婿で、ケチな性格をしてる夫では
まあ合わないのも当然なんだけど
それであんがい、日本が戦争に負けるまで
黙ってさえいれば家庭内のバランスは上手くとれていた
戦後、家計が苦しくなるにつれ
互いに抱えた夫婦の不満も、徐々に噴出してくるのだが
そこでまず明らかになったのは、家族観の違いである
たとえバラバラになっても、家族は家族だという夫に対して
妻は嫌悪感をつのらせることしかできなかった
そこに露呈されたのは
自由平等を建前とする社会に隠蔽されてなお存在する階級意識であり
また、異なる階級の考え方をけして認めない人間というものの
ひとつの原理であった
そういう現実にひざまづき、受け入れることを仏の道と呼ぶならば
それに逆らうことはたしかに魔道と呼べるわけだ