みずうみ (新潮文庫)

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  • / ISBN・EAN: 9784101001180

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  • 美しい女の魔力に憑かれた男は、執拗に女のあとをつける。
    男の中で美女への暗い情念が渦巻いている。自身の足の醜さがゆえに美しい女を追い求めるのだろうか。
    男はしだいに幻覚をみる。幻が彼を覆い非現実の世界に迷い込んでゆく。

    まるで魔界が物語の中で漂っているかのようだ。

  • ストーカー、あとをつけるスリル、つけられるスリル。気味の悪い物語である。時間軸もひとつではないし、どの箇所が現実で幻想なのかも釈然としない。もしかしたら、これは全部幻想なのかもしれないし、すべて現実なのかもしれない。

    男と女、追う追われる関係。最後には、追うはずの男が女に追われている。逆さまの世界。この物語をどう評価すべきなのか、読みおえていまだに処理のしようがないが、物語の核たる箇所があるとすれば、おそらくは主人公の男が語った一節だろう。男はこう言う。

    「君はおぼえはないかね。ゆきずりの人にゆきずりに別れてしまって、ああ惜しいという・・・僕にはよくある。(中略)そのまま別れるともう一生に二度と見かけることは出来ないんだ。かと言って、知らない人を呼びとめることも話しかけることも出来ない。人生ってこんなものか。(中略)この世の果てまで後をつけてゆきたいが、そうもできない。この世の果てまで後をつけるというと、その人を殺してしまうしかないんだからね。」

    男は最後に、あとを追ってきたゆきずりの女と酒を飲む。ゆきずりのままではなく。人間は孤独で、そう運命づけられているから、物語の男女は追い追われることに悦びを見出すとでも言いたげに。

    男の思い出には、いつもみずうみと孤独がある。愛への渇望がある。ときどきなにかの拍子に、ある人の瞳に、ショーウインドウのガラスに、そのみずうみを想う。男は言う。「水にうつる二人の姿は永遠に離れないでどこまでも行くように思われた」。非常に物悲しく美しい筆致で、わたしの目にも男の想うみずうみが映る。霧に包まれた静寂のなかで、そのみずうみは枯れることなく男の心にあるのだろう。

  • 美しく好みの女性をみると、見境なく粘着的に尾行をはじめるという困った男を中心に、その周りから発生するエロス的出来事をオムニバス様に描き出す。醜と美の対比、堕と美の対比を川端的言い回しで幻想的現実感をもって展開しているといってよいだろう。この男の振る舞いは普通の感覚なら嫌悪感を抱かずにはいられないのだが、それがまた女性美を際立たせる意味を持っているのではないかと思った。一方で、男の幻想的感覚は少し突飛すぎてかなりわかりづらい部分もある反面、羨ましい「性格」だなとも思った。(笑)また、川端は単純に女性美を際立たせているわけでもない。そうした女性たちのあざとさを裏腹として描くところが興味深いところだ。
    解説は、これまた幻想的な女体美を描く中村真一郎。川端文学の中での位置づけがよくわかりました。

  • 今まで抱いていた川端康成のイメージとはちょっと違った。

    銀平は教え子と交際したり、見知らぬ女性を付け回したりするのだけど、そこに罪の意識は存在していない。
    ただ銀平に起きる衝動を捉え続けている。

    銀平も有田老人も歳の離れた美少女に恋というより母性、拠り所を求めている気がする。

    とっ散らかったイメージもあるけど、銀平をめぐる少女たちの群像劇のようでもあり、銀平の行く末から目が離せなかった。

  • ・19歳のころに初読。20年後の今回は再読。
    ・当時は自己実現的にも性的にも鬱屈していたので、喰らった。
    ・以来時々思い返していた作品。がミヒャエル・ハネケ「ファニーゲーム」と同じく、再読や再鑑賞したくないと思うものほど、深く突き刺さっているものだ。
    ・ええオッサンになって読み返したら、青年当時の苛々が蘇った……そんな青春だったのだな。

    ・文庫は新仮名表記なので「みずうみ」だが、旧仮名だと「みづうみ」。タイトルくらいは旧仮名でいいのに。検索しづらいじゃないか。
    ・全12回で「新潮」に連載。多くの代表作のように数ページ単位の行空きやサブタイトルがなく、行空きは3か所のみ。つまり4部構成。というのは「意識の流れ」を途切れさせないようにするためか。
    ・4部構成といっても時系列も場所も錯綜していて……朦朧と書き連ねたんだろうな。
    ・これを55歳で書くとは……。60代の「古都」も睡眠薬で朦朧と書いたというから、本作も似た執筆環境だったのかな。
    ・ちなみに「水晶幻想」ー「みづうみ」ー「眠れる美女」という線があるんだとか。
    ・積んでいる「水晶幻想」がますます楽しみになった。川端康成っていったらやっぱりこっちの路線が好きだな。「美しい日本の私」じゃないお前をこそ讃美したいのだよ>バタ。
    ・ノーベル文学賞受賞時点では翻訳されていなかったらしい。きっと選考委員たちは、ジャパン、キョウト、ゲイシャ、とオリエンタリズムで選んだんだろうな。そんな彼らに本作を送ってやりたい。「糞でも喰らえ」ではないが「魔界でも喰らえ」か。

    ・内容について。
    ・「キモい」「ヘンタイ」という一言で切り捨てることもできるのだが、銀平が他人事ではないと感じた者にとっては、切実で、美しい箇所が、いくつも。
    ・清らかな少女を追ってしまうのは、記憶の中で、少年時代の従姉やよいを、繰り返し繰り返し回想しているから(わだかまり・コンプレックス)。中年男性の心の中に、「魔法少女まどかマギカ」でいうところの暁美ほむらがいるのだ。執念、我執、執着、こだわり、愛着と牢獄。幻覚まで見聞きするくらいに。この幻覚の恐ろしく美しいことよ。赤ん坊の幻覚なんて、自身の捨て子意識……妻の流産続き……やはり自分は呪われているのかという……。
    ・やよいの住む、母の実家の近くの湖が、原風景として何度も何度も登場するわけだが、その都度美しいと感じた。「キモカッコゲイ」「キモヤカ」とは「涼宮ハルヒの憂鬱」の古泉一樹を評したニコニコ動画のコメントの一例だが、本作は「キモ美しい」。
    ・エドガー・アラン・ポーのアナベル・リーを思い出したのは、「湖のほとり」だからだろうか。

    ・とまれ、卑小な魔も突き詰めれば美に位相転換する、実例を示した小説、ともいえる。
    ・追う側の一人称に設定すれば、より意識の流れ駄々洩れにできたろうに、三人称視点=神の視点を設定した。ゆえに、追われる側の生活も描かれる。銀平は後退。
    ・また、宮子を囲う有田老人は自分の未来を描こうとしたのか>バタやん。ますます銀平の卑小さが対比される。とはいえ有田も中盤以降は言及されるだけだから、小説的端正さとか構成とかは、もうどうでもいいのだ。
    ・たぶん、本来なら別々の場所で交わることのなかった宮子と町枝の中間に、偶然銀平が位置してしまうという設定は、書いているうちに思いついたのではないか。それくらい行き当たりばったりな筆致。視点や人称も破綻しかねない……というかしている……近代的・理屈っぽい三島由紀夫には許せなかった朦朧なんだろうな。
    ・ちなみに、中年として魅力・活力を失っていく銀平の滑稽さ・トホホ感は、狙って書かれていると思うが(殴られて土手だか草地だかに倒れ伏すあたり)、その極点に、焦がれた少女町枝に相手にされないというのに、その美しい眼の「黒いみずうみに裸で泳ぎたい」と憧憬・絶望のうちに思うあたり、笑えると同時に泣けるくらい凄い。名場面。
    ・果たして川端がロリコンかどうかという議論については、ざっくりいえばロリコンだけど少女性的搾取者というよりは少年少女憧憬者だ、という込み入った意見を持つ者だが(それはルイス・キャロル、宮崎駿、藤子・F・不二雄、バルテュスetc……愛好する芸術家に通じる心性)、銀平≒川端≒私とニアリーイコールで結び付けたいくらいに共感してしまう。いや、ストーキングなんかしたことないけど。
    ・「キモい」要因のひとつに、銀平が発作的ストーカーという魔を発動する条件として、相手の少女にも魔が備わっていて銀平は共振したに過ぎないのだという「言い訳」を、55歳のオッサンが書いている、という点がありそう。それは……まあ……そうです……スミマセン……。
    ・「キモ美しい」滑稽さを際立たせるポイントとして、足の醜さへのコンプレックスが繰り返し言及される。しつこいくらいに。足フェチっつったら谷崎潤一郎だが、バタもその点負けてはいない、女性を部品に分解して、凝視・熟視・凝望・注視・ぎろぎろ・見詰め・見入り・睨み・じっと見る、その反転的自己嫌悪を、銀平に付与したんだろう(だって女って骨董の手触りに過ぎないし……。てのは私ではなくバタの意見)。(このへん、西村賢太によるセルフプロデュースに似ていると感じたが、果たして西村賢太は川端康成をどう評価していたのだろうか?)
    ・つい谷崎を引き合いにしてしまったが、本作は「反橋」と絡めて川端流「母恋い」でもある。多層的。
    ・解説の中村真一郎も、似た癖を抱えているのではないか。わかるよ。3人でスクラム組もうや。

    ・ところで本作、「ハーレムもの」という読みもできはしないか。銀平が過去から現在にかけて関係を持ってきた女性たちの思い出。(遠過去)やよい、(近過去)久子、(現在)湯女、宮子、町枝、ゴム長靴の女。
    ・で、「裏ハーレムもの」としての、有田老人の存在。宮子、家政婦の梅子、宮子の女中のたつの娘のさち子。
    ・バタ……やっぱり女好きだね。それも直球ではなく、迂遠に。「メイドインアビス」のレグなら「度し難い」というだろうが、「度」とは仏教用語で仏による悟りの道への救済を意味する「済度」のこと。つまり仏様でも救いようがないということである。
    ・「仏界入り易く、魔界入り難し」……幼稚なレグの感想など、一重にも二重にも越えた「業深」爺・川端康成の、最高傑作だと思う。
    ・ちなみに「川端康成 みずうみ 分析」などで検索したら、
    https://core.ac.uk/download/pdf/144445929.pdf
    https://core.ac.uk/download/pdf/230561063.pdf
    などの論文がヒットした。なんでも連載時は冒頭とラストが円環構造をなしていた、にもかかわらずバタは円環を解体していわば投げっぱなし・未完っぽいラストにすることで、余韻を出そうとしたんだとか……はい、あなたの術中で酩酊しております>バタさま……(ひれ伏し)。

  • まず、他の川端作品とは書き方がだいぶ異なることを言う必要があると思う。私の意見だが、「山の音」にしろ「千羽鶴」にしろ多くの掌・小・中編にしろ、川端は人物の心理を一から十まで書かない。どこかでふっと漏れるたった一つを書いて残りは読者に読ませる。それが読めるのは背景の構成の巧さゆえだと思うが、いずれにしても、書かない心理を伝えるのが川端文学の特徴と思っている。「何故かこの人の気持ちが伝わってくる...!」これが川端文学である。本当に凄いと思う。

    さて当の「みずうみ」だが、もうびっしり心理を書いてくる。とても「山の音」を書いたのと同じ人が書いたとは思えない。足の指の長さやら二の腕の付け根の丸みといった病的に細かい身体への審美的執着が無ければ、これが川端文学とすら思えなかっただろう。情緒が入る余白など全く無い、それこそ湖に沈んでいくような息の詰まる世界だった。

    しかしこの作品で書かれていないこともあると気づいた。それは背景、特に人物関係だ。読んでいくと、「あれ?もしかしてこの時のこの人ってあの人?」というような人間関係がいくつかあるのだが、真実は全く語られない。というか徹底的に一人称視点のため本人は知る由もないのだ。作者は物語を〝心理″で埋め尽くして、逆に〝事実″に余白を作ったのかな、と思った。(書いていて思いましたが、主観的心象と客観的事象は本質的に両立し得ないものかもしれませんね。)

    もう一つ加えると、丹念に心理を記述したことで読者が人物、特にストーカー男の心理がいつのまにか受け入れられるように書かれている。はっきり言って、最初の時点でここまで嫌な男主人公もいないと思う。確かに川端の書く男は多分に女々しくヒネているが、読んでいてここまで嫌悪感があるのは武者小路実篤か鴎外か堀辰雄(...完全に個人の好みで作家その人を悪く言う意図は皆無です)以外では規格外だ。しかし恐ろしいことに、後半になるとこの男なりの愛というか純粋さが理解できてきてしまうのだ。これこそはねっとりじっとりと心理ばかりを描いた功績だろう。人物に共感できる川端作品なんて、本作以外ではちょっと思いつかない。

  • 私の中では川端オルタと呼びたい。

    学生時代に課題図書として、何度も何度も銀平とストーキングしたものです。
    よく友人と「人の足が汚いかどうかが気になってくるよね」と言っておりました。
    ふと、再読すると何か感触が変わるかしらと思ってみたけど、やっぱり変わらん!

    ただ、解説の中村真一郎の言う「夢」というイメージがふわふわ漂う。
    キャラクターのどぎつい小説なのに、ふわふわしているのだ。

    故郷を失った男は、定まることが出来ない。
    醜いものは全てみずうみに飲み込まれていった。
    醜い父は殺され、美しい母は逃げてゆく。
    銀平が自己を意識するのは「醜い足」でしかない。

    その足で、彼は美少女を追いかけ続ける。
    夢か現実か分からない倒錯の中、自身の教員という地位をなげうってまで、彼は堕ち続ける。
    その行為は所謂ストーキングであるが、彼につけられる女は、聖性を持つ少女と魔性を持つ女に分けられる。
    けれど、聖性も魔性も、少女の持つアンビバレンスな魅力だとも言える。

    銀平の追いかけるものは何なのか。
    母性か、理想か、故郷か。
    定まらぬ足を引きずりながら、彷徨う彼を何度も読む度に、切なく寂しくなる。

  • 桃井銀平(34歳)は訪れた軽井沢でトルコ風呂に入りながら、跡を付けたらハンドバッグで殴ってきた女を、さらに以前付き合った教え子・玉木久子を回想していた。

    母方のいとこのやよい、久子…複数の女性と歪んだ関係しか持てなかった銀平は、次は柴犬を散歩させていた少女をつける。

    銀平もなかなか気持ち悪いけど宮子(ハンドバッグで殴ってきた女)のパトロンの有田老人も気持ち悪い。

    でも読む手は止まらない。銀平がストーカーを止められないように。

    昭和の仄暗いみずうみとそのみずうみのような人間関係に引き込まれた。

    ***************************************
    私が読んだのは電子版なんですが電子版のあらすじには

    「異色の変態小説でありながら、ノーベル賞作家ならではの圧倒的筆力により共感すら呼び起こす不朽の名作である。」

    とあるんですが、共感…共感はできなかったなぁ。異色の変態小説とノーベル賞作家はパワーワードすぎる。

    図書館で旧版と新版を借りてあらすじを確認したんですが内容が変わっていて、Amazonだと、kindle(電子)、aubible(旧版)、文庫(新版)とどうして変えたんでしょうね。

  • ストーカーの話。
    今でこそ、ストーカーという単語まで存在し、一般的な概念だが、これがいつ創作されたかを考えるとやっぱり川端康成はすごいと思った。
    そして、雪国に続き川端作品は2冊目だが、隠喩が多く、一回読んでも理解できた気にならず、続けて再読した。
    読み終わった後でも、気になるのが、みずうみが何を象徴しているのか。はっきりと掴みきれない。

    教え子と禁じられた関係になることで、教職を追われた桃井銀平が3人の女性をストーカーする際の心持を描く。ストーカー発覚を恐れ、隠れ暮らしていた銀平が、辿りついたトルコ風呂で、湯女を相手に独りごとをつぶやくモノローグから始まる。そこで、ストーカーが、行きずりでもう会えない人との邂逅を惜しんで、あきらめきれずに追跡してしまう行為であると核心を語る。だが、この作品では、1人は教え子であり知り合いである。

    興味深いのは、ストーカーされる側にも、複雑な事情を持つ女性が多いということだ。女生徒久子は父の裏稼業、宮子は祖父ほどの年齢の男性の妾、町枝は交際相手の親から反対されている。それが、一種ミステリアスな雰囲気を人に帯びさせるのだろうか。そして、最後には逆に銀平がつけられる。当時の銀平は、ストーカーから派生した罪で捕まえられるのを恐れていたから、ストーカーを引き寄せたのだろうか?

    38ページのクモの巣と86ページの父の幽霊に関しては、同じことを言っている様な気がする。
    近づけば、からめとられ、やられる。
    だから、怖くて、知り合いである教え子にもストーカーしてしまうのであろうか?

    ストーカーの恐ろしさの真髄は、その止められないところ、盲執にあると語っていると思われる部分が何か所もある。
    醜い足をもった銀平が、ストーカーを水虫の様なものだと32ページで語る。興味深いのは、担当のクラスには僕は水虫じゃないと宣言し、ストーキング対象である久子には水虫持ちであると嘘をつく。水虫=ストーカーと変換すると、興味深い。

    幽霊に関しては、もう一つ意味しているのではないかと思う個所が138ページにある。幽霊は足がないはずと思った後に、自分の足もすでにこの世の土を踏んでいないのかもと自問自答。対象になる銀平の足は醜い。醜くても生きている、ととるべきか、醜く歪んだ生き方の象徴そのものととるべきか、それとも生きていないのか。そして自分の子供に足の醜さが遺伝するはずと語ることで、つまり湖で自殺した父親もなんらかの盲執にとりつかれて醜い足をしており、それが遺伝したことを暗示しているのか?

    最初のストーカーの相手である従姉妹のやよい。
    彼女と故郷の湖を散歩しているとき、湖に桜が映り込んでやよいが怖がるシーンがある。湖が桜を取り込んで逃さない様に思えた?やよいは、銀平が父親の仇探しにとりつかれることが無意識にこわかったのかもしれない。

    後述する、犬が殺したねずみの遺棄先がみずうみ、そして、銀平は町枝の黒い瞳のみずうみで泳ぎたいと願う。
    wikiの解説では、川端さん自身が、「水には時がない」と記している前書きがあるらしい。
    とりこまれた者は、時間による制限がなく、一生とらえられたままということで、水虫とリンクした、ストーカーを魅了する側の象徴であろうか?そして、もちろん、水はとらえきれない。

    最後に向かって、銀平は、ストーカーを嫌悪して、その悪習からの脱却を試みているように思う。
    76ページで、一度ねずみを捕まえて、その喜びに固執して、ねずみを探し続ける犬に嫌悪感を感じているし、タクシーの後部座席から見るガラス越しの景色は青で、運転手側のガラスを通さない景色は桃色がかっている所で、現実の方が美しいと感じている銀平がいるのではないか?と思う。そして、銀平がいつも心に描く、故郷の山は桃色と紫がかって美しい。これは、母親とすごした頃の希望の世界を象徴しているのではないか?

    そして、最後のストーカー対象者である町枝は、蛍狩りでも遭遇することができ、そして名前を知ることもできて、それだけで十分現実世界で縁があると記述してある。
    足のコンプレックスにより、縁深い相手との関係も逃してしまう銀平。それどころか、彼女が入院中の恋人に贈りたがっている蛍をこっそりと彼女に上げて立ち去る銀平。その後、ストーカーされた汚い女を現実、町枝を夢幻と対比させる。町枝を夢とすぐ前でも表現しているが、その時は、夢現と表現しており、銀平が現実はこんなものだと悟ったことで現→幻の転換が図れたということだろうか?
    そして、「幽霊としても平凡だぞ」と独りごちる。幽霊とは、つまり、ここにきて、現実と向かい合うことができず、ストーキング対象者からも認識されないこともある生きているのか、生きていないかも明らかでない幻の様な存在の象徴ではないかと思った。

    そして、深読みしすぎかもしれないが、銀平が町枝に贈る蛍。蛍は暗闇で見ると幻想的な光で確かに美しいが、光の中で見ると黒い虫である。現実社会では美しくなくて、幻を同じく意味しているのだろうか?

    雪国と同じで、川端さんは何度も違う比喩を使って、同じ事を言う傾向にある。それが伝えたいことであろうか?そして、現実と向かい合えない人間を描くことが多いのであろうか?どうにしろ、気になる作家さんである。

  • 読んでびっくり、ストーカー、未成年者との不純行為、置き引き。
    しかし、そこは川端康成の佳麗な文章で、書かれたのが昔も昔1954年なので。

    ま、現代でなくとも警察沙汰になるような、一人の男のモノローグ的な小説。
    「桃井銀平」それがこの男の名前だからして、なんだかすごいなあ。

    で、銀平さんが軽井沢の古着屋でズボンやワイシャツ、セーターを、おまけにレイン・コオトまで、置き引きしたハンドバック中のお金で買いこみ、着かえるところから始まる。

    「置き引き」としたけれども、要は妙齢の気になる女性をストーカーして気味悪がられ、女性が投げつけたハンドバックを持ってきてしまったのだ、ということが明かされていく。女性の後を付けていく趣味(?)の始まりは、教え子との恋愛での戯れに始まったとか。

    その不道徳きわみない、彼の行動や想いが独白風「意識の流れ」となって綴られていて、だけれども、そんじょそこらのだれかれには書けないだろう、美麗というか、シュールというか、許せねえけども川端康成文学だねえ。

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著者プロフィール

一八九九(明治三十二)年、大阪生まれ。幼くして父母を失い、十五歳で祖父も失って孤児となり、叔父に引き取られる。東京帝国大学国文学科卒業。東大在学中に同人誌「新思潮」の第六次を発刊し、菊池寛らの好評を得て文壇に登場する。一九二六(大正十五・昭和元)年に発表した『伊豆の踊子』以来、昭和文壇の第一人者として『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』などを発表。六八(昭和四十三)年、日本人初のノーベル文学賞を受賞。七二(昭和四十七)年四月、自殺。

「2022年 『川端康成異相短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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